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第十五話

 カイエン、旅、しようぜ。


 昔どんな言葉で誘われたのか、今更になって思い返すことになるとは思わなかった。

 いや、そもそも思い返す暇がなかったのか、思い返そうという気持ちにならなかったというべきか。


(何だ、これは走馬燈か)


 カイエンはたゆたう海の中にいた。

 違う。海ではない。

 体の心地が付かぬような、暗闇の中に寝転がっており、なんだか動くのも気だるげで、目だけをずっと閉じて横たわっていたかった。


 なるほど、カイエンは死に瀕したのは初めてのことである。

 死の狭間とはこのような気分になるのかもしれない。


(頭は冴え動く。考え事はいくらでもできる。しかし目を動かしたくもないしこのまま眠りにつきたい気だるさだ)


 奇妙な感覚であった。

 何もしたくない、ただ寝入りたいと思うような気持ち。

 そして痛覚も触覚も、何もかもが働いてないかのような取り残された気分。


 おかげでカイエンは何も感じぬ。

 何も感じぬから、たゆたう海にいる気分になる。


(死後の世界は海である。……確か、母が教えてくれた言葉だったか)


 なるほど、昔の知識人は言い得て妙な言葉を残したようだ。

 昔死んだカイエンの母は、このような海に帰ったのだろうか。


 これほど優しい眠りの死なら、母の最期は安らかだったに違いない。

 カイエンはそれを思うと、ほっそり美しい死に顔で旅立った母に安心するのだった。


(父は、未だに農地持ちの衛兵をしているだろうか。兄が跡を継ぐのだろうか)


 取り留めのない思い出を思い返すたびに、言いようもなく懐かしい気持ちがカイエンを感傷に浸らせる。

 感傷は、きっと人の心で最も強い気持ちに違いない。

 何故なら、並大抵で泣かないカイエンの気持ちを、未だに泣かせるのは感傷なのだから。


(……死後の海で思い出した。クラッドだ)


 思い出しながらカイエンは自分の不謹慎さに笑った。

 最初にクラッドに旅に誘われた言葉を思い返しておきながら、それを差し置いて今の今まで家族を思い返しておいて、ふと、死後の海というフレーズについて考えたら死と言えば友、みたいにクラッドを連想する。

 これではまるで、クラッドと言えば死、と結びつけているようではないか。


 カイエンはそこまで考えて、もしかしたらそうなのかもな、と思い直した。


 友の死は鮮明だった。

 友といえば死んだ、と自分に言い聞かせねばならないほどに、クラッドの死はカイエンにとって大きいことだった。


(あの三年間は、きっと、俺の全てだった)


 つまらぬ農業ではなく、世界をみたいと力説し、冒険者になったカイエン。

 一年ほど一人で冒険し、一回り大きくなったと自負していたあの頃。


 カイエンはクラッドと出会った。


(最初は馬鹿馬鹿しい喧嘩だったな)


 そう、最初は喧嘩だ。

 飲み屋でとある冒険者が獣人の店員に手ひどい差別用語を浴びせかけたあの瞬間だ。クラッドは「ふざけんなてめえ!」と冒険者に殴りかかり、俺は獣人の娘をさり気なく奥の厨房にかばったのだ。

 そしたらクラッドは「おめえもだ!」とか殴りかかったのだ。


 どうやらクラッドは、俺のことを勘違いしてたようだ。

 俺たち竜人族も、獣人族とは別の種族、俺が獣人族の娘に手をあげようとしたように見えたらしい。


 後ですまんと詫び入るクラッドと初めてお互いに知り合ったのが、この喧嘩だった。


(だが、一度クラッドと一緒に討伐依頼を受けてみると、案外会話が弾んだものだった)


 確かゴブリンの巣を駆除しようとしたときだ。

 クラッドが突然「ああ、キャシーちゃん辞めちまった」とかぼやいているその名前に思わず反応してしまったのだ。


 キャシーちゃんというのは、いわゆるオーガ族の娼婦なのだが、なぜか隠れた人気があった。

 カイエンよりも身長の高いキャシーちゃんだったが、彼女には何度もお世話になった身分だ。


 クラッドもまた、こちらの反応を見て「お前まさか」と奇妙な沈黙が始まり、突如二人して大爆笑したものだった。


 ゴブリンの巣を駆除した後、ならば友誼を結ぼうと、酒屋で打ち上げを行い、二人で馬鹿騒ぎして「おいてめえ! 下の方の蛇は竜も真っ青なんだろうな!」「うるせえな、お前も下の獣出してみろ! 牙比べと洒落込むぞ!」だなんて店で騒いだものだ。

 あの獣人の店員がすっ飛んできて顔を赤くしながら「次やったら駄目ですからね!」と説教賜ったという次第だ。


(本当に馬鹿馬鹿しい話だ。あの時の騒ぎから「じゃあ俺たちは「牙二つ」だ!」とパーティー名が決まったのも懐かしい話だ)


 そう、牙二つというのは、パーティーに牙が二本ある、という意味なのだった。

 牙は二つから増やさない、むさ苦しくてかなわん、次は牙じゃなくて女を誘おう、という馬鹿な話をしたことも懐かしい。


(ああ、あの日から三年間が始まったのか)


 カイエンは、あの三年間を振り返った。


 最初に力試しとして、二人とも見栄を張ってトロール討伐を受注して失敗した。飲み屋の娘にしこたま怒られた。


 次は反省を活かしてワイルドボアに討伐レベルを落として、二人で狩って、張り切りすぎて素材を駄目にして失敗した。飲み屋の娘に笑われた。


 今度こそ適正難易度のキラーアントを狩りまくった。三日に一回大量に素材を売り出すことを二ヶ月続けてたら「蟻のあいつら」とか笑われて、クラッドと一緒に憤慨した。


 ある時はナイトハーピーを狩りまくった。死体で遊んで二人で爆笑して、ああ感じ悪いな、となって不謹慎さに自重したことがある。


 クラッドの誕生日、あいつが好きな娼婦に無理を言って一晩をくれてやったことがある。そしたらクラッドのやつが「てめえいきなり宿の部屋に女が来て焦っただろうが!」と訳の分からん怒られかたをされたことがある。ちなみに同じ事を仕返しされた。クラッドのやつが聞き耳を立ててやがったので後でぶん殴ったものだ。


 飲み屋の娘が結婚すると聞いて、二人で飲み明かしたことがある。正直クラッドもカイエンも惚れていたので、「結局俺らの牙勝負はお預けだな!」とか言い出したものだから、「よしじゃあ今するか! おいどっちの牙がいい!」「ああ? 蛇よか獣に決まってんだろ!」と服を脱ぎ出す馬鹿騒ぎになってしまった。飲み屋の娘に思いっ切り怒られ、でもそのあと娘に爆笑され、「旦那のが一番です!」と一蹴された。

 その後、その飲み屋で「森熊の 旦那に負ける 牙二つ」と川柳ジョークに槍玉にされて、クラッドと二人で憤慨したというもの。


 砂漠虎を二人で仕留めたとき、あの時は面白かった。ついに二人一人前になったものだと感動し、クラッドと一緒に静かに飲んだものだった。飲み屋の娘も祝福してくれた。森熊の獣人族の飲み屋店主も祝福してくれた。複雑な気分だった。


 二人で一回、トロール討伐に再び挑戦したことがある。

 とても厳しい戦いで、これは次はやらない、割に合わない、と嘆いたものだが、しかし討伐出来てしまった。

 その時二人は大いにはしゃいだ。「俺たち成長したな! 相棒!」「ああ! 何だってやれば出来るもんだな!」とその日も飲み明かした。牙二つの名前が少しだけ有名になったのも、その頃だった。


(懐かしい、本当にいろいろあった)


 カイエンは、ふと、あの三年間に戻りたくなった。


 カイエンはこの五年間、いろんな物を失った。


 この五年間で体力を失った。ずっと奴隷のまま、肉体労働はさせられども、栄養のつく物を食べたわけでも、戦いの場に身をおいたわけでもない。身は錆びた。


 名前も失った。新進気鋭の二人組というあの勢いは、あくまで身内の評価だけであって、世間は突如カイエンたちが消えたとしても騒ぎも何もしない、ただ「あいつら無謀だったから」と思い出したかのようなぽっと出の話になるのみだった。


 そして名誉も失った。クラッドは友を見る目がない無謀者としか扱われなかった。誰もクラッドにそこまで同情しようとも考えなかったし、墓を立てて供養しようとする者はいなかった。カイエンはなおさらひどい。犯罪者として蔑まれ、友を裏切る恥知らずと謗られ、そのまま名前を汚して堕ちた。


 カイエンは、失ったものが多すぎた。

 死ぬのに十分だと思った。


(もう、死に時か。決着は全てついた)


 あの瞬間。

 魔物使いジャジーラとの戦いで、彼の肩までを絶ち裂いた一閃。


 カイエンはほんの少しを取り戻した。


 クラッドの剣と、カイエンの昔の剣が、あの魔物使いジャジーラへの袈裟切り一閃に込められていた。

 間違いなくあの剣は、二つ牙の剣だった。


 あの瞬間カイエンは、間違いなく、三年間と五年間全てを、あの剣に込めていたのだ。


(全て終わった)


 カイエンは、全て終わったことを自覚していた。


(でも、全て終わったのだろうか)


 カイエンは、納得していた。

 しかし、一つだけ些末な引っかかりがあった。


 冒険者になりたい。

 この世に生まれた以上は、名前を残したい。

 あの気持ちの欠片が、カイエンに少しだけ突き刺さる。


 カイエンは、納得はしても満足はしていない。


 カイエンは死にたくなかった、という気持ちに今更ながら気付いた。


(そう、だが人生はそういうもの。仕方がない)


 しかしカイエンは、胸につっかかるこの欠片を、諦めたまま死ぬのも悪くないと思っていた。

 死にたくなかった、という気持ちは、しかしそれでもこのまま死んでもいいと思う気持ちと混ざり合っていた。


 そう、このまま意識を手放すのだ。

 このまま眠れば死ねる。

 そうすれば、きっとカイエンは心地よいこの瞬間を最期に、全てを終えるのだから。


(……死ねない)


 しかし、いつまでもカイエンは死ねなかった。


(駄目だ、死ねない)


 ずっと眠ろうと思っているのに、ずっとこのまま意識を手放そうとしているのに、カイエンは死ねなかった。


 諦めてしまおうと思っているのに、それでも冒険したい、名を残したい、という気持ちの欠片がどこかに残って引っかかっている。


 死ねない。

 死ねないまま、意識だけ冴え渡り、カイエンは暗闇の中にいた。


(死ねない。死ねない。死ねない)


 カイエンは、いつの間にか泣いていた。


(死ねないのか、俺は)


 カイエンはいよいよ、自分の本心を噛み締める羽目になった。

 冒険したかった。

 名前を残したかった。


 カイエンは自分のことをますます嫌いになった。

 友は死んだのに、自分は、馬鹿みたいな奴だと自己嫌悪に捕らわれた。


(何だよ、クラッド、俺、もっと惨めじゃねえか)


 死ねない。

 むしろ、浅ましく生きて、冒険して、名前を残したいと考えている。


 クラッドは笑いながら死んだのに。

 カイエンは自分が情けなくなった。


(クラッド、許せ、死ねない)


 カイエンはいよいよ涙を止められなくなった。


 涙を止められないまま、徐々に声が聞こえるのを感じ取った。

 主人のトシキだか、ミーナだか、ヘティとかだかが名前を呼んでいる。


 呼ばれていた。カイエンはそこに帰るのだと、帰らねばならないのだと、予感した。


 カイエンは自分が死なないことを、死ねないことを、理由もなく、ただ確信した。

 そして、死んではいけないことを、理由もなく思い知った。死ぬものかと決め込んだ。


 カイエンは、それでも心のどこかで死にたかった。

 このまま死なせてくれ、と思う気持ちが、心のどこかで泣いていた。


(なあ、クラッド、俺、お前と、さよならだ)


 カイエンは、死ねないことを心のどこかで苦く悔いた。

 否。

 正確には違う、死にたいのではなく。


 親友クラッドが死んだことに、自分たち「二つ牙」の名誉が汚されたことに、また今更打ちのめされて悲しんでいるだけなのだ。


(死にたい、死にたいぐらい辛いぜ、クラッド。なあ、あばよ、相棒)


 死ねない。

 死ねないまま、生きる。


 その事実にカイエンは涙した。

 悲しみ、寂しさ、悔しさ、懐かしさ、それとも優しさ、いずれとも言い切れない、身の震えるような涙が、カイエンからとめどなく溢れた。


 カイエンにこの八年間は、あまりにも長かった。




 ーーカイエン、旅、しようぜ。


 声がうるさい世界へと目覚めつつある中、カイエンは、思い出の中の声を確かに聞いた。

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