第五話 想い
清潔な感じのする白は、私の好きな色だ。今、白いベッドに寝ている。病院は、白を貴重にしているから、とても落ち着く。
しなちゃん……
誰かが呼びかける声に気がついた。けれど、私はその声が誰なのか、すぐに思い出すことができなかった。でも、ここが病院だということは、何故だか分かる。
「思依茄。」
私は目を開けた。そこには、あの優しい性格とは反対の、何もかもを見抜いてしまうような目があった。整った顔が、私を、じっと見ている。
「優士。」
声が違ったように思ったけど、確かに優士だ。目が充血している。
「良かった。上半身だけなら起き上がっても大丈夫だって、病院の先生が言ってたよ。」優士はそう言って、力無くにっこりと微笑んだ。私の好きな、優士の匂いがする。私は起き上がって、フー…と、長く息を吐いた。
「私、一応生きてるんだね。」
私は、何となくそう言った。
「どうして、そんな言い方するの?」
優士が、悲しそうな顔をして、穏やかに言った。私は、優士の優しさと暖かさに包まれて、とても安心して、胸が一杯になる。
「夢を見たんだ。」
私は、優士の質問には答えずに、今でも明確に覚えているその夢を話すことにした。
「母さんが、どこか暗い所にいて、それを見ている私を、私が見てるの。私は、そこで迷子みたいに不安げな顔でさ迷う母さんを助けてあげたいんだけど、なかなか助けられなくて、近づこうと思ってどんどんその暗闇に向かって行くんだ。でも、その時後ろから私を呼ぶ声がして、振り返ると」
私は彼を見た。
「優士がそこにいた。私は、優士の姿を見るまで、このまま暗闇の中に進んだ方が楽になるんじゃないかって思ってたから、きっと優士は死に向かう私を助けに来てくれたんだね。私は、優士の手を握ってから母さんの手も握って、どんどん明るい方に進んでいって……そこで目が覚めた。」
私を見る優士の顔は、何もかもを許してくれそうな、そんな表情をしている。
あの夢は、私に生きろと言ってくれたんだろうな…
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僕は、何でもなさそうに淡々と夢の話をするしなちゃんが、とても切なく思えた。
僕の心の叫びが通じたんだろうか…?僕は、しなちゃんが気を失っている間中、ずっとずっとしなちゃんの名前を心の中で呼んでいた。
「夢を入れたら三回だね、優士が私の命を救ってくれたの。」
しなちゃんの表情が、柔らかくなった。何も無くなってしまった空っぽのしなちゃんの笑みは、僕を悲しくさせた。
「助けるって、約束したからね。」
僕は椅子をひいて、もっとしなちゃんの側に寄った。しなちゃんが、ぱっちりとした目で、不思議そうに僕を見た。
「思依茄、聞いて欲しいんだけど。」
僕が言うと、しなちゃんはどうしたの改まっちゃってと言って、笑った。まだ色が戻っていない頬に、笑窪ができる。
「しなちゃんはいつも一人で戦ってるけど、もっと、僕を頼って欲しいんだ。」
ほんの少し間があいてから、しなちゃんは「とっても頼りにしてるよ。」と、ゆったり言った。
「でも、それは『親友として』だよね。」
僕は、しなちゃんのあの姿を見て、心が決まった。しなちゃんに、絶対に伝えなければならない。
「僕たちは、ずっと友達として仲良くやってきた。けど、それには限界があると思うんだ。」
しなちゃんが、眉をひそめた。彼女の表情が、みるみる悲しみ一色になっていく。
「…なに……それ…もう私とは仲良くできないってこと?私の家の事情を知ったから、こんなやつとはやっていけないってこと?」
静かにそう言った声が、冷たかった。しなちゃんの声ではないほどに。
「優士は、私が可哀想だと思ってるんだね。私のことを、不幸な子だと思ってるんだね。だとしたら、すごく迷惑だよ。私、そんなことちっとも思って欲しくないし、仲良くできないと思うんだったら、それはそ―――」
僕はいつかの時のように、しなちゃんの言葉を止めた。抱きしめてあげられなかったけど、その代わりに手を握った。しなちゃんの目が見開かれ、手が少し震えた。
「僕は、思依茄の側にいたいんだ。思依茄の心…元通りにならないかもしれないけど、ずっと側にいてあげたい。同情とか、哀れみとか、そんなことで言ってるんじゃない。思依茄のこと、大切に思ってる。思依茄は、僕の中で特別な存在なんだ。」
僕は、しなちゃんの顔を見上げた。しなちゃんは、涙を流していた。鳴咽することも無く、両目からぽろぽろと、止めど無く水滴が零れ落ちる。
泣かないで。そう言って涙を受け止めてあげると、しなちゃんは何度も頷いた。
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優士が私のことをそんなふうに思ってるなんて、一度も考えたことはなかった。私の目から、次々と涙が落ちていった。小さい頃は、そんなこと思ったことも無いのに、あの神陸さんのラブレターを優士が読んでいる姿を見たのを引き金に、訳の分からない苦しみが私を襲ってきた。私の中が不安でいっぱいになって、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。あれがどういう気持ちなのか、さっぱり分からなかった。優士が私のことを抱きしめてくれた時、単に私は幸せだった。心がフワフワした思いで満杯になった。
「思依茄は、どう思ってる?」
優士の少し癖のある、おじさんと同じキレイな金色の髪が、さわさわと風にそよいだ。優士、いつのまにこんなにカッコよくて、背の高い男の子になったんだろう?私は、彼のことをどう思っているんだろう。
「お邪魔いたしまぁ〜す。」
私達が声のした方を見ると、とても中学生の母親とは思えない旭さんがそこに立っていた。いつからいたんだろう…。
「とてもロマンチックなお取り込み中大変申し訳ないのですが、少し思依茄ちゃんとお話しがしたいですぅ〜。」
旭さんは、完璧に今の話を盗み聞きしていたに違いない。私は、今ごろになって真っ赤になった。優士も耳まで赤くなって、口を尖らせながら少し離れた窓辺に向かった。旭さんを見ると、怖いほど満面の笑みを浮かべていた。
「あ、あの…」
旭さんが片目を瞑る。彼女はウィンクが上手い。
「まあ親公認という訳で、いいんじゃねえか。」
シシシっと彼女は意地悪く笑った。しかし、すぐにまじめな顔になった。
「それは置いといて。思依茄ちゃん、君のお母さんはさっき逮捕されたよ。」
私は、もう予想がついていたことなので、特に驚きもせず頷いた。旭さんは、私が取り乱すと思っていたのか、少し安心したような顔になった。
「思依茄ちゃんは施設に行くことになるけど、大丈夫か?」
私は頷いた。
「会いに行くから、元気にしてるんだぞ。」
そう言って旭さんは笑った。
もう何も望まない事にした。これ以上望めば、きっと罰があたるだろう。私のことを心から心配してくれる人が、二人もいる。私の心の傷口が、少し閉じた。安心感が、心を覆う。
「では、私は退散しますか。お二人さん、ごゆっくり♪」
そう言いながら、旭さんは白いドアの向こうに引っ込んでいった。私達はお互いの赤い顔を見合ったが、すぐに吹き出してしまった。
優士との出会いは最高の喜びだと、私は心から思った。この先に続く私の道が、宝石の粉でも散りばめた様にキラキラと光って、私を魅了していた。