第四話 蚊取り線香
母さんは、リビングにあるテーブルの椅子に座っていた。私は、ゆっくりと彼女に近づいていった。
「ただいま、母さん。」
母さんの肩がビクっと動き、ゆっくりとこちらを向いた。目には、涙が溜まっている。よく見ると、テーブルの上には分厚い本が乗っていた。
「どうやって出たの?」
母さんは目の前に立った私に、何の感情も込もっていない声で言った。私は、もう戦うと決心した。怖がったりしない。
「窓から抜け出したんだよ。」
私も、感情を込めずに言った。母さんは、無表情のままだった。目の下に、隈ができている。
「母さん、私はもう堪えられない。」
そんな母さんの目を、じっと見てみた。母さんは、何も言わない。私は続ける。
「私は、母さんのこと尊敬してた。キレイで、頭が良くて、何でもこなしてしまうから。」
「尊敬?私はあなたにそんな風に思われるようなことは何一つしてないわ。」
髪をかきあげて、母さんが言った。まだ目が潤んでいる。私の涙は、もう一滴も残っていない。
「父さんがいなくなってから、母さんは私を使ってストレスを発散させてた。私は、母さんが辛いんだと思ったから、ずっと我慢してきた。」
私は、真っ直ぐの姿勢を保った。
「でも、私は母さんにとってただのストレス発散の為の道具でしかない。私は、私と母さんを傷つけてきた父さんが嫌いだった。私達を物の様に扱う父さんが、憎かった。」
父さんが出て行ったのは、十年以上も前。私は、少し悲しかったけど、泣かなかった。涙なんて、出なかった。けれど、母さんは、大粒の涙を零して泣いていた。
「でも、今は母さんが憎い。私が要らないなら、こんな風に言葉を喋ったり、いろんな感情をもって考えたり、思い出ができない様にしてくれれば良かったのに……。もっと早く殺してくれればよかったのに!」
私は最後の方を、叫ぶようにして言った。母さんの目が、見開かれている。涙が、頬を伝った。しかし、私は構わず言葉を続けた。
「でも、母さんには感謝もしてる。」
母さんは、両手で口を覆った。
「母さんがいてくれたから、育ててくれたから今の私はここにいる。それに、優士にも会えた。私は母さんを憎んでいるし、母さんに感謝してる。おかしいけど、これが私の気持ちだよ。」
私は、彼女に近づいた。視界に、あの分厚い本の表紙が入ってきた。それを見た時、私の呼吸と心臓が、一瞬止った。私の心に、穴が空いてしまった。
「あ、母さんね、今アルバムを見てたのよ。」
母さんがゆっくりと言った。
母さんが、私の写真を?アルバムを見てた…?!私は、いろいろな感情や思いが、全て奈落の底へ落ちて行くような感覚を覚えた。何にも無くなる。
「思依茄が小さい時の写真。私、この写真を見て、いつからこんな人間になっちゃったんだろう…って、思った。」
一度アルバムの表紙を見やってから、母さんは私の顔を見た。そして、私の手を握った。
「私は、思依茄がこんな良い子に育ってくれて、嬉しい。もう、いつのまにか大きくなってしまった。私は、あなたのことを、一度も見ようとしていなかったのね。」
私は、激しく動揺した。母さん、そんなこと言わないで。私は母さんを憎んでいるのに…。
「あなたのこと愛してるわ。」
私の目が、顔が熱くなる。頬から顎に、何かが流れていく感触がした。
あぁ…私にもまだ涙があったんだ。もう、使い果たしたはずなのに、まだ流れてくる。
「母さん、もう…遅いの。今のその言葉だけで、私の傷は消えない。元には戻らない。私はもう…ここには戻ってこない。」
私は母さんの手を払った。
「さようなら。」
方向転換をして玄関に向かった。その時、背後で椅子の動く音がした。
「どうして…?」
母さんの、非難するような涙声が聞こえた。私は、歩みを止めた。
「どうしてみんな私から離れていくのよ!孝介さんも、御前さんも…………思依茄も。」私の体が、素早く反応した。この感覚は……
「どうしてよぉ!!!」
ゴッ…!!
振り向いたその瞬間に、私は頭が割れたかと思うくらいの痛みに襲われた。片目を開けると、母さんの手には、アルバムがあった。母さんが、もう一度それを振り上げる。
「私が何をしたって言うのよ!どうして上手くいかないの?!」
何度も何度も私は殴りつけられる。台所に入った母さんは、フライパンを持ってきて、床にうずくまった私の体を叩きはじめた。私は、あまりの痛みに声が出せなくなっていた。
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しなちゃんの家の前に立って待っていると、中から誰かが叫ぶ声と、物が床に叩き付けられるような音がした。それがしばらく続き、そして、しーんとなった。僕はそろそろヤバイと思い、玄関のドアノブに近づこうとすると、中から桃花さんが飛び出してきた。泣いている。僕には気がつかなかったようだ。
僕は中に入ると、奥に進んだ。と、リビングの入り口に、しなちゃんが倒れていた。周りには、血が飛んでいる。僕は、凍りついた。
「思依茄!しっかりしろ!」
僕は近づいて、しゃがみ込んだ。頭を殴られたのか、額に血が流れている。しなちゃんは、眠っている時のような安らかな顔をしていた。僕はできるだけ冷静になって、こういう時は揺らしたりしない方が良いのだと考えた。
「しなちゃん。」
僕は泣きそうになったが、頭の中に、電話をするという考えが出てきた。
「ゆう…し。」
しなちゃんの目が、細く開いた。僕は驚いて、しなちゃんの顔を見た。
「あ、しなちゃんっ!今、救急車呼ぶから。」
僕は、自分の斜め後ろにある電話の受話器を取った。
119番と旭の携帯に電話をしてから受話器を置き、僕はしなちゃんの横に座った。ポケットに入っていたハンカチを、しなちゃんの傷口に当てた。
「母さんがね…私のこと愛してるって…言ったの。」
しなちゃんが途切れ途切れに喋りはじめた。僕は、何も言わずに頷く。
「勝手だよね、…父さんも母さんも。もう、何もかも終わったけど。」
しなちゃんはそれ以降、何も喋らなくなってしまった。僕は、しなちゃんの涙で濡れている頬を、手の甲でそっと撫でた。その瞬間に分かった。
今僕は、しなちゃんのことを守りたいと思っている。軽い気持ちなんかじゃない。それが、僕の真実だ。
どこからか、蚊取り線香の匂いが漂ってきた。