第三話 夏の午前に吹く風を
私は特にすることも無く、夏の午前の風が優しく揺らす薄いカーテンを視界に入れながら、ボーッと外を見ていた。窓の外に、カーテンのかかっていない薄暗い部屋が見えた。殺風景な、私の部屋が。
「しなちゃん、どうしたの?ボーッとしちゃって。」
優士がアイスコーヒーの入ったグラスをテーブルに置き、私の隣に腰掛けた。私は首を振る。
「私の部屋を見てただけ。あそこに、一昨日まで倒れてて、死にかけてたなんて、信じられなくて。」
私は喋ることにも、たくさんの体力を使った。今は何をしても、疲れる。
優士に助けられて、私は今、彼の部屋で夏休みを過ごしている。今年の夏は去年の何倍も熱くて、私は、湯でたこのようになってのびていた。
「しなちゃん、本当に何もしなくて良いの?」
優士が、もう百回くらい言ったであろう台詞を、また言った。私は、これもまた百回言ったと思われる返事をした。
「何もしなくて良いの。」
優士のきりっとした眉の下にある目で見られると、私はいつも苦しくなってしまう。私は、あの日助けられた瞬間に分かってしまった。優士は、きっと、ずっと前から、母さんのこと、私が虐待されていることを、知ってしまっていたんだ。その目は、本当のことを見抜いていたんだ。やっぱり、優士に嘘はつけないな…
「僕、おじさんが蒸発しちゃってから、様子がおかしいことに気づいてたんだ。言い訳になっちゃうけど、ほんとなんだ。でも、認めたくなかった。あの優しかった桃花さんが、あんな事するなんて、認めたくなくて、逃げてたんだよ。現実から逃げて、一番傷ついてるしなちゃんを、見捨てたんだ。」
優士の声は、震えていた。優士は心が優しいから、いつも自分ばかりを責めて、苦しむ。
「優士は悪くない。」
私は、思ったことをそのまま口にした。優士が目を丸くする。
「母さんはね、人前では良い人を演じていたんだよ。気づかなくても、しょうがないよ。母さんは、嘘をつくことをなんとも思ってない人だからね。」
私は何だか悲しくなった。
「私のことを可愛がってくれたのは、もう赤ちゃんの時で終わり。今でも覚えてるよ。初めて叩かれたのは、保育園に入園する前くらいだったかな。母さんが私を保育園に入れたのも、小学校と中学校に行かせてくれたのも、たぶん私が邪魔だったから。母さんは、外でいろんな事をしたかったんだと思う。でも、ストレスを発散させるのに、私は必要で、私は、そのためだけにある、ただの道具なんだ。」
優士が眉をひそめて私を見ている。きっと、退いてるんだろうな、こんなこと言う私に。
「私は、存在してもしなくてもどっちでもいいんだなって、よく思うんだ。死んだって、誰も悲しんでくれる人なんかいないんだよ。きっとみんな可哀想だ、残念だって言うけど、心からそんな風に思ってくれる人なんて、どこにもいな…」
フワっと優士の匂いがした。優士の両腕が、私の体に回されていた。私の思考は、優士が突然とった行動よりも、優士のあの懐かしい、私が世界で一番好きな匂いの方を選んだ。ずっと、このままでいれたら良いと、私の体の全細胞が叫んでいた。
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僕は、胸がキリキリと痛くなった。どうしてそんな事言うんだよ…………しなちゃんは、自分の事をずっとそんな風に思っていたのか?!
「私は、存在してもしなくてもどっちでもいいんだなって、よく思うんだ。死んだって、誰も悲しんでくれる人なんかいないんだよ。きっとみんな可哀想だ、残念だって言うけど、心からそんな風に思ってくれる人なんて、どこにもいな…」
僕は、しなちゃんを抱きしめた。その先を聞きたくないのと、言わせたくないという思いで。しなちゃんの体は薄くて、小さくて、手加減しないとペショって潰れてしまうんじゃないかと思うほどに、軽かった。
しなちゃんの心は、もう誰にも修復できないほど、粉々に砕け散ってしまったんだ。十年近くの年月をかけて、しなちゃんの心は、崩壊していったに違いない。
僕はゆっくりとしなちゃんを放した。しなちゃんの目に、涙はなかった。乾いた大きな黒い目が、僕を見ていた。どこまでも続く真っ暗なトンネルみたいで、どこにも、何も映っていない。
「前にも言ったけど、」
しなちゃんを見た。少し乾燥した唇が、ゆっくりと動いた。
「私、優士の側にいて、生きてて良かったって思うよ。」
と、その時、階段を誰かが上がってくる音がした。しなちゃんは、いつものようにベッドに隠れた。僕は、その上から布団をかけて、クッションをたくさんのせた。
「ちょっと良いか?」
旭だ。僕はいいよと言って、雑誌を読んでいたように見せかけた。旭はドアを開けると、僕の前に座った。仕事は早退きしたのだろうか…。
「今、そこで草田さんに会ったんだ。思依茄ちゃんが家出したらしい。」
僕はドキっとした。
「え、ホントに?」
どうか、しなちゃんがいることに気がつきませんように!
「ああ。優士、知らないか?」
しなちゃんが男っぽい口調になったのは、きっと旭のせいだろう。
旭と呼んではいるけれど、一応僕のお母さんだ。僕は、小さい頃から彼女のことを一度も「お母さん」と呼んだことが無い。旭は、お母さんというより男勝りなお姉ちゃんという感じで、二年前に父さんが死んでからも、僕たちは姉弟みたいな感じで気軽にやってきた。
「僕は、何も聞いてないけど…。」
不審に思われない様に気をつけながら、僕は雑誌を閉じ、座り直した。旭が、そうかと言って辺りを見回した。僕は、彼女の目を追いかけた。
「そういえば久しぶりだな。こうやって座って優士と話をするのは。」
旭がにこっと笑った。僕は彼女を見ると、どうして宝塚に入らなかったんだろうと思う。絶対男性役にピッタリなのに。
「優士、少し話があるんだが、聞いてくれるか?」
旭が、真剣な顔で言った。僕は少し考えたが、覚悟を決め、頷いた。
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「思依茄ちゃんのことなんだ。」
やっぱり…。
私は息を殺して、優士と旭さんの会話を聞いていた。
私達は、お互いのお母さんのことを下の名前にさんを付けて呼んでいる。二人がそうして欲しいと言ったからだけど、二人ともおばさんと呼ぶには相応しくないので、違和感はなかった。
「しなちゃんが、どうかしたの?」
残念ながら姿が見えないので、私は声だけを聞いた。
「これはずっと前から思っていたことなんだが、思依茄ちゃん、虐待を受けてるんじゃないのか?」
低い、少しハスキーな声をしている旭さんが、静かに言った。
「え、どうして?」
優士は、動揺したらしい。声だけで分かる。唐突にそんなこと言われたら、誰だって動揺するだろう。
「この間帰ってくる時に、ポストの所に立ってる思依茄ちゃんを見たんだ。あっちは気づかなかったみたいだけど、その時けっこーたくさん腕とか顔に傷があるのが見えたんでね、そう思ったんだ。」
私は思い出した。部屋に閉じ込められる前日の夕方だ。私はあの時以外、旭さんが帰宅するであろう時間帯に、外に出ていない。少し間があいたが、やがて優士の声が聞こえてきた。
「学校の部活で、怪我したんじゃないかな。」
ほとんど何でも器用にこなす優士だけど、嘘をつくのはものすごく下手。これも、昔からだ。
「思依茄ちゃんは、部活に入ってないはずだけどな。」
旭さんが、優しく言った。優士は、旭さんのこういう優しい所を、ほとんど全て受け継いでいると思う。
「…どうして、怪我を見ただけで虐待されてるんだって分かるの?」
優士が参りましたという感じで言った。旭さんの次の言葉に、私は思わず声を上げそうになった。
「私が、そうだったからな。」
「え?!」
優士が動いたような音がした。
「小さい時、お父さんもお母さんも死んじゃったから、遠い親戚のうちに引き取られたんだ。でも、私は邪魔者扱い。そこのおじさんもおばさんも、若かったこともあるけど、あまり子供に関心が無かったんだ。私はストレス発散の対象になった。私が中学を卒業して高校に入学する時、お互いに浮気をしていることが分かってね、二人は離婚したんだ。まあ、運良く寮制の高校だったから、住む所には困らなかったけど。一年生の終り頃、その高校の理事長が私の事を知って、女性の理事長だったんだけど、養子にしてくれた。そういう事をとても大切に考える人だったからね。もし母さんが私を養子にしてくれなかったら、私はあの人と出会うことはなかったよ。」
私は、その話を聞いてとても驚いた。
でも、おじさんのことは今でも覚えてる。ハーフだった優士のお父さんはとってもカッコよくて、私は大好きだった。旭さんが十七歳の時に結婚して、その翌年に優士が生れたんだと、小学生の時に優士が話してくれたことがあった。
私は、また外の音に注意深く耳を傾けた。
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僕は、始めて母さんのことをちゃんと知ったような気がした。少し、嬉しく思った。もう、しなちゃんが今ここにいる事を、告白してしまいたいと思った。旭なら、分かってくれる。
「旭、僕はどうしたらいいんだろう。」
でもとりあえず今は、言わない事にしておこう。旭の目が、僕の方を見ている。その目が、僕を通して後ろにあるベッドを………その中のしなちゃんを見ている様な気がして、僕は緊張した。
「それは、自分の気持ちじゃないかな。私はどうしてもあげられないけど、優士が思依茄ちゃんを大切に思うなら、守ってあげなよ。優士がいる事で、思依茄ちゃんは生きてるのかもよ。」
僕はその言葉を聞いて直感した。この人は、ここにしなちゃんがいることを知っている。
「私も、その時親友だった男の子のおかげで、今こうして幸せに生きてるしね。」
パチっと片目を瞑ると、旭は立ち上がって部屋を出ようとした。
「それともう一つ。」
僕も立ち上がって、旭の背中を見た。
「優士にとって思依茄ちゃんは何なのか、早めに気づいてあげなさい。」
旭は、初めて母親らしい口調でそう言った。階段を降りていく音が小さくなり、その後玄関のドアが開く音がした。また、仕事に行ったのだろうか。
「プハーッ!!」
僕がOKの合図を出すと、しなちゃんが汗びっしょりになって、布団の中から飛び出してきた。僕は扇風機のコンセントを繋ぎ、しなちゃんの前に置いて固定してあげた。しなちゃんが気持ちよさそうに目を閉じる。広いおでこが、風にさらされた。
「あ゛〜!!気持ちぃぃぃ〜」
本当に気持ちよさそうに、しなちゃんはずっと風にあたっていた。僕は、そんなしなちゃんが、僕にとって何なのかを考えた。何なんだろう…
「優士、私、一回家に帰ってみる。」
しなちゃんが突然言った。僕は一瞬思考回路がストップした。
「だ、大丈夫なの?」
僕を見たしなちゃんの顔は、なぜか爽やかだった。
「いつまでもここにいるわけにもいかないし、母さんが捜してるからね。」
しなちゃんは立ち上がって、扉に向かった。
「私が危ない時はさ、助けに来てくれたら嬉しいな。」
振返って、しなちゃんが微笑んだ。僕は、しなちゃんが戦いに挑むのを、止める事はできないと思い、
「分かった。」
そう言った。しなちゃんは、壁の向こうに消えた。