第二話 しなちゃんの家庭事情
優士の部屋で起こったちょっとしたごたごたから、すでに4週間以上が経過していた。春はもうすぐ終わり、梅雨の時期に入ろうとしていた。
そして私達は今、学期末テストの為に(私だけ猛)勉強していた。
「もぉぜぇっっっっったい無理!!」
私はそう叫んでから、きちんと整えられたアイボリー色のシーツを被せられたベッドにボフッと頭を乗せた。
一時頃、学校が終わって家に帰ると、私は勉強しなければいけないというプレッシャーにだるさを感じながら、だらだらと服を着替え、勉強道具を持つと優士の家に侵入した。そして、あまりにも散らかった優士の部屋を、二人で大掃除をしたところだ。
私は目の前にあるオレンジジュースの入ったグラスを持って、右横にある窓から射し込んでくる日の光を当てた。そんな私を見て、優士は仕方なさそうにフーとため息をついた。でも、怒っているのではないと思う。だって顔が笑っているもの…。
「あのねぇしなちゃん。早過ぎるよ、音を上げるのが…。しなちゃんが勉強嫌いなのは知ってるけどさ…。好きな教科とか、無いの?」
私は思いっきり優士を睨んでやった。
「優士は何でも得意だからね、そんな事が言えるんだ。好きな教科なんか無い!」
私がほっぺを膨らますと、優士は声を上げて笑った。私はふんっとノートに向き直り、教科書の単語を書き写し始めた。すると、突然優士がそっと言った。
「僕にもね、嫌いなものがあるよ。」
優士が、じっと私の顔を見る。
「え、そうなのか?何だ、それ?」
私も、優士の奇麗な顔を見返す。
「女の子。」
優士の口元が、ふっと優しくなった。
「?????はい?じゃあ好きなのは?昆虫とか?」
私はそんな優士のちょっとした表情になんだかドキドキしてしまう。
最近、私はどうかしてる…
「しなちゃんだよ。」
優士は何の躊躇いも無く、私の眼を真っ直ぐ見て言った。昔からそうなんだ、優士は。
「……。」
私は恥かしいの域を通り越して、呆れてしまう。優士は『好き』とか『僕の大切な親友』だとか、そういう事スラっと言ってしまう。どうしてそんな風に、軽々と言っちゃうんだろ?私は、そういう言葉は大切にしまっておきたい方なのだ。だって、声に出したら無くなってしまいそうで…嫌だから……
「はいはいそうですかっ。ありがと!」
私はシャーペンを握り直すと再び勉強との戦いを再開した。優士はクスクスと笑っていたが、やがて静かになった。たぶん勉強を再開したのだろう。
それからしばらくして、私は何となくあたりが暗くなったのを感じ、ふっと顔を上げた。壁に掛けてある振り子時計は、長身と短針が『6』を指していた。鉛の様に重くなってきていた瞼が、一瞬で風船のように軽くなった。
「うわぁっ!どうしよう!」
私が悲鳴を上げると、驚いてノートから顔を上げた優士が私の顔を眺めた。私はものすごい速さで勉強道具を片付けた。そして勉強道具を入れた手提げカバンを肩に下げて立ち上がり、唖然と私を見ている優士に「また明日ね」とだけ言って、いつかの時のように慌てて部屋から出ていった。
その瞬間、私はあの日のことを思い出した。私が優士の部屋で泣いてしまって、慌てて帰ったあの日……私は母さんに殴られた。夕ごはんを作るのが遅いからって。
もう……痛いのには慣れてるけどね。
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テストまであと三日となった。しなちゃんの体力があとどのくらいもつのか、僕はとても不安だ。なぜなら、しなちゃんの顔色が最近青ざめているからだ。
今日は久しぶりにしなちゃんの家に行きたいなぁと、下校途中に僕が言うと、それまで元気に話をしていたしなちゃんが急に怯えた顔になって、黙り込んでしまった。僕はそれがどうしてなのか聞こうかと思ったが、震えているしなちゃんを見て、止めにした。
「あ…の…しなちゃんが嫌だったら僕の家でもいいけどね。」
僕がそう言うと、しなちゃんはまだ少し震えていたが、すまなそうな顔をして僕の方を向いた。
「ありがとう。ごめんな。私の家、今模様替えしてるから……それで、散らかってるんだ。」しなちゃんは長くため息をつくと、晴れ渡った空を仰いでまた黙り込んでしまった。
今のは、嘘だ―――――
僕は即座にそう思った。
しなちゃんは滅多に嘘をつかない。それでも嘘をつく時は、ずっと自分の腕を握り締めているので、腕に爪の型が残る。しなちゃんは嘘が嫌いだから、たぶん嘘をつく時、自分で自分を罰しているんだろう…。僕はそんなしなちゃんに、小さい頃からある疑問を抱いていた。それは、しなちゃんが僕の家で遊んでいて、六時半になると逃げるように帰る。そして次の日、口の端が切れていたり手の甲に切り傷が出来ていたりする。その度にしなちゃんは「転んじゃったんだ」とか、「今乾燥してるだろ?だから唇が割れちゃったんだよね」とか、そんな理由を僕に言っていた。大丈夫だよって……
その言葉の数だけ、しなちゃんの腕は傷だらけになっていった。
僕は中学に入学するくらいまでその『嘘』を信じることにしていたけれど、さすがに最近はそうもいかない。しなちゃんの傷は増える一方だ。元気な振りをしているけど……
「しなちゃん…」
本当に大丈夫なの?僕に一体何を隠しているの?
「ん?何だ?」
しなちゃんは、赤茶色の瞳のパッチリした眼を僕の顔に一直線に向けて明るい、いつもの声で応じてくれた。
「今日のおやつ、チョコミントアイスだよ。」
「うおっ、マジか!!やったー!!」
ああ神様、どうかこれ以上しなちゃんに何も起きませんように。僕の嫌な予感が外れますように……
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やっとテストが終わった!私は喜びのあまり、自分の部屋で鼻歌を歌っていた。
さっき優士の家で、テストの点数を公表した。優士先生のおかげで、私の成績は良かった。全て80点以上!!!
しかし、そう長く喜びに浸かっていることはできない。私は今から悪魔の為に夕飯を作らなければないのだ。奴が帰ってくるのは七時。今は六時二十五分なので、まだこの前よりは余裕がある。まぁ殴られずに済むだろう。
この前はまだご飯が炊けていないというだけで、傘で腰を叩かれた。軽くじゃ無い。バットを思いっきり振るように叩いた。私はそれを手でガードしたので、幸い甲に裂傷が出来ただけで済んだ。これなら、優士になんとか言い訳がたつ。
母さんは、私を貶したり殴ったりするのが好きらしい。ストレス発散にでもなるのだろうか?もう慣れたからいいけど、最近人に触られるとつい手を払ってしまう。だから、同じクラスの子達はあまり私に近づかないようになった。
ガッ…チャ
あ、帰ってきた!今日はあっという間にご飯が出来ちゃった。やっぱ優士の作ってくれたヨーグルトシェイクのパワーかな?
「お帰りなさい、お母さん。」
私はエプロン姿のまま、居間で母さんを迎えた。でも、今日は母さん一人じゃなかった。
「ただいま。思依茄、今日はお客様がいるのよ。」
その言葉に、私は母さんの隣に立っている、170cmくらいのハンサムな男性に顔を向けた。筋肉質でスリムな見た目とは反対に、短い髪はとても柔らかそうで、瞳は茶色をしていた。
「この人は私のお友達なの。」
母さんはその人と顔を見合わせて、ニコッと微笑んだ。たぶん、この人はお母さんの容姿に目がいったんだろう。お母さんは美人だからなあ…。性格は殺人者だけど。
「こんばんは。」
私がペコリと頭を下げると、その人は私の前に進み出て大きな手を差し出した。その人は私に、とても優しい笑みを浮かべてくれた。
「私は御前と言います。よろしくね」
そう名乗った彼は、私と握手をした。
それから私はテーブルに、母さんの分と彼の分のご飯を出し、いつも私が座っている椅子に御前さんを座らせた。
「君は食べないのかい?」
御前さんは席に座ると、私にそう言ってくれた。私はその心配そうな顔と声に、何か懐かしさのようなものを感じて嬉しくなりながらも、
「あ、大丈夫です。私、実は先に食べてしまったんです。だから、どうぞ食べてください。」と言った。御前さんは疑いもせずに笑った。
「そう、……ありがとう」
私は、チラっと母さんの顔を見た。母さんは私に目で「早く引き下がりなさい。」と言っていたので、私は御前さんにもう一度挨拶をしてから、鳴りそうになるお腹を押えて早歩きで自分の部屋に戻った。そしてベッドに倒れ込んだ。
ベランダ越しに繋がっている優士の部屋から、格闘ゲームの様な電子音が聞こえていた。私はその時、優士のことをものすごく恨めしく感じた。
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しなちゃんが僕の家に来なくなった。
それが始まったのは、夏休みになる少し前からだ。学校も休んでいるから、もうかれこれ一週間と三日会っていない。
四日目になる今日の朝、僕が駅に向かう旭を見送っていると、向かいのドアからしなちゃんのお母さんが出てきた。僕は桃花さんを二年ぶりに見たけれど、相変わらず奇麗な人だと思った。桃花さんは僕に気がつくと、スタスタと歩み寄ってきて「おはよう」と言った。
「久しぶりね、優士君。二年ぶり…かしら?いつも思依茄と仲良くしてくれて、どうもありがとう。あら、古座巳さんは、もう行ってしまったのね。」
そう言って腰まであるライトブラウンのストレートヘアを風になびかせながら微笑んだ。
「あ、はい。それより桃花さん、しなちゃん、大丈夫ですか?最近見かけないんですけど。」僕がずっと思っていた事を聞くと、おばさんの体が、ほんの少しだがビクっと揺れた。僕はそれを見逃さなかった。おかしい……。
「思依茄ね、風邪ひいちゃったみたいなの。あ、家に鍵を掛けておくの忘れちゃった。鍵はっと…」
おばさんは、最後の方を独り言の様に呟きながら自分の家に鍵を掛けた。
「それじゃ、またね優士君。」そう言っておばさんは駅に向かって、さっそうと歩いていった。
僕の背中に冷や汗が流れた。頭の中に嫌な映像が浮かんだ…………………………
まさか!
僕は火の元と水道を確認してすべての窓の鍵を閉めると、二階にある自分の部屋に駆け上がって、小学生の頃にしなちゃんがプレゼントだと言ってくれた、しなちゃんの家のスペアキーを必死で探した。クソッ…どこだ!
やっと引き出しの奥に見つけると、転がるように階段を駆け降りて自分の家の玄関の鍵を閉めてから、さっきおばさんが閉めたドアに飛びついて鍵を開けた。
「……?」
真っ暗だ。何の音も無い。空中に漂う微小の埃までもが、止ってしまっているようだった。家中のカーテンが閉まっている。僕は念の為に内側から鍵を閉めた。一階を探す必要はないような気がして、僕は手探りで階段まで辿り着き、できるだけ音をたてずに登った。
二階に到着してもまだ暗かったが、目が慣れてきたのかだんだん周りが見えるようになってきた。
先に進もうとしたその時、何かが足に当たった。僕は心臓か止まりそうになるほど驚いたが、何とか声を抑えた。よく見ると、ものすごい量のゴミがぎっしり詰った袋らしき物体が、廊下を埋め尽くしていた。僕はその隙間をつま先立ちで進んだ。
とうとうしなちゃんの部屋に着いた。
(………え。)
僕の脳は、目の前の光景を受け入れることを拒否した。しなちゃんの部屋のドアの前に、箪笥やソファなどの家具が幾つか積んであったのだ。僕は順番に邪魔物を退かすと、恐る恐る部屋のドアを開けた。
―――何にも無い
しんちゃんの部屋か……懐かしいなあ〜。僕が感傷に浸っていると、ぐしゃぐしゃになったシーツやクッションが山積みになったベッドの上で、何かが動く気配を感じた。
驚いたが、意を決してベッドに近づき、バッと山を崩すと、そこには真っ青になって、だいぶ痩せてしまっているしなちゃんが、私服のままで横たわっていた。顔、体中に傷や痣がある。僕の頭の中が、真っ白になった。
「しなちゃん!!思依茄?!」
僕は急いでしなちゃんを抱き起こし、ベッドから降ろした。
そしてしなちゃんの体を支えながら、一緒に床に座った。
しなちゃんはしばらくすると、薄く目を開けて、ゆっくりと首を横に向けて僕を見た。
「しなちゃん?!目が覚めたんだね、良かったぁ…。しなちゃん、今から僕の家に行こう。」
僕の目に、涙が溜まった。しなちゃんを背中に乗せると、すぐに僕の家に帰った。
僕はしなちゃんを自分の部屋に運び入れると、彼女に座れるかどうか聞いた。しなちゃんが頷いたので、すぐにベッドに座らせて部屋を出て行き、コップにお茶を並々と注いで戻った。しなちゃんはそれを受け取ってゴクゴクと飲んだ。
「しなちゃん、何か食べたい物ある?」
僕はしなちゃんの隣に座って言った。しなちゃんはどうしようか考えているようだったが、しばらくして「何でも良いよ」と言った。
ぼくはおかゆを作ってあげた。しなちゃんはすぐに全部食べてしまった。
「しなちゃん、聞いてもいい?」
「…。」
しなちゃんはガクンと、頭を力無く落として頷いた。
「何日ご飯食べてなかったの?」
「……三日くらい」
「……っ?!」
僕は絶句してしまった。
「母さんにね、彼氏が出来たの。何回か遊びに来たのよ。」
しなちゃんはフフフと笑ってそう言った。僕はどう答えていいのか、頭の中をグルグルと掻き混ぜてみた。僕がしなちゃんの顔を見ると、しなちゃんも僕を見て、まだ微笑んでいた。
その笑顔は、僕の心を抉った。僕は、しなちゃんに対して、可哀想以上に何か空しいものを感じてしまった。僕は、どうすればいいんだろう?どうすれば―――――――
「すごく優しい人なの。その人が十日前に一人で家に来て言ったの。僕は、君のお母さんよりも君のことが好きなんだって…。どうして急にそんな事言い出したんだろうね、あの人。私、口が動かなかった。だって、何時の間にか後ろにお母さんがいたんだもの。その人は、母さんに追い出されて帰っていった。母さん、すごく恐い顔で私のことを見て…あんたなんか、私が殺してやるっ!何回あんたが消えてくれたら良いって思った事か。あんたを今まで殺さなかったのは、これからの私の人生が台無しになった困るからよ。でも、隠せば良いわ。そうよ、どうして隠すって事を考えなかったのかしら。そうすれば、私には何の影響も無いわ!あんたはもういらない。だから、死になさい!!!…そう言いながら私をいろんな物で何度も殴ってたわ。他にも何か言ってたけど、気を失いそうになってたから分からなかった。それで、まあ何とか今日まで生き延びて、優士に助けられた…。優士は、命の恩人だよ。ありがとう。」
しなちゃんはそれだけのことを、息もつかずに一気に喋った。目に涙はない。僕はしなちゃんに何も答えてあげられなかった。どうしてこんな事になっちゃったんだ?僕は何を見てたんだ?
「僕って馬鹿だよ。僕はしなちゃんのこと何にも知らなかった。今だって何も……」
何時の間にか、心の叫びは口から流れ出していた。しなちゃんは僕の顔を、まだ光の消えていない目で見据えて言った。
「私、優士の側にいて、生きてて良かったと思ってるよ……」
開け放した窓から吹き込む風が、しなちゃんの長い長い漆黒の髪を撫でていった。