ちゃが3つ
【第2話 ちゃが3つ】
茶々猫は、茶色い小さな猫である。
猫好きの大家さんの厚意で、居心地のいい新築マンションに破格の安値で入居しているが、仕事探しには苦戦中だ。
猫は飲食店で働くことが法令で禁じられている。
包装済の食品ならば売り子として働く事もできるが、未包装の食品を扱う場所では働けない。
食品に毛が入ってしまう可能性があるからだ。
猫専用の食品、キャットフード業界ならば、顔以外をビニール製割烹着にスッポリ包むことで、働くことは可能だ。
また、猫ならでは!という職業も存在する。
黒猫の一族は代々『宅配業』を営んでおり、今やその実力は業界トップにまで登りつめた。
高い位置の呼び鈴を押すことのできる伸縮自在なマジックハンド『猫の手』と、階段の昇り降りが可能な猫用高速カート『猫ぐるま』の2大発明が、彼らの会社を一部上場の大企業に押し上げたのである。
彼らの会社『クロネコ』は猫界で最も安定性の高い会社の1つだが、黒い猫でなければ働けないというネックがあり、『クロネコ』に憧れて毛染めをしながら働いている猫もいるという話だ。
茶々猫は就職情報誌で仕事探しをしながら、日雇いの仕事も進んで引き受けた。
交通量検査のバイトは、居眠りをしない真面目猫である茶々猫に向いていたと言える。
犬の散歩のバイトは苦戦した。
大人しい犬だったが茶々猫の20倍は大きかったので、引き摺り回されて何度も転んだ。
イベントの最後尾フダを持つというバイトでは、背が低すぎて皆の視線に入らず、何度も踏まれそうになった。
見かねた最後尾の人が茶々猫ごとフダを持ちあげてくれて、他の人達もそれを茶々猫ごと後ろの人にリレーしてくれたおかげで、なんとか怪我をせずに乗り切ったが、猫モノ同人誌のイベントでなければ、そうはうまくいかなかっただろう。
微々たる報酬であっても、自分で稼ぎ、生活できるというのは、とても幸せなことだ。
月に2回という約束ではあったが、時間を見つけては大家さんの部屋に出向いて「お手伝いできることはありませんか?」と尋ねる茶々猫に対し、大家さんたちもまるで孫に接するように喜び、何度も食事に招いてくれた。
友達もできた。
猫モノ同人誌のイベントに、客として並んでいた白猫である。
猫界の仲間由紀恵といっても過言ではない美猫だが、同人誌にしか興味がないという残念な趣味のため、恋人はいないらしい。
両親のしつけが厳しかったそうで、いつも丁寧な言葉遣いで話し、お手本のように綺麗な字を書く。
茶々猫もまた、猫ニャマリが少なくて丁寧に話すタイプの猫だったが、字が下手なのは大きなコンプレックスだ。
今日は白猫と一緒に、電車で20分かけて、大型書店で行われるサイン会に来ていた。
サイン会を行う作家の新刊『兎かぐや』は、月に住むウサギの姫の悲恋を描いた漫画である。
姫は地上の猫に恋をして、月に招いた。
二人は月の世界で幸せに暮らし始めたが、月の魔力が少しずつ、猫から表情と記憶を奪っていく。
それを悟られまいとする猫の努力もむなしく、やがては姫の知るところとなり、小さなカケラが零れ落ちていくように、毎日、恋人の何かが少しずつ失われていく様子を見て、姫はついにある決意を胸に秘める。
茶々猫はこの本を読んで号泣し、同じく感動したという白猫と共に、今日のサイン会を楽しみにしていたのだ。
1時間も早く来て、整理券を貰い、列に並んだ。
この書店で今日買った本にしかサインしてもらえないので、2冊目となる『兎かぐや』を胸に抱き、まだ見ぬ漫画家に想い馳せる。
我が身の犠牲を厭わない恋人達の深く切ない愛情を見事に描いた新進気鋭の漫画家、アカウサギ。
本の表紙のウラに小さく写真が載っているのを、この1時間で何度見直したことだろう。
薄いピンク色の綺麗なウサギで、右の耳には深紅のリボンをつけている。
まるでこのアカウサギこそ、主役のウサギ姫であるかのように感じるのは、茶々猫だけではないはずだ。
やがて前方が少し騒がしくなり、すぐに静まると、誰かがマイクで喋りだした。
「ご来店の皆様。大変お待たせいただいました。アカウサギ先生の新刊『兎かぐや』の発売を記念し、サイン会を開催させていただきます。先生、何かひとこといただけますか?」
茶々猫は出来る限り背伸びをしたが、前の人のお尻の位置にしか頭が届かない。
今は声だけで我慢するしかなさそうだ。
やがて、写真のイメージ通りの優しく控えめな声がマイクを通して聞こえてきた。
「私の本を買ってくださった皆様に感謝申し上げます。これからも精一杯描きますので、お手にとっていただけたら嬉しく思います」
拍手!拍手!拍手!!
茶々猫は、拍手で自分の位置をアピールするかのように、必死に拍手をした。
「アカウサギ先生、ありがとうございまいした。それでは皆様、順番にお進みください。ウサギ様やネコ様用に台も用意しておりますのでご安心ください。なお、沢山の方がお待ちですので、申し訳ありませんがプレゼント類はスタッフが一度受け取り、のちほど先生にお渡しする形とさせていただきます」
茶々猫の整理番号は10番だ。
持ってきた小さな花束とファンレターをスタッフに渡し、台の上に立ち上がると、そこにあの写真通りのアカウサギがいた。
「えっと、すごく、素晴らしかったです。ほんとに、感動して、あの、良かったです」
しどろもどろで本を差し出す茶々猫に、アカウサギがにっこり微笑んだ。
「ありがとう。お名前は?」
「ちゃ・・ちゃちゃねこです」
アカウサギは『ちゃちゃちゃねこさんへ』と書き、その隣りにサインをした。
「ありがとうございます。これからも、これからも、ずっと、応援してます。これからも、全部読みますから!」
「ご期待にそえるよう頑張ります」
茶々猫は右手をゴシゴシと脇腹でこすり、グーパーをして爪が出てないことを確認し、恐る恐る差し出した。
「握手をお願いできますか?」
「喜んで」
アカウサギはペンをテーブルの上に置き、右手を伸ばして握手に応えてくれたが、すぐにペンを持ち直して茶々猫から視線を外し、その後ろの読者を促した。
「どうして『ちゃ』が3つになったの?」
書店を出るとすぐに白猫が問いかけてきたが、茶々猫はむしろ『ちゃ』1つ分、得した気分だったので、初めてもらったサインが嬉しくて何度も何度も見直した。
「お茶していく?」
白猫の提案にコクコクと首だけ頷き、大事な本を胸に抱いて書店から離れたのだった。
お茶をした後、白猫と別れて、自分の住む町へ帰ってきた。
今日は大満足の1日だ。
我が人生で最高の日だったと言ってもいい!
夕闇が深くなってきた道をマンションへと向かって歩き出すと、1つ目の曲がり角の自動販売機の前に、何かがうずくまっていた。
「うーん、うーん・・・・・」
病人? 怪我人??
「どうしましたか?」
思わず駆け寄って声をかけると、ウサミミフードをかぶった薄いピンク色の顔が振り向いて茶々猫を見上げた。
「ペットボトルの・・・」
その顔を見て、驚きのあまり、胸に抱いていた大事な本を取り落としてしまい、飛び上がって拾い上げる。
「あ、その本・・・」
「先生!! どうされましたか??」
アカウサギは立ち上がり、手に持っていた500mlのニンジンジュースを悔しそうに見つめて言った。
「フタが開かない。たまに開くんだけど今日のはハズレだ。握手続きで手にチカラが入らないのもあるかな」
茶々猫は大急ぎで本をリュックに入れ、ついでにハンカチを取り出して両手を痛くなるほど強く拭いてから、小さな声で提案した。
「やってみましょうか?」
するとアカウサギは即座にペットボトルを突き出し、決してお願いをしているわけではなく、やらせてやろう的な立場である事を見せ付けるかのように少しアゴを上げた。
「では開けてみます。えいっ!」
相当固いのかと思いきや、拍子抜けするほどアッサリと回って、つんのめりそうになる。
「開きました! どうぞ」
黙って受け取ったアカウサギは左手を腰に当てて空を仰いでニンジンジュースを一口飲み、『プハーッ★』と息を吐き出した。
なんかちょっとイメージと違う・・・?
茶々猫の小さな混乱には気付かない様子で「どうも」とつぶやき、去りかけるアカウサギに急いで声をかける。
「先生!」
「ん?」
「ここにある紙袋は先生の物ではありませんか?」
「あ。忘れてた。貰ったプレゼントは送ってもらうことにしたんだけど、手紙だけは先に受け取ってきたの。感想が書かれてるかもしれないし。作家にとって感想は栄養ドリンクだからねー」
茶々猫から紙製の手提げ袋を受け取りながら、更に続けた。
「でも想像してたより重かった。タクシーより電車が速いからと思ったんだけど失敗した」
「あ、あの、もしもご迷惑でなければ、お近くまで運びましょうか?」
するとアカウサギはムッと振り返り、不審そうな視線を茶々猫をテッペンからツマサキまで2往復させた後、少し考えて言った。
「名前と住所」
「茶々猫と申します。この先の総合図書館に近いベルグランデ3階304号室に住んでいます」
「感想、書いた?」
「はいっ。きっとこの中にあると思いますっ」
「どれ?」
茶々猫は急いで自分の手紙を探した。ガサゴソ・・・。
「ありました。これです!」
「これかー。字が汚いなぁ」
「ごめんなさい。次はワープロにします・・・」
「いや、手書きの方が嬉しい。読みにくいのは読まずに捨てるけどね」
アカウサギは茶色い封筒の「for you」のシールを剥がして封を開けると、黙って読み始めた。
1分、2分、3分・・・・・
茶々猫が直立不動で待っている。
8分、9分、10分・・・・
やがて小さく溜息をついたアカウサギが手紙を封筒に戻し、茶々猫に付き返した。
「袋に入れておいて」
「はい・・・・」
「それ、運んで」
「あ、はい!」
茶々猫が紙袋を抱えてついてくるのを確認すると、ペットボトルのニンジンジュースを飲みながらゆっくり歩き始める。
5分も歩かないうちに「ここ」と立ち止まったのは、5階建てのマンションの前だった。
うやうやしく紙袋を渡すと、アカウサギはコクリと頷いた。
「ども」
「どういたしましてです! お役に立てて光栄でした」
すぐに背中を向けてオートロックのドアに向かったアカウサギだが、思いなおしたように振り返った。
「感想、良かったよ」
「え?」
「ちょっと深読みしすぎだけど嬉しかった。ウッカリ2度も読んでしまった。また書いてきて。あ、さっきのは訂正で、ワープロで頼む」
「は、はいっ!」
「ちゃちゃちゃねこだっけ?」
「茶々猫です!」
「ちゃは2つ?」
「2つです」
「字余りな名前だなぁと思ったんだよね、サインする時」
「すみません。ちゃを3回言ってしまいました・・・」
「自分の名前でしょ」
アカウサギは面白そうにクスッと笑ったが、すぐに「じゃ」と背中を向けた。
「はい。お疲れさまでした、先生」
まるで付き人みたいだ!
幸福感で舞い上がりそうになりながら90度にお辞儀をすると、再びクスクスと笑い声が聞こえて、やがてドアの開閉音とともにあたりが静かになった。
茶々猫はそれでもしばらく、お辞儀の姿勢を崩さなかった。
住まいの場所を知られても大丈夫な相手だと信頼してくれたのだ!
感想も喜んでもらえた!
茶々猫の長いお辞儀は、神様への感謝だったかもしれない。