猫が住む
【第1話 猫が住む】
ガラス窓に整然と並んだ張り紙の中の1枚を見上げながら、冷たい北風の存在も一瞬忘れるほど、茶々猫は我が身の幸運に感謝していた。
猫を巡る住宅事情はこのところ厳しさを増しており、苦戦を強いられるはずだった。
いざとなったら野良猫になるしかないと、悲壮な覚悟もしていたほどだ。
なのに、まさか2件目の不動産屋でこれほどの好物件に出会えるとは。
築40年の木造2階建てアパートの2階、猫可!
6畳の和室と小さな台所、トイレも付いて、家賃は5千円キッカリである。
風呂は無いが、茶々猫は小さな猫なので、台所の流しに桶を置いてお湯を張れば充分なのだ。
ゆっくり深呼吸をして、小躍りしたい気持ちを抑えた。
喜びすぎるとヌカ喜びだった時に悲しい。
最初に尋ねた不動産屋はこの店よりずっと立派で、ガラス窓にはカラー写真と間取り図とカラフルな文字で好条件の物件が幾つも紹介されていた。
しかし店内に入って確認すると、茶々猫が希望した安い物件はどれも既に埋まっていたのだ。
客寄せのためのエサ物件。
そんなものがあると知ってショックを受けたばかりだ。
ドキドキする鼓動を落ち着かせようと息を整えながら、背中の大荷物をそっと地面に降ろした。
この荷物が茶々猫の全財産だ。
小さな茶々猫が入口に立っても自動ドアが反応しないのはいつものこと。
猫を歓迎してくれる店は、地面に近い位置に呼び鈴か開閉ボタンが設置されている。
この店にもそれがあった。
少し励まされた思いでボタンをそっと押すと、ドアが横に開き、同時に店内で『りりーん』と小さなベルの音がした。
「ごめんください」
頭がドアに挟まらないように用心深く外に立ったまま、店の中に控え目な声をかけると、事務机に向かって仕事をしていた眼鏡のおじさんが顔を上げ、椅子から立ち上がって店の外まで出てきてくれた。
少しくたびれた趣の店によく似合う、50代半ばの人の良さそうなおじさんである。
ヒザを抱え込むように腰を曲げて、茶々猫の視線の近くに顔を下げてくれた。
「はい、なんでしょう?」
「すみません、あの張り紙の…」
「はいはい」
借家物件の図面がペタペタと貼られたガラス窓の前に戻り、目的の張り紙を指差すと、おじさんが腰を伸ばして茶々猫の後ろに立った。
「一番左の一番下の5千円のやつ」
「お安いでしょう。おすすめですよ。ついさっき貼ったばかりなんです。古い木造アパートですが5年前にリフォームしているので、築年数ほどは古さを感じません。電気の容量の小さい事が安さの理由で、電子レンジやアイロンを使う時は他の電化製品のスイッチを切らなければなりませんが、それさえ気をつけることができれば大変お得な物件ですよ。それとタバコは禁止です」
「これに決めます!」
きっぱりと叫んだ茶々猫の様子に、おじさんが少し心配そうに尋ねた。
「えっと、お部屋の下見をしなくて大丈夫ですか? 周囲の環境も事前に確認した方が安心ですよ」
「大丈夫です! ただ、今日からすぐに入りたいのですけど」
「承知しました。保証人はいますか?」
「いません」
「ご家族やご親戚は?」
「いません。やっぱり保証人がいないと駄目ですか?」
思わずウルッとして見上げた茶々猫に、おじさん事務員は優しく首を振った。
「いいえ。大丈夫ですよ。保証人がいない場合は3ヶ月分を前金でお納めいただき、その後も3ヶ月ごとに前払いしていただくことになりますが、それは可能ですか?」
「3ヶ月ごとに1万5千円ですよね。絶対払います!」
「では契約書を作りますので店内にどうぞ」
「はい」
大荷物を背負いなおし、招かれるまま店内に入ると、外から見た印象どおり店全体が古ぼけていたが、十分に暖かくて、寒さと不安でこわばった心をフンワリと包んでくれるようだった。
案内されたテーブルの椅子に座り、思いっきり背中を伸ばすと、ギリギリなんとかテーブルの上に顔が出る。
店内をそっと見回すと、数字だけの大きな壁掛けカレンダーが目立つほど殺風景な店だが、掃除は行き届いているようだ。
エアコンの下に置かれた加湿器が元気に霧を噴き出している。
小さな店を守っているのは、応対してくれた眼鏡のおじさんと、もう1人の若い男性事務員だけらしい。
少し離れたテーブルでは、上品そうな老夫婦が若い事務員の説明に何度も小さく頷きながら、何かの書類に記入をしている。
一度奥に引っ込んだおじさん事務員(もしかすると店長とか社長とか、そういう存在かもしれない)が、お盆に湯飲みを1つだけ乗せて戻ってきた。
「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
茶々猫は猫舌と猫手なので熱いのは苦手だったが、ちゃんと猫用に、熱すぎないお茶を用意してくれたらしい。
湯飲みに両手をそえると、氷のように冷たかった肉球が一気に暖まった。
「気に入ったお部屋がちょうどあって良かったですね」
「はい。助かります。この寒空に野宿は辛いので、本当に助かります」
親切な不動産屋に巡り合った事を神様に感謝。
ぬるめのお茶を用心深くチビチビとすすりながら、満ち足りた気分で契約書が出来上がるのを待っていると、すぐ後ろの自動ドアを激しく叩く音がした。
驚いた拍子に尻尾がピーンと伸びたが、どうにか湯飲みを落とさずに振り向くと、ちょどドアが開いて、氷のように冷たい風と一緒に何かが勢いよく転がり込んできたところだった。
契約書を作っていたおじさんも驚いたふうでボールペンを持ったまま顔を上げる。
ドアの前には、茶々猫よりも更に大荷物を背負った母猫と、その母にしがみついた3匹の子猫がいた。
「お願いします! 表の張り紙の5千円の部屋は今日から入れますか??」
「あー・・・・・」
おじさんは一瞬、茶々猫と顔を見合わせ、再び視線を母猫に向けて気の毒そうに「そのお部屋はたった今埋まったところなんですよ。申し訳ありません」と言った。
「えっ!」
母親猫は茶々猫に視線を向けて何か言いたげに口をモグモグさせたが、すぐにガックリと肩を落とした。
「そ、そうなんですか…」
背中の荷物の重さが10倍になったような母猫に「母さんー」と心細げにしがみつく子猫達を見ると、タッチの差でゲットした自分が極悪人のように思えてくる。
「他に安いお部屋はありませんか?」
「2万円のお部屋はいかがでしょう。お風呂も付いてますよ」
「2万円ですか…」
母猫は一瞬考えるふうだったが、「ごめんなさい、結構です。お騒がせしました」と答えて向きを変え、うなだれたままドアを出て行こうとする。
「待って!」
茶々猫は、思わず叫んだ。
「譲ります!」
「えっ?」
「譲ります。大丈夫ですよ」
そしておじさん事務員に向かって大急ぎで確認した。
「いいですよね? まだ契約書にハンコ押してないし」
「いいですけど、でも猫さんも困るでしょう?」
「平気です! 1人ですし、どうにでもなりますから!」
おじさんは、お人好し猫を少しの間見つめていたが、やがて頷き、母猫に声をかけた。
「譲っていただけるそうです。お部屋を見に行きますか?」
「本当に、本当にいいんですか? 譲っていただけるんですか??」
母猫と3匹の子猫達にすがるように見つめられた茶々猫は、彼らを安心させたくて大きく頷いた。
「はい。どうぞです。本当はお風呂付きの部屋が良かったんです」
母猫は何度も何度も頭を下げ、鍵と書類を持ったおじさん事務員と一緒に店の外に出て行った。
「さてっと、行くかな」
茶々猫は自分を励ますように声を出し、カラになった湯飲みをゆっくりとテーブルの上に戻すと、ノロノロと椅子から降りた。
これで良かったのだ。
あの親子達は本当に困った様子だった。
きっと自分よりずっと困っていた筈だ。
そう自らに言い聞かせても重い気分は拭えないまま、大荷物を背負う。
あんな好物件に二度も出会える強運が自分にあるだろうか。
ガラス戸の向こうは、いつの間にか粉雪がチラチラと舞っている。
その光景を目にしただけでブルッと体が震えたが、口をギュッとへの字に結び、地面に近い位置に備え付けられた開閉ボタンに手を伸ばす。
勇気を振り絞って戸を開けようとした時、もう1人の事務員が「もしもし、猫さん」と声をかけてきた。
振り返ると、若い事務員と老夫婦の3人がニコニコとこちらを見ている。
「猫さん。こちらのご夫婦がお持ちのマンションに入りませんか? ちょうどこれから募集するところだったんです」
茶々猫は開閉ボタンに手をかけたまま、プルプルと首を横に振った。
『マンション』という単語が身分不相応だという事ぐらいは、世間知らずの自分でも判る。
「あまり手持ちがありません。仕事探しもこれからなんです。お気持ちには心から感謝しますが他を探します。ごめんなさい」
すると、そのマンションの大家らしい老人が手招きをした。
「まぁまぁ。そう言わず、こちらへ」
中折れフェルトハットというのだろうか、こげ茶色の暖かそうな帽子をかぶったおじいちゃんだ。
横に座っていたおばあちゃんが「そうですよ、ほら、ここへどうぞ」と言いながら、今まで座っていた椅子から腰を上げ、1つ隣りの椅子にヨッコラショと座りなおしてくれた。
茶々猫は再び荷物を降ろし、老夫婦の間の椅子におずおずと座った。
さっきのように、やっと頭だけをテーブルの上に出すと、そこに置かれていた書類の文字が目に飛び込んできた。
10万円!
無理っ!!
向こう側に座っている事務員は、茶々猫の尻尾がピンと伸びたことに気付かないフリをしながら、ゆっくりした口調で説明を始めた。
さっきのおじさん事務員よりは随分若いが、なんとなく顔が似ている。
もしかすると親子かもしれない。
「こちらのご夫婦が、ぜひ猫さんに入居していただきたいと仰っているんですよ。お話を聞いてみててはどうでしょう?」
「でも10万円も払えません」
すると老人は小さく頷き、テーブルの上のボールペンを手に取って書類の金額を横棒2本で消した。
「割引しますよ」
「ありがとうございます。でも、割引をしてもらっても、とても無理です」
厚意は嬉しいが無茶ブリだ。
茶々猫が必死に首を横に振ると、老夫婦が交互にゆっくり話しかけてきた。
「孫の入居用に考えていた部屋なんだけど、海外で働くと言い出してねぇ。小さい頃からの夢でもあったから無理に引き止めることもできないし、少し淋しいが孫の挑戦を応援することにしました」
「病院が不足している国で、移動ドクターをやるんですって。優しくていい子だから、きっと皆さんに喜んでいただける素敵なドクターになると思うの」
「それで一部屋空いたけれど、もともと賃貸料を貰う予定のなかった部屋でしょう。だから、安くお貸しすることができるんです。ただ、他の部屋の人達にはこの金額でお貸ししているから、無条件で割引すると不公平になってしまうでしょ。だから今、大急ぎで相談していました」
「そうなの。それでね、割引をするかわりに、猫さん、月に2回ぐらい、ウチへお手伝いに来てくれないかしら?」
「えっ?」
おじいさんは“10万円”を“5千円”に書き直した紙を茶々猫に差し出しながら言った。
「月に2回、ウチの家事をお手伝いしてくれるという条件で、この金額でどうですか?」
茶々猫は書類を受け取り、あらためて見入った。
新築マンション!
2LDK!
温水トイレ、食器洗い機、エアコン、光ファイバー完備!
ええっ! 5000円??
黙り込んで固まっている茶々猫を見て、おばあさんが再び優しく話しかけた。
「月に2回、お掃除に来てください。その日はウチで一緒にご飯も食べましょう。年寄り達の話し相手は退屈でしょうけど」
「一緒にご飯を食べるのはいい考えだな、ばあさん」
おじいさんが満足げに言うと、おばあさんは嬉しそうに頷いた。
「そうでしょう? そうしましょうよ。ね? 猫さん」
「で、でも、私には割引額に見合うようなお手伝いはできません。体が小さいので、できる事が多くないんです」
書類に視線を落としたまま小さな声で答えると、どうやら超の付く猫大好き人間らしい2人は口々に茶々猫を励ました。
「大丈夫大丈夫。箪笥の上とか、洗面所の流しの下とか、猫さんだからこそ掃除を頼みたい場所は沢山あるから」
「テレビの録画が苦手なので、それも頼めると助かるのだけど」
「囲碁はできるかな。練習相手がほしいんだが」
「おじいさんったら、いまどきの若い猫さんは囲碁なんか知りませんよ」
「そ、そうか。じゃぁ得意なものは何かな」
期待をこめた視線を感じて、ますます小さくなりながら答える。
「えっと、パソコンなら少しできます」
「パソコン!!」
老夫婦は双子のように口をそろえて嬉しそうに叫んだ。
それに励まされ、少しだけ顔を上げて更に続ける。
「あとはえっと、窓拭きの仕事なら、ちょっとだけやったことがあります。他の人達の3倍の時間がかかったのですぐクビになりましたが、スミッコまで綺麗に拭けた事だけは褒められました」
「真面目で頑張り屋さんなのね」
「職探しの保証人になってあげるのはどうかな」
「私もちょうど今それを言おうとしたところです」
楽しそうに笑いあう声を聞いていると、書類の上に、ぽつん、ぽつんと涙が落ちた。
「どうした猫さん、泣かないよ!」
「ね。うちのマンションに住んでもらえないかしら。私達と一緒に帰りましょう。すぐ近くなの」
2人の心遣いが嬉しすぎて、声がうまく出ない。
「あ…とうございま…。…ろしくお願いしま…」
古ぼけた不動産屋の店内では、ポロポロと泣き出した茶々猫を大人3人が励ますシーンがしばらく続き、店の外では雪が少しずつ積もり始めた。
そんなことがあって、茶々猫はこのマンションに住むことになったのだ。
4階建ての低層建築だが、オーナー夫婦が自分達の終の棲家として建てただけあって、住みやすくて居心地がいい。
明るくて大きなエントランスホールから眺める豊かな植栽は四季を楽しませてくれるし、南のベランダはベンチセットが置けるほど広く、賃貸マンションにはもったいないほどの環境を整えている。
このマンションの3階、304号室が茶々猫のスイートホームだ。
人間用のマンションなので全ての設備が茶々猫には大きすぎたが、4階に住んでいる大家さん夫婦がドアの横やキッチンに猫用の台を設置してくれた。
家具はまだ何も無いが、新しく、暖かく、心強い、茶々猫の本拠地である。
お人好しだが要領が悪く、頑張り屋だがあまり報われない、邪魔にならないサイズの茶色っぽい猫は、これから某漫画家と出会い、波乱万丈の日々を送ることになる。
【主な登場人物】
●茶々猫・・・茶色のアメショ系雑種。手足が短めなのでマンチカン疑惑あり。努力家でお人好し。特技はパソコンと楽器演奏。生真面目だが天然が入っているためイジラレ役になることが多い。
●アカウサギ・・・漫画家。全身が薄いピンク色をした美ウサギだが、性格はオレサマ。
●白猫・・・茶々猫の親友。言葉遣いが優しく丁寧で、字が綺麗。