中編
それから数年が経ちました。
兄妹は酒屋の夫婦に育てられ、兄は父さんを手伝って毎日酒を造り、妹は母さんと一緒に家事を頑張ったり、店を手伝ったりしています。
「今年は、冬が早いかもしれないねぇ」
母さんが言うと妹は「寒くなったら、熱燗が売れるから、忙しくなるわねぇ」と言います。
「今から、薪をうんと用意しておかないと、足りなくなるよ」
兄が言いますと「よしっ、明日は皆で冬の支度でもするか」と父さんが言います。
お天気は悪くありませんが、街道は誰も歩いていません。
「冷えてきたから、誰も歩いていないねぇ」
母さんは店の戸を閉めるようか、迷っています。
「母さん、たまには早く閉めて、休みましょうよ」
妹がそう言うので「そうだねぇ」と言いつつ、母さんが店の戸を閉めようとするとひょっこりと一人の老人が店の前に現れました。
「おやっ、今の今まで誰もいなかったのに、不思議なことも有るもんだねぇ」
母さんが感心しています。
老人は「こちらのお酒がおいしいと聞きました。一口恵んで頂けないでしょうか」と訊ねてきます。
「うちは、商売だから、恵んであげるわけにはいかないよ」
母さんが答えますと兄さんが「母さん、母さん、盃一杯ならよいではありませんか」と言えば妹も「優しい母さん、私たちを育ててくれたではありませんか。お酒一杯分、私たちが頑張って働きますから、このおじいさんに恵んであげて下さい」と言います。
母さんは渋々、お酒を一杯老人に恵んであげました。
老人は「旨いねぇ」と言い、「ごちそうさまでした」と一言残すといつの間にか姿が消えていました。
家族で夕食を摂りながらその話を母さんがしますと父さんは「仕方無いなぁ。おまえ達は」と言いましたが、怒ってはいませんでした。母さんは「困っている人を助ける、心根のやさしい人に育って良かったよ」と言います。
それからというもの、店を閉めようとする時間になると老人がどこからともなく現れて酒を一杯呑むようになりました。毎日来るかと思えば五日も来なかったりします。さすがに五日も来ないと父さんも母さんも心配になり、ついつい「あのおじいさん、今日も来ないねぇ」と言って心配する始末です。
老人が酒をもらいに来て一年が経ちました。
「今年は雪が早いねぇ」
夕方、母さんが店の戸を閉めようとすると雪がちらりほらりと舞い始めました。
「こんばんは」
いつもの老人がいつものようにいつの間にか戸の前に立っています。
「おや、おじいさん。今日みたいに冷える時に出歩いていると、風邪をひきますよ」
母さんは老人を店の中へと招き、熱燗の用意を始めます。
「さてさて、この一年、ごちそうになりっぱなしです。今日は一つ、お礼をしたいのですが」
老人は話しますが、母さんは笑顔で「あら、御礼なんていいのよ」と言います。
老人は懐から手ぬぐいを取り出すと店内の壁をごしごしとふきます。壁が奇麗になりますと老人は卓上にあったみかんを一つ手に取り、二つに割りまして片方をもって壁にこすりつけるようにして何かを描き始めました。
「上手いもんだなぁ」
居合わせた旅の商人二人が感心してみています。まるで生きているような黄色い鶴が壁に描かれました。
老人がポンポンと手を鳴らすと壁に描かれた鶴が両手をサッと動かしました。
見ていた人は皆、目を丸くして声も出ません。丁度そこへ妹が姿を見せましたが、老人の真似をしてポンポン、ポンポンと手を鳴らします。妹の手拍子に合わせて黄鶴が舞い始めます。そこへ兄さんも姿を見せ、妹に合わせて手拍子を始めます。その手拍子は二人が幼い頃、どこかで聴いた舞曲です。
黄鶴が舞い踊っているのを見つつ、老人が静かに立ち去ろうとすると妹が老人の袖を掴んで「待って」と引き留めます。
「なんでしょう」
老人が聞きますと妹は「鶴が一羽じゃ可哀想、お願いですから、もう一羽描いてあげて」と頼みます。
「これこれ、そんな贅沢を言うものではありませんよ。一羽でももったいないのに、もう一羽なんて罰が当たるよ」
母さんはそう言って妹をたしなめます。
「でも、やっぱり一羽じゃ可哀想」
そう言いつつ、妹は老人を引き戻そうとします。老人はふと自分の手を見ます。みかんが半分、まだ手に握られたままでした。
老人は初めの一羽の横にもう一羽、黄鶴を描きました。
二羽の黄鶴は壁の中で顔を見合わせ、一対になったことがよほど嬉しかったのか、二羽で勝手に舞い踊り始めました。これにつられて兄妹も合わせてに舞い踊りました。
さて、一通り舞い踊った兄妹と二羽の黄鶴を見てから老人は改めて挨拶をして立ち去っていきました。
その夜の遅い時間、皆が寝静まった頃、父さんは一人、ロウソクの灯りを頼りに店の中へと入ってきました。
描かれた時には嬉しくて舞い踊っていた二羽の黄鶴も今は躰を丸めて寝入っています。
「あれぇ、さっきまで、立っていたのに、鶴、寝てるよぉ」
父さんはまたビックリしています。卓上にロウソクを置き、「壁に描いた鶴が踊るなんて、有り得ないよ。きっと、悪い夢を見てるんだよな」と一人呟きながら手を叩こうとします。するとどこからともなく、「クスクス」と笑い声が聞こえてきました。父さんが振り返ると母さんと兄妹が廊下からこちらを見て笑っていました。壁の中の黄鶴も目を覚まして笑っています。
父さんは恥ずかしくて顔が真っ赤になっていました。
壁に描かれた鶴が舞い踊るという話は瞬く間に広がりまして遠い街から訪ねてくる人、旅の途中に立ち寄ってくる人が朝早くから夕方遅くまで続くことになりました。以前よりもお客さんが増えて「あぁ、忙しい忙しい」と酒屋の一家も朝から晩まで忙しく走り回っています。
ある日のこと、旅の商人が言いました。
「この辺りに、宿屋の一軒でもあれば、助かるんだがなぁ」
「おや、どうしてですか」
母さんが訊ねます。
「おいらは、この街道を年に何度も行ったり来たりしてるけど、この辺りは街と街の間が長すぎて、一日で歩くにはちょっときついんだよ。おいらは男だし、ちょっとぐらい暗くなっても歩くけど、女子どもには、夜道は恐いだろうし、辛いだろう」
「そうだねぇ。私も月に幾度かは街に買い物に行くけどさ、朝早く出かけるし、一人じゃ行かないし、日が暮れる前に帰ってくるし、街でゆっくりしようと思ったら、一泊しないとねぇ」
旅人は「どうだい、おかみさん、隣で宿屋を始めたら」と言うと即座に母さんは「私はダメだよ。この店だって一人では大変。この子が居無けりゃ、今頃、寝込んでるよ」と妹を見ながら言います。
「この店で、ゆっくり呑みたいと思うけど、街の宿に泊まろうと思えば、そろそろ行かなきゃ、なぁ」
そう言うと旅人は席を立ち、酒代を支払って店を出て行きました。
その夜、夕食を摂りながら家族四人は宿屋の話題で盛り上がっていました。
「僕たちで、なんとか出来無いかなぁ」
兄さんがそう言うと妹は「私も手伝うわ」と言います。
壁に描かれた二羽の黄鶴もうんうんと頷きます。
「だけど、宿屋って、忙しいんだよ」
母さんが言うと「酒の仕込みだって大変だし、二人が居無いと、店はどうするんだい」と父さんも言います。二羽の黄鶴もこれを聞いてまたうんうんと頷いています。
「だけど、誰か、宿屋を始めてくれないかねぇ。そうなると、安心して、お客さんにお酒を呑ませられるんだけどねぇ」
母さんが言うと二羽の黄鶴はまたうんうんと頷きました。
それから二日後の昼下がり、一人の中年男性が酒屋を訪ねてきました。慌てて来たのか、ひどく汗をかいています。
「こちらでしょうか。壁に描かれた酒屋の居る、鶴のお店は」
妹が「違います違います。壁に描かれた鶴が舞う、酒屋です」と正しながら湯呑みに入れた水を差し出します。
「いやぁ、この水は旨いですなぁ」
「そうでしょ。この水でお酒を造っているんですよ」
妹が説明しますと中年男性は「あぁ、そうだそうだ。先ほどは間違えました。壁に描かれた鶴は、どちらに」と尋ねるので妹が「あちらですよ」と鶴の描かれた壁を指し示しますと二羽の黄鶴がかしこまっています。
「実は、私、街で宿屋を営んでおりまして、最近、私の宿を利用するお客さんが口を揃えて言うんです。この酒屋の近くに、宿屋が有れば便利だと。それで他の人が、この土地で宿屋を始める前に、私が始めようと思いまして、お伺いしました。どうでしょうか」
宿屋の主人が話し終えると「私に聞かれても、困るわ」と妹が戸惑っているところへ運良く母さんが店に入ってきて言います。
「この辺りは寂しいから、宿屋の一軒でもあれば、少しは賑わうと思うけど、でも、儲かるのかねぇ」
「女将さん、そこは大丈夫ですよ。儲からなきゃ、閉めちゃえばいいんですから」
そう答えると宿屋の主人は帰っていきました。
「あの人、本気かねぇ」
母さんは急いで帰っていく宿屋の主人を見ながら呟きました。
翌日、宿屋の主人は大工の棟梁を連れて来まして宿屋を建てる場所を決めます。
翌々日には多くの材木と一緒に大工が来ましてトンテンカン、トンテンカンと建築が始まりました。
そしてあっと言う間に一軒の小さな宿屋が出来ました。
「随分と小さいねぇ」
父さんはあきれていますが、宿屋の主人は「一日一人のお客さんがあるかないかですし、ひとまず寝れたら良いわけですよ。宿賃もうんと安くして、雨露がしのげたらいいわけですよ」と胸を張って言います。
「そんなものかねぇ」
父さんは首を傾げます。
不思議なもので宿屋が出来ると多くの旅人が宿屋を利用するようになりました。その御陰で酒屋は夜遅くまでお客さんで賑わうようになりました。でも、お客さんの中から「近くに小料理屋でも有ればいいんだがねぇ」と言う声が聞こえてきました。
酒屋はあくまでも酒屋、街外れの寂しい場所でポツンと一軒有るだけですから酒のつまみを出したくても毎日、街まで食材を買いに余裕は有りません。
一方、宿屋も布団は有りますが、料理人は居ません。あくまでも雨露をしのぐことしか考えていません。
「街には、腕の良い料理人、たくさん居るけど、こんな寂しいところに来る人、居無いねぇ」
宿屋の主人も残念そうに言います。
「旨い酒に、旨い料理が欲しいなぁ」
そう言うお客さんは一人や二人ではありませんし、この話には賛成のようで壁に描かれた二羽の黄鶴はもいつも頷いています。
数日後の早朝、いつものように母さんが店の前を掃除していると若い夫婦が店の前を通りました。母さんは何となく気になりましてついつい声を掛けました。
「おはようございます。どちらへ行かれるのですか」
「私たちは都から来ました。どこかに良い仕事は無いかと、街から街へと旅しています」
夫が答えましたが、妻は疲れているのか、旅慣れていないのか、答えようともせず、その場に座り込んでしまいました。
「大丈夫かい」
夫が聞くと妻は首を横に振るだけで元気を感じません。母さんが気になって声を掛けようとしましたが、妻の顔色は悪くなる一方です。母さんは念のためと思って妻の額に手を当てます。
「まぁ、ひどい熱」
そのまま宿屋へと担ぎ込みました。
夫が言うには都から駆け落ちして来たのは良いですが、長旅の経験が無かったので昼夜兼行で歩いてきたそうです。
「無茶も良い処だよ」
母さんはあきれるばかりです。
夫は寝込んでいる妻のためにおかゆを作ったり、精のつく食べ物を料理します。
「上手いもんだねぇ」
母さんは感心します。
「はい。これでも料理は一通り学びましたから」
夫が控えめに答えます。どうやら都で料理人として仕事をしていたようです。
「まぁ、よいことを聞いたわ。料理が出来る人を探していたのよ」
母さんはそのまま宿屋の主人に話して料理人夫婦はそのまま宿屋に住み込んで働くことになりました。
夫の作る料理はとてもおいしかったので評判はすぐに広まり、宿屋の隣に小料理屋を開いて旅人の空腹を満たすようになりました。
それから数年の内に土産物屋、雑貨屋、貸家などが一軒、また一軒と増えていき、酒屋の周囲はすっかり賑やかになりました。




