前編
東洋のある国、街から少し離れた街道沿いに小さな酒屋がありました。
その酒屋は中年の夫婦が二人で切り盛りしていました。旅人が一杯の酒を楽しんだり、近所の人達が今夜の楽しみに徳利を満たしたり、それぞれのほろ酔い気分を演出するための大事な酒屋でありました。
「おいっ。なんだか、昨日から、騒がしいよな」
夫が妻に問い掛けます。
「おや、おまえさん、聞いてないのかい。また、戦が始まるらしいよ」
妻は顔を曇らせて答えます。
「酒の仕込みで忙しくって、話なんか聞いちゃいられないよ」
「そうは言うけど、おまえさん、戦になったら、仕込みどころじゃ無いんだよ」と言いつつ、「言わなくてもこの人はわかっているんだ。この人も私も戦で嫌な思いをしてきたんだ。だから、戦を避けて逃げるなんて、口に出したくないんだ」と妻は口に出したい思いを飲み込みました。
数日後の夜半、夫婦が眠ろうとした時に街道を数多の軍勢が通過しました。
「お、おまえさん、大丈夫かねぇ」
「俺に聞くんじゃぁねえよ。わかるわけないだろう」
夫はそう言うと布団をかぶったが、実は布団の中で身体を震わせていた。それは掛け布団が小刻みに震えていたから妻にもわかったが、妻は何も言わずに布団をかぶって寝ることにした。
翌朝、妻が目を覚ますと夫の布団はもぬけの殻でした。昨夜、軍勢が通過した後だけに妻は慌てました。
「私が寝ている間に、あの人に何かあったんじゃ・・・」
慌てて階下へ降りると店の戸を開けたまま夫が呆然と立っていました。
妻は夫の背中を見ただけで「嫌な物を見ているんだ」と気が付きました。
静かに夫の後ろに立って外を見てみると街道には着の身着のままで焼け出されたのであろう、酒屋の夫婦が見つめていることにも気付くことなく、憔悴した人々が街道を力なく歩いていました。
「あ、あぁ、起きていたのか」
真後ろに立っていた妻に気が付き、夫が声を掛けたが、その声に力は入っていなかった。
「嫌なことを思い出しているのだろう」
妻はそう思って笑顔で「おまえさん、顔は洗ったかい。朝ご飯にしようよ」と元気よく言いました。
「あぁ」
夫の力ない返事が返ってきました。
翌日の昼下がり、妻が店の掃除をしていると一人の女の子が店の前を通りました。
「この辺りじゃ、見かけない子だねぇ」
妻がそう思いつつ、手を止めて何気無く女の子の動きを目で追っていました。すると妻の視線に気が付いたのか、不意に女の子がこちらが見ました。これまで抑えていたのでしょうか、堰を切ったように泣き出し、勝手に店の中へ入ってきて「あんちゃんが、あんちゃんが」と言いながら妻のすそを掴んで離しません。
妻は本当に困ったが、幼い子をむげに追い出すわけにもいかず、腰を落として目の高さを女の子に合わせてから「あんた、名前は」と聞いてみたが、「あんちゃんが、あんちゃんが」と繰り返しながら女の子が指さしたのは見当違いも良い処、夫が一人もくもくと酒の仕込みをしている酒蔵です。
「仕方無いねぇ。あんたのあんちゃん、探しに行こうか」
妻は無理に笑顔を作って女の子に見せました。ようやく話を聞いてくれる大人に出会えて安心したのでしょうか、泣きながらも一瞬、笑顔を見せました。
夫が酒蔵から出てきまして一息入れようとしましたら妻がいません。大きな声で呼んでみますが、返事どころか気配すら感じません。
「何かあったんじゃ無いか」
そう思って表に出て街道を見ます。すると妻と思しき人影がこちらに向かって歩いてきます。その人影もこちらに気付いたようです。
夫はホッとしましたが、妻の傍らに小さな人影が見えることに気が付きました。また妻は何か背負っているようでやや前屈みの姿勢で歩いています。妻の歩みが遅いので夫は心配になって側へと駈けていきました。妻は小さな女の子を連れていて男の子を背負っています。わけがわからないまま立ち尽くす夫に妻は笑顔でしっかりとうなずきます。妻が納得して行動しているようだから今は何も聞かないことにしましたが、妻の側にいる女の子が夫をじっと見つめています。夫はこの女の子へどの様に応じて良いのかわからず、突っ立ったままです。
「手を、繋いでおあげよ。おまえさん」
妻に言われて夫は女の子に手を伸ばしてみます。女の子は夫のことを頼れるから絶対に離さないという意思を伝えているように感じました。
我が家は目の前なのに女の子の歩幅に合わせて歩いていると随分と時間が掛かりました。
店に戻ってからも女の子はしばらく夫の手を離しませんでした。仕方が無いので女の子が自分から手を離すまで夫婦は待つことにしましたが、夫は廁にも行けず、とても困りました。
女の子が手を離すまでの間、妻は食事の用意をし、合わせて湯を沸かしていました。女の子の身体の汚れを洗い流し、服を替えて食事を与えました。たくさん食べると女の子は眠ってしまいました。
妻の背負われてきたあんちゃんの方はぐったりしていました。額に手を当てると少々熱っぽかったので薬湯を与え、あんちゃんの額に冷やした手ぬぐいを載せてあげました。
「こうしていると、あの子を思い出すねぇ」
ぐっすり眠る兄妹を見ながら妻が言うと夫は「よせやい」と言いますが、やっぱりあんちゃんの容体は気になっているようです。
この夫婦には男の子がいました。数年前に流行病で亡くなったのですが、あの時、戦で無ければ最寄りの街まで連れて行き、医者に診せることが出来たはずですし、男の子は助かったことでしょう。今でも悔やまれて仕方がありません。
本当は夫婦揃って亡くなった男の子のことは口に出したくはありません。しかし、目の前で熱を出して眠っているあんちゃんを見ているとやっぱり思い出しますし、生きていたら今は何歳になっているだろうか、何をして遊んでいるだろうか、思い浮かべてしまいます。
「で、どうするんだよ」
夫が兄妹の寝顔を見ながら妻に問います。
「こんなにかわいい子だよ。きっと二、三日もすれば、親御さんが、捜しに来るよ」
妻は明るく言いますが、戦になれば必ず孤児が出てきます。
「この子達、良い服を着てたよな。どこか、良い処の子だったら、礼金、弾んでくれるかなぁ」
夫が本気で言っていないと知りつつも妻は「おまえさん、そんなこと言うもんじゃ無いよ」とたしなめます。
翌朝、あんちゃんが目を覚まして酒屋の夫婦に住んでいた家を焼かれ、兄妹で逃れてきたことを話しましたが、家族とは途中で離れ離れになってしまい、今、どこにいるかわからないと伝えました。




