第六話 「鬼vs龍」
それは異様な光景だった。
埠頭から砂浜まで走ったために息が上がっている僕の脳は、少しばかり回転が鈍くなっていた。
けれど、それを差し引いても現状を理解するのは難しいと思う。
一片の光もなかった。比喩ではない。
そこかしこに龍人の吐いた火炎が砂地で燃え上がっているし、少しではあるが街灯の光もある。
だと言うのに、その地点にだけ光が届いていない。
これは、イリスの、吸血鬼の能力だろうと即座に理解できた。
吸血鬼を狩る者の称号名。シャドウキラーとはつまり、闇を切り裂ける者を指す。
吸血行為に視点が行きがちになるが、彼らの真なる恐怖は完全なる無光地帯を作ってしまうことだろう。
おそらく、あの一帯ではどれだけ火球を吐こうとも光源にはならない。ただ、闇の中で光を放たず、浴びず、燃えているに違いないのだ。
想像しただけで恐怖に足がすくむ。完全なる闇の中で人は平衡感覚を保つことは出来ない。
龍人はどうだろう。あの闇の中で動けるのだろうか。
「このままじゃ、本当に龍殺しになりかねない……どうする……」
この時、僕の頭の中ではイリスが龍人を殺してしまったらどうしよう、とそんなことばかりを気にしていた。
頭が悪い。自身に対してだがそう判断せざるを得ないだろう。
確かに戦闘能力の高い吸血鬼は脅威だ。無光地帯を容易く使っていることから、イリスはかなりの上級に位置する魔人だと言うことも想像がつく。
しかし、相手は龍人だ。魔人の中で最強と呼ばれる種族を、僕は舐め切っていた。
そして、その報いは直ぐにやってくる。
◇
「ようこそお出で下さいました」
一寸の光も届かない闇の中で凛とした声が響いた。イリスの声である。
ベルは辺りを警戒しながら、まず足元を確認した。砂地だ。
つまり、場所は移動していない。光が遮断されただけだと言うことがわかる。
「無光地帯。これを我々の種族ではキルゾーンと言うわ。何故だかわかる?」
声はすれども、姿が見えない。
どれだけ目を凝らそうとも、声の主である吸血鬼は発見出来ない。
完全なる闇の中では、自身の手足すら視認することが出来ない。段々と平衡感覚も麻痺してくる。天と地がどちらか判断が効かなくなる。
「この中では如何なる抵抗も無意味。ただただ、餌食になるだけだからよ」
そして、イリスは攻撃を開始した。
この空間の支配者はイリスである。そして、彼女は闇を自在に操れる。龍人はすでに、口の中で咀嚼を待つ料理のようなものだった。
「串刺しの刑」
楽しげな声だった。
発声と共に、闇が蠢く。
闇が動き、形を変動させた。形状は針。
足元から背後から、頭頂部から。龍人の全身余す箇所なく、影針が貫いた。
無光の殺戮地帯。この空間に誘われたらば最後。仮に師団を投入したとしても吸血鬼を討伐することは不可能である。
これに対抗するには数ではいけない。個として、相対する能力が必要不可欠であり、この龍人はそれを有していた。
「なるほど、暗闇から針を刺す技か。いかにもコウモリらしい」
声を響かせたのはベルだった。闇で見えないが、彼女の全身を影針が攻め立てている。
が、その先端は一本たりともベルの皮膚を切り裂き貫いてはいない。全てが鱗、龍鱗の堅牢なる作りに弾かれていた。
「龍鱗……少しばかり、ショックよ。全身を包囲しているのに、血の一滴も出せないだなんて」
龍鱗の硬さは考慮していた。
だからこそ、攻撃力を有し、全身くまなく仕掛けることが出来るよう場を作ったのだ。
だと言うのに、この攻撃は龍人に全くと言って良いほど効果がない。屈辱だった。
柔らかいであろうと予測した部位ですら歯が通らない。
「〈龍〉と〈竜〉の違いを知っているか?」
ベルが口を開いた。
「まぁ聞け、それは鱗だ。例えばリザードマン。彼らに鱗はない、よって龍ではなく竜人。魔人ではなく、亜人。つまり、エルフやドワーフと言った連中と同じ分類に区分されている」
説明しながらも、自身の体に突き刺さろうとしている針を順番におって行く。鋼鉄すら貫くそれをまるで小枝のようにポキポキと。
「鱗を持つ者だけが龍であり、それの頂点に座すのが龍人と言うわけだ。龍鱗を全身どこでも自在に出すことが出来る」
「ご高説どうもありがとう。まぁその鱗が堅いと言うことだけはわかったわ。さて、困ったわね。こちらの攻撃は通らない、貴女は私を捕まえられない……どう料理しようかしら」
現在、イリスはこの空間に溶けきっている。如何なる打撃も斬撃も効果はない。霞に殴りかかるようなものである。
「この空間についても、わかったことがある。わたしの勝ちだ」
「……聞いてあげるわ。言ってごらんなさい?」
強がりだ。イリスは決めつけた。
この空間ではどう身体を動かしたところで、ダメージなど通らない。今のイリスは空間そのものと言える。いくら龍人の力が強くても破壊出来る道理がない。
「火球を何回か吐いたが、まるで見えない。何処へ吐き出そうとも、その姿が見当たらない。この空間が全ての光を遮断しているからだろう。しかし、だ。確かに火球はそこに存在している。熱を感じるのだ。そこかしこで小さくなった種火が燻っているせいだろう。つまり、見えないだけの空間だ。恐るるに足りない」
そう言い切って、ベルは大きく息を吸いこんだ。終わらせる気でいる。
イリスも攻撃の気配を感じ取ったがもう遅かった。
──火龍の息吹。
光を一切通さないその空間で、異常なる熱量が爆発した。
◇
闇を見据えていた僕は、今だにどう動いたものかと決めあぐねていた。
戦いを、イリスを止める方法が思い浮かばないからだった。
僕自身を人質にするか、などと情けない案しか顔を出さない。
闇の中に飛び込む勇気はないが一応、距離は詰めてある。
この空間が解除され、イリスと龍人が取っ組み合っていたら飛び込んで止め……いや、無理だ。断言できる、無理だろう。
なにも名案が思い浮かばないと、顔を歪ませた時だった。
空間から炎柱と呼ぶに相応しい、とても立派な火炎が立ち上った。
そしてそれは、剣を振り下ろすかのように海方面へと倒れて行く。
ジュッ、と言う音がなって海が蒸発した。
あまりの熱量、熱さに思わず尻餅をついてしまう。息が出来ない。
海水の蒸発に伴い、辺りは湯気。霧のようなもので包まれてしまった。闇から霧と忙しい環境変化を見せる砂浜だが、最大の変化が起きた。
霧の向こうに人影が二つ。
ゆっくりと、近ずく。霧の合間から影の正体を捉えた。
龍人がイリスの首根っこを掴み、その身体を持ち上げていた。
「ぐっ……ぎぎぎッッ!!」
喉を掴まれているからだろう。声が出せないようだった。思い切り、何度も何度も龍人の顔面を蹴り付けているが、全くダメージになっていない。
苦しみと憎悪とで、凶相と言うに相応しいほど顔面を歪めている。イリスのあんな表情は初めてみた。
「咄嗟に空間を解除したのは良い判断だ。あのままであれば影も残さず焼き尽くすつもりだったからな……この砂浜の地形が変わらずに済んで正直ほっとしている」
既に戦闘は終了している。
いや、龍人にとっては戦いにすら換算していないのかもしれない。
それほどの実力差だったと決着だけを目にした素人目にもわかった。
巻き上げられた大粒の火炎が雨のように砂浜に降り注いでいる。まるで地獄だった。
このままではイリスは死ぬだろう。先に攻撃を仕掛けたのはイリスだ、仕方ない。龍人は防衛しただけだ。
だけだ、けど。
嫌だ。目の前で、殺しなんて到底許容が出来ない。
勝負は決している。ならば命まで取らなくても良いじゃないか。死んだらそこで終わりだぞ? なぜ簡単に命を奪えるんだ、ちくしょうめ。
動悸がどんどんと音を立てて大きくなっていくのがわかる。
僕は自分でも気付かないうちに立ち上がり、ゆっくりと魔人に近寄っていた。
翼の発露で上半身が露になっている。ボリュームのあるバストが惜しげもなく披露されており、光で反射される鱗がまたその胸部を妖艶に引き立てている。
違う、胸なんてどうでも良い。
問題なのは背部だ。
龍鱗の色はライムグリーンだった。各部位から見えているし、色の間違いはない。
だと言うのに、両翼の付け根。丁度、背骨に当たる部分。
そこの鱗が、一枚だけ桃色に見える。或いは炎の光が反射してそう見えただけなのかとも思ったが、僕の脳は違うと判断し、身体はその判断を肯定していた。
伝承、伝記に登場する龍人にはお決まりのように弱点が存在していた。
完全無欠の生物だと言う表記の中で唯一にして最大の弱点。
間違いない、あれは、逆鱗だ。
僕は自身の危険など一寸も考えることなく、最強の魔人へと歩みを進め、勝とうとすらしていた。