第四話 「龍」
「ええと、所長さんは……?」
予定時刻にピタリと足を運んできたのは、依頼主である女性だった。
栗毛で巻毛。年嵩三〇過ぎといった所で、良い具合に年齢を重ねている。可愛らしい印象を万人に与える人物だった。
「私が所長を勤めております、アルハルラト・テイラーです。アルト、と略して呼んでいただいて結構ですよ」
そう挨拶すると女性は一瞬おどろいた表情を作り、
「ごめんなさい。その、女性の方だと思ったので」
と、丁寧に謝ってくれた。
「良く言われます。が、正真正銘の男です。立ち話もなんですのでソファにお掛け下さい」
依頼主をソファに座らせ、僕も対面のソファに腰を預けた。間にはガラス製のテーブルが置いてある。
一応、灰皿を設置してはいるものの、使った形跡はない。僕はもちろんのこと吸わないし、依頼主も吸う人間が少ないからだった。
この国において煙草を吸うのは殆どが男性だ。嗜む女性も確かに居るが、喫煙者の割合からすると一割にも満たない程度である。
そして、この探偵事務所の利用者は九割以上が女性。奥方であった。
「では、さっそく依頼内容をお願いします」
「はい。わたくしの名前は、ローゼス。ローゼス・ホプキンスと申します」
ホプキンス。何処かで聞いたことのある名前だった。
ツイてる。瞬時にそう思った。名前に覚えがあるとすれば、この夫人の旦那は中々の有名人。権力者ってことになる。
自然、依頼料も見込める。
「わたくしの良人は警察機構に勤めておりまして……」
警察機構!
ドンピシャだ。脳が即座に警察機構のホプキンスさんを検索し正体を弾き出した。
〈ラルフ・ホプキンス〉。警察機構トップの人間。この間のしがない役所所長なんて足元にも及ばない大物だ。
「最近、夫の様子がおかしい……えぇ、常であれば必ず夕食時には帰って来ますのにここ最近はとんと。その、夜も遅く帰って来ない日もあるんです」
「最近、と言うのはいつごろからでしょうか?」
「二、三日前から……」
ソファからずり落ちそうになった。
二、三日忙しくしただけで疑われ、探偵を雇われる旦那に憐れみすら覚える。
そりゃ警察機構のトップにでもなれば忙しくする時もあるだろうさ。
「なるほど、それで浮──あぁ、いえ。旦那さんが家を開けている間、どこの誰といるか知りたい。そんなところでしょうか」
「はい」
浮気、と言う言葉はあえて避けた。この類の女性は旦那に心底依存している。
そのくせ疑り深く、信用していない。なのに浮気などしているはずがないと決めつけているもんだから手に負えない。
ここでそのワードを口にすれば、ヒステリックさえお越しかねないと踏んだ。
「了解しました。それでは一週間ほど旦那さんの行動を調査して記録。ご報告いたします。それ以降のお手伝い、つまり、旦那さんの素行次第で奥様がなにかしらの助力を必要とされるの
であれば、それもお手伝いいたします」
つまり、離婚を有利に進めるための手伝いである。
なるべく旦那を悪者にしたてあげ、慰謝料をふんだんに頂けるよう助力するのが僕の、この事務所のメインとなる仕事である。
「はい、お願いします」
「結構。それでは費用ですが、経費。調査に必要な金子ですね、これを抜いた金額ですが」
テーブルに置かれたメモ用紙を千切り、数字をしたためて奥方に手渡す。
経費別途請求でこの額はふっかけ過ぎか? とも思ったのだが、
「思ったより、お安いのですね。安心しました」
など明後日な返答が返って来た。
ちなみに、金額はカジノチップに換算すると金チップ二枚分。
「それでは、一週間後にまた参りますのでお願いしますね」
そう言って夫人は前金を少し払い、事務所を後にした。
「金ってのは、あるところにはあるもんだな……」
なにはともあれ、仕事だ。明日から取り掛かろう。
少しばかり前金も頂いたことだし、ここは一発肉でも腹に納めるかなと思った。近頃は吸血のせいで血が足りていない。
カジノで少し増やして、上等な肉を食べようと決めた。
「僕は食事に行くが、そっちはどうする?」
そう言うと影に潜んでいた吸血鬼は、もちろん、ついて行くわ。と返答した。
◇
一口に素行調査と言っても簡単なものじゃない。
対象の職業によっては、えらく大変な場合もある。
今回のターゲット〈ラルフ・ホプキンス〉は警察機構のトップであるからして、かなりの苦労が見込めた。
まず、日中の監視は不可能。所長ともなれば警察機構の本丸。ど真ん中に位置する所長室にいるはずだ。
となれば、そこまで監視するのは不可能。まぁ、どの道よその女とイイことしよってんなら所内はありえない。僕の仕事は彼の仕事が終わってからと言うことになる。
だがしかし、探偵と言う仕事は忍耐力が必要な訳で。つまり、いつ終わるともわからない彼の仕事終わりをこうして外で待たなければならなかった。
「ねぇ、すっごく暇なのだけれど?」
なにをするでもなく、ただ警察機構所の門を見張る僕。の腕に抱きついている魔人が言った。
「だから事務所で待ってろって言ったんだ。素行調査なんて、暇で然るべきなんだよ」
「それにしても、なのよ。日中は対象だってお仕事でしょう? 見張る意味なんてないじゃない」
「だから素人なんだ。確かに仕事だろうがそれは絶対じゃない。もしかしたなら、ちょっとした休憩時間に外へ出る可能性もある。そしてその時間に逢瀬する可能性だってある。可能性、可能性だよイリス。万が一それを見逃しちゃ、この商売は終わりなんだ」
そう言うとイリスは、ふうん、とつまらなそうに応答して拗ねてしまった。顔を僕から背けたが、手はしっかりと僕の腕を掴んでいた。
結局、ホプキンス氏が署を出て家路についたのは夜半を過ぎてからだった。
仕事場から自宅までは寄り道をせずに一直線。所内に女を囲っているわけでもない限り、浮気なんてする暇もないだろう。
結果、朝から晩。を通り越して夜中までただ見張りをしてたため、イリスは終始ご機嫌斜めだった。
その八つ当たりに、何時もより多く吸血されたのは言うまでもない。
こりゃ旦那さんは白だな。離婚調停に向けての仕事は露と消えそうだと思った。
そして、警察機構の門を忙しなく出入りする所員の数の多さにどこか引っ掛かりを覚えもした。
イリスに限界が来たのは張込み五日目の昼頃だった。
ここ最近、事務所と警察機構所、そしてホプキンス氏の自宅を往復するだけの毎日だった。
どうやら所長と言う職務はかなりの多忙を極めるらしく、どこかの誰かさんと密会するどころか外食にすら出かけていない。
朝早く家を出て、夜遅くに家に帰る。余程の仕事熱心。そう評価せざるを得ない人物だった。
「ねぇ、私もう限界。つまらない、暇よ。構って、ねぇ」
僕の二の腕を掴む力が強くなる。これだから、素人を連れまわすのは嫌いだ。メリットがない。
ついて来るなと言っても聞かないし、本当に迷惑だ。
「怒るぞ、イリス」
僕の声に冗談は含まれていない。
女の、子供の我儘に付き合えるほど我が事務所は豊かではないんだ。しっかりと、依頼者である奥さんが納得する結果を報告しなければ報酬は発生しない。
「だって……」
僕の怒気を感じたのだろう。頬を膨らませ、俯いてしまう。ここで黙ってくれれば可愛げの一つも感じるのだが、黙らないのがこの吸血鬼だった。
「もうあの男を監視して五日目。五日も経過した。その間、貴方は相手をしてくれないし、私はただその隣で頭を空っぽにして時間を潰すだけ。酷いわ、本当に、酷い」
なにが酷いのかサッパリわからなかった。
僕らはピクニックに来ている訳じゃない。デートでもない。仕事、仕事だ。
こんなことでヘソを曲げられてたら、たまったもんじゃない。
「今日が五日目。今日と、明日。そんでもって明後日でおしまいだ。見たところ、ホプキンス氏は女にかまけているんじゃなく仕事に追われてるようだし、あと少しの辛抱だ」
冷たく突き放そうと思ったが、イリス相手では効果が薄いだろうと思った。
だから、まるで小さい子をあやすように優しく我慢しろと言う他なかった。
イリスの機嫌を騙し騙し、ようやっと七日目を迎えた。つまり、最終日。
なぜ、僕がイリスの機嫌を伺わなければならないのか疑問に思うが仕方ない。
彼女の機嫌が悪くなればなるほど、毎夜の吸血量が少しずつ増えていく。
下手をすれば一ヶ月で僕は骨と皮だけの遺体になるだろう。甘噛みで優しく吸っていたはずなのに、ここ最近は思い切り牙を立てて来る。おかげで僕の首筋は常に痕が残っていた。
そして、貧血気味でもあった。
「やっとね。やっと、今日で最後。長かったわ」
「僕も嬉しいよ。これで貧血になって死ぬ心配がなくなる」
皮肉だった。
実際問題、イリスは殺さないように注意して吸血しているようだが貧血を自覚できるほどには飲まれている。
今も、少しばかりフラついていた。
「だから、朝から謝っているじゃないの」
こうして僕が度々に皮肉を吐くものだから、イリスもばつが悪いようだった。
「電気が消えたわ。そろそろね」
警察機構所の電気が落ちる。ホプキンス氏は必ず最後に退社するようなので、もはやそれが合図になっていた。
「出てきたな。門から氏が出てきた。」
何時ものように、家路についてもらい任務達成。達成のはずだった。
「ねぇ、彼のお家は確か逆方向よね?」
「……あぁ」
いそいそと、家とは逆方向に歩いてく対象。
なにか後ろめたいことでもあるのか、彼は仕切りに周りを気にしながら家がある郊外とは逆の、港の方面へと歩いていく。
「なにも最終日で動かなくっても、なぁ? イリ──ん? イリス?」
「私、ちょっと言って来るわ。家に帰りなさいって。えぇ、直接に」
イリスは本気のようで、目がすわっていた。
もちろん、そんな蛮行を許すことなど出来るはずもなく力いっぱい立ち上がったイリスの腕を掴んで引っ張った。
「きゃっ」
バランスを崩して、倒れかかってきたところを上手い具合に引き寄せ抱き止める。
なんと言って諭そうかと悩んでいると、
「もう」
とそう呟いて黙ってしまった。ほんのりと頬が染まっている。
「良い子だ。よし、着いて行くぞ」
そのまま手を繋ぎ、尾行を開始した。
結果、僕はとんでもなく災難な目に会うこととなる。
最悪、最悪。最も悪いと書いて最悪だ。そこに低いを付け足して最低にしても良い。
◇
人けの少ない埠頭だった。
島国と言うだけあって港は船の出入りがしやすいよう、きっちりと整備されている。
倉庫が何棟もあり、その間にいくつも暗がりが出来ている。密談にはもってこいの環境だった。
「こっちよ」
さすが吸血鬼と言ったところで、夜目が効くようだ。
僕の手をひっぱり対象までいざなってくれた。
「ドンピシャ。女だ」
僕の感情はなんとも複雑なものだった。最終日にして奥方が気にしていたもの。愛人、浮気相手。つまるとこ、女が現れてしまった。
調査続行ってことで、仕事は継続。金は入るが、イリスの機嫌は悪くなるだろうなと馬鹿な思考に陥っていた。
「会いたかった」
ホプキンス氏が言った。よく通る良い声だ。彼は焦げ茶の髪色を短くカットしており、顔もまさか警察機構のトップとは思えない爽やかな作りをしていた。
長身でゴツくない程度に逞しくもある。年齢は三〇半ば。つまり、エリートもエリートだ。
「女の方は、と」
街灯が薄っすらと顔を照らした。
深緑の色に染まっている髪は肩にかかる程でまとめられていいる。
碧眼で、顔立ちは小さくまとまっていて、胸のボリュームは服の上からもわかる。身長は目算だが僕と同じ程度だろうから、女としては高い方か。うん、美人だ。
「……」
女性は黙ったままだった。
「貴女を探すのにかなり苦労しました。私はこの国の警察機構。そのトップにいるもので……」
んん?
自己紹介が始まってしまった。逢瀬かと思ったら、どうにも違うようだ。嫌な予感がする、きな臭いったらない。
「警戒をして欲しくない。そのため、私一人で顔を出したと言う訳です。もっとも、人間など貴女からすれば警戒に値するものでもないでしょうが」
嫌な、不吉なワードが聞こえた。
さぁて、帰るか。どうやら対象は浮気をしているようではないし、僕の仕事は終了したようだ。
イリス、帰ろうか。そう発言しようとした時、僕の体は寒気に襲われた。
「アルト……私の歓喜がわかるかしら」
とてつもない圧力だった。比喩ではなく、隣にいるだけで押し潰されそうになる。
「龍よ。龍。本物の、龍人……」
イリスの背中から翼が生えた。普段からそこに翼があるわけではない。
魔人は普段、人と変わりない姿形をしているからだ。
変身、とでも言えば良いのだろうか。イリスは吸血鬼の魔人なので変化は翼くらいなものだが、やはり人外なのだと言うことを無理やりに認識させられてしまう。
「史上初。吸血鬼の龍殺が産まれる瞬間よ、至上の名誉だわ。……殺して、やる」
「お、い、」
抑制する暇もなく、彼女は飛翔した。
ちくしょう、どうしたらいいのかわからない。
しかも、あの野郎とんでもない言葉を発しやがった。殺してやる? 殺してやるだと?
目の前が怒りと困惑で真っ赤に染まった。そして、僕の体は考えるよりも先に、地雷原の方がまだマシだとすら思える魔人の坩堝へと駆け出していた。