第十四話 「大混乱戦」
◇
浜辺から少し離れた場所から、アルトら一行を監視している者がいた。
影は二つ。
〈レイラ・コルトピア〉と〈チェルシー〉だった。
「あぁ、もう、最悪。最悪……」
レイラは自身の背中から生やす翼と尻尾。頭部から顔を出す角を隠すことなく披露している。
チェルシーも同様で、自身が魔人。淫魔としての姿を現していた。
「なんなのよ、もう……」
手のひらで顔面を覆い、レイラはため息を吐いた。
状況は変わらず最悪である。
視線の先には正常と異常の境を完全に踏み越えてしまったリリィの姿があった。
吸血鬼の象徴とも言える朱色の瞳は薄紫へと完全に変色し、明らかに魔力量が跳ね上がっている。
なにがしかのタガが外れたことは間違いない。
「完全に壊れちゃいましたね……」
あちゃー。と、こぼしながらチェルシーが賛同する。
彼女らはリリィと呼ばれる半人半魔の厄介人を、彼女が娼館に訪れた時から監視しているのだった。
嬲り殺された〈コール〉は彼女が雇っている娼婦であるため、当然のように顔見知りである。
救出できない自身の非力さと、今も遠目で見ることしか出来ないことに憤りを覚えている。
「お姉様。ダメですよ? 淫魔である私たちでは邪魔になるだけですから」
「わかってる。わかってるけど……悔しいわね」
娼館からアルトの事務所への襲撃はまさに電光石火と呼べるものであった。
魔人の巣窟と呼べるあの事務所へ、なんの躊躇いもなく突っ込んだのである。
レイラがアルトらへ警告する暇などなかった。だからこそ、こうして今も惨めに遠巻きから見ているだけにとどまっている。
「どうします? 頃合いを見て王様だけでも回収して逃げます?」
「いえ、ダメよ。どう考えても相手は救魂鬼ですもの……執着心の塊よ。その執着は確実にあの人に向けられているもの」
混戦を見計い、アルトを攫ったところで彼女は確実に追って来る。
そして逃げ切ることは恐らく不可能だとレイラは断定してた。
殺すか、魂を奪われる前に自害するかしか救魂鬼から逃げる手立てはない。
自害する理由は、救魂鬼に殺された者の魂は永遠に彼らに囚われてしまうからである。
「戦えない、攫うことも出来ない、対峙したら逃げ切ることも……」
チェルシーが指折りで選択肢を除外していく。
「あらら、私たち何も出来ないですね。帰ります?」
「……はぁ」
レイラが溜息を吐いた。
それが出来たらどれだけ楽だろうと思う。
彼女には、万が一でもアルトに死なれては困る理由があった。
必要であれば自分の命すら投げ出して救う覚悟を決めている程である。
だからこそ、機を伺う必要があった。
救魂鬼に対して淫魔程度の介入など大した影響にならないことを理解している。
一つしかない命は有効に活用せねばならない。
それほどに、壊れた魔人と言うのは危険な存在だった。
「とにかく……機を得たら直ぐにでも飛び出すから、気持ちは作っておいてね」
「了解です」
そう二人で頷いて、再び現場へと視線を戻した。
砂浜では今だに吸血鬼と龍人が救魂鬼と睨み合いを続けていた。
◇
「ベル……聞いて」
イリスが小声で隣に立つベルに話しかけた。
視線は一寸たりとも相手から外していない。
「龍鱗に頼ってはダメよ……貴女も魔人の端くれなら壊れた場合の強さはわかるでしょう? もう、別物として考えて頂戴」
「……わかった」
チラリ、と一瞬だけ目線をアルトに落とす。
絶句していた。そして既に拘束は解けていると言うのに、動こうと、逃げようともしない。
「恐らくだけれど、あれは求魂鬼よ。吸ではなく、求。逃げられない……ここで殺していかなければ、きっと地獄の底までアルトを求めて来るでしょうね」
イリスは対象に心当たりがあった。
彼女が身に纏っている衣装は見慣れた帝国のものである。
随分と軽装ではあるが魔導騎士の兵装であることが窺い知れる。
であれば、自ずと相手の正体は浮かび上がってしまう。
現在、帝国で個人として影殺しの称号を持つ者は一人しかない。その者は息を呑むほどの容姿を持つとも言われている。
実力は折り紙つき。一対一で魔人と相対出来る人間などそうそう居やしない。
「軍部で馬鹿げた実験をしていると噂は聞いたことがあるけれど……」
イリスは、<エイリアス・ツェペシュ・ドラキュラ>は帝国でも大貴族として位置付けられる魔人の一族である。
軍部が魔人に対して有用な、それでいて不快な実験を試みようとしていると父が言っていたことを思い出した。
「まさか吸血鬼の肉体を移植するだなんてね……一族として、とても無念だわ」
討たれ、死してその体を弄ばれた同胞を偲び言葉が出た。
「…………あれぇ? あるくん?」
途端、まるで幼女のような幼さでリリィが声をあげた。
目を丸く見開き、柔らかい表情を作っている。
「あれ? あれ……? なんで? ココ……どこ?」
キョロキョロと慌てて辺りを見渡す。混乱してるようだった。
イリスとベルは視線を合わせ、言葉も無くお互いに頷く。そして、弾けるように二人ともが動いた。
壊れた魔人の戦闘力は種族の垣根を越え、極端に戦闘能力が跳ね上がる。
魔力の限界を超えた行使は、肉体の滅びに繋がる行為であるため本能的にリミッターがかけられているが、壊れてしまうとそれが外れてしまう。
魔力の高はそのまま攻撃力に変換できてしまう。
現在、リリィを取り巻く魔力は桁が一つ繰り上がるほどのものとなっていた。
「合わせなさいっ!」
イリスが叫ぶ。
左右に弾けとんだ魔人。一瞬の間で距離を殺し、全くの同時に拳がリリィの顔面に向かって放たれた。
ベルもイリスの意図を汲み、渾身の右拳をリリィの即頭部へと放り込む。
同時に攻撃が当たれば計り知れない破壊力を発揮する。双方向から加わる同時の衝撃は逃げ場を失い、その対象を完全に破壊するだろう。
しかし、けれども、
「あるくーん!」
イリスの拳も、ベルの拳も中空でピタリと止まっていた。
紫色の、霧のようなものが彼女等の手を優しく包んでいる。破壊しか生み出さないその握り拳は一寸の衝撃すら生み出していない。
「イリス! これは!?」
「なっ、これ──影、じゃないわ……違う、似てるけど、なに、これ!」
ゆっくりと、体を飲み込むように紫色のそれは二人を包んでいく。
それから幾ら離れようとも、引き抜こうともびくともしない。
「ベル! 多少は焦げても許してあげるから、焼き払って!」
「うっ、うん!」
二人が四苦八苦している様など視界に入っていないかのように、リリィはとてとてと砂浜を歩き出していた。
ニコニコと笑みを浮かべながら、アルトの前へ。
「えへへ、あるくんだ」
「リリィ……お前……」
ちょこん、とアルトの前に膝を抱えて腰を下ろす。
背後ではベルが吐き出す大炎熱によって砂浜がオレンジ色に染め上げられている。
「ねぇ、あるくん? ボク、なんだか良くわからないんだけど……ここ、どこだろ?」
人差し指を咥えながら、頭を傾ける。
これはリリィが幼少期に良く見せた癖のようなポーズだった。
「……」
アルトは言葉を失ってしまった。
先ほどと比べれば状況は飲み込めている。
リリィは。<リリーナ・アルバトロス>は壊れてしまった。人間と魔人の狭間を彷徨い、どこかで踏み外してしまったのだと。
壊れた魔人など見るのは初めてである。なにがどうなってしまうのかなんて、わからない。
けれど、記憶の混濁を見せるリリィはまるで幼き日からタイムスリップしてきたかのように無邪気な表情を見せている。
そんな彼女に対して、アルトはどうしたら良いのかも分からずただただ壊れてしまったリリィを見つめることしか出来ないでいた。
「あっ、あるくん。けがしてるよ?」
リリィの右手がアルトの左頬に触れてなぞる。
ビリリと電流のような、軽い痛みが走った。ツ、と爪先が触れて固まりかけていた血がはがれ、流血を見せる。
「くっ……このっ──大人しく焼き切れろッ!」
未だに体を捕らえようと絡みつく霧の対処に当たっていたベルが一際大きく炎を吐き出した。
イリスはその熱量にジッと耐え、断ち切れるのを今か今かと待ち望んでいた。視線の先にはアルトとリリィの姿がある。
一刻も早く駆けつけねばと心の臓が早鐘を打つ。
「いたそー……」
二人を捕らえる霧が焼き切れるのと、リリィがアルトの傷口をペロリと舐めたのは同時だった。
体の自由を確認した瞬間、イリスは二人の元へと吹き飛ぶように駆けた。
勢いのままに砂地を蹴り、風のようにリリィの頭部へとその蹴撃を見舞う。
先ほどとは違い、真芯を捕らえることに成功した。確かな手ごたえが足に残る。
「アルト! しっかりして頂戴! あの女が貴方のなにかなんて知らないけれど、アレは完全に壊れているのよ!?」
「アレじゃない、違うんだ。リリィは──」
パン。とイリスがアルトに平手打ちをくわえた。
吸血以外で彼女がアルトに手を出したのはこれが始めてであった。
「知らないわ。興味ないもの、私が大事なのは貴方なの。悪いけれど、それで貴方に恨まれようとも私は貴方を──」
アルトを叩いたイリスの右手が、腕の付け根から外れた。
彼女を襲った凶刃は砂地から伸びる紫色の太刀である。痛みが脳に伝達するより早く、イリスは更にその場から信じられない程の速度で打ち込まれた拳によって吹き飛ぶ。
「……ギ。ギ、ギ……ル……あるく、ぱい……うっぅぅぅ……」
イリスに蹴飛ばされたはずのリリィがアルトの眼前に立っていた。
足元には切断されたイリスの腕が転がっている。リリィはそれを踏みつけるようにしていた。
「やだ……怖い、怖いよ……助け、て……ア、アル……先輩……」
それが、彼女の発した最後の言葉だったのかもしれない。
美しかった藍色の髪は瞳と同じ薄紫に変色し、影で形成していたはずの翼は皮を突き破り本物のソレが生えていた。
「ハハ……なんて、なんて可哀想なんだボクは……ねぇ、先輩? そう思いませんか?」
「リリィ……?」
違う。
発音はしっかりしている。口調も確かに、正気かのように思える。
けれど抑揚のない喋りも、光彩の消えた瞳も。
アルトに向けられる視線も。全くの別物と思える程に受ける印象が一瞬でガラリと様を変えてしまった。
「幼い頃からそうだ……気持ち悪いと虐げられ続けてきた。軍に入ったところで、それは変わらなかった。女好きの糞共にも、衆道のゴミ共にもボクの体は必要とされなかった……過酷な、不可能と言える任務ばかりを押し付けられた……血と泥に塗れながら、這い蹲るように生きた……それも、これも、全ては先輩と同じ部隊に配属される為に……」
「リリィ……」
それはまるで、独白のようだった。
今は無き日を思い浮かべるように淡々と言葉を吐いていく。
「でも……駄目だった。馬鹿げた実験に名乗りを上げて! どんどんと強くなって! 帝国で最強の魔導騎士《魔導騎士》になって最強まで上り詰めたのに! ──アル君は軍からいなくなってしまった……」
既に、アルトは声を失っていた。
彼女がこうなった元凶が自分であったことを無感動に受け入れている。
冷静になればアルトに責任はなく、彼女が独りでに暴走したことは容易に想像がつく。
しかし、アルトの脳はそれをさせてはくれなかった。
幼き日に差し伸べた手を求め、リリィはこうなってしまった。
「なんて不幸なんだろう……憐れで、惨めで、不憫で、侘しく、気の毒な……もう、人間ですらない……」
「頼む、やめてくれ……」
もう聞きたくないと、アルトが喉の奥で悲鳴を上げた。
リリィは人間を辞めてしまった。壊れてしまった。もう、アルトの知る彼女ではない。
感情表現が苦手で、ぶっきら棒で、視線を合わせて話すことが苦手な。そんな彼女はもういない。
「もう良いんだよ、良いんだ。……ココからだから、ボクはココから幸せになれるんだから」
意に反したかのように、リリィはニコリと笑みを作った。
感情の一欠けらも垣間見えない笑顔だった。
「あの邪魔な魔人。殺してくるから、少し待っててね」
一瞬に瓦解する笑顔。
次の瞬間には全身が凍るほどの、殺意の塊としか表現できない顔をリリィは作っていた。
「なっ、やめ──」
言葉を言い終わるより早く、リリィはベルとイリスの元へと駆け出していた。
腕を切断されもがくイリスと、やっとのことで拘束を解いたベル。
リリィの第一の標的はイリスであった。
瞬く間に残った左腕を切断し、体勢を崩した隙に両足を脛から切断した。
ゴム鞠のように残った腹部を蹴り飛ばし、興味をなくす。
「イリスっ!!」
ベルが叫び、怒りのままブレスを吐き出す間際。
彼女は下方向から顎へと掌打を浴びせかけた。無理やりに閉口された口から火炎が漏れ、顔面から煙が昇る。
よろめくベルの両翼と尾を紫色の刃が切断した。
龍鱗など無かったかのように、それらはベルの体から切り離された。
「ひぎっ……!」
声を上げる。
生まれて初めて味わう<切られた痛み>だった。
まるで作業のように、翼と尾を切り離したリリィはベルの喉元を握り締めた。
ベルの体が宙に浮く。
酸素を吸気できず、次第に顔面が蒼白となっていった。
このままでは、ベルは死ぬ。イリスも虫の息だ。アルトの元から駆け出してから時間など全くと言って良いほど経過していない。
だと言うのにこの暴力である。
吸血鬼も龍人も歯牙にもかからない。
これが壊れた魔人の力だった。
「死ね」
アルトは駆け出していた。
間に合うはずがない。そうと分かっていても、体を止めることが出来なかった。
砂に足を取られ、何度も転びそうになったがそれでも足を前に出し前へと進んだ。
ベルの四肢から力が抜けていくのが見てわかる。時間がゆっくりと動いているようにアルトは感じた。
「チェルシーッ!」
声が響く。
レイラとチェルシーが同時に飛び出していた。
まだ数秒だが時はある。
チェルシーと比べ、少しではあるが戦闘力が高いレイラが盾になる。その隙に、少しでも遠くへアルトを逃がす。
そんな成功の光も見えない稚拙な作戦に彼女らは命を投げた。
このままではアルトは死ぬ。否、死ぬことも出来ず魂だけがリリィの内へと幽閉されることだろう。
そうなれば、全てが終わってしまう。
だから、動いた。
「……あ?」
ドサリ、とベルの体が砂地に落ちる。
喉笛を握っていたリリィの腕は、ポチャン。と間抜けな音を立て、海へと沈んでいく。
げほげほと咳き込むベルを無視し、傷口を見やった。
刃物で切り取られた訳ではない。
まるで攻城砲が腕を貫いたように、不細工にひしゃげ、千切り飛んでいった。
「フーッ、フーッ……」
獣のような唸る呼吸。
頭部は少しばかり人の姿を象っているが、上半身は違った。発達しすぎた筋肉がはち切れんばかりに自己主張している。
反対に、下半身は人間と同じような作りを保っている。
この、あまりにもアンバランスな生物は<壊化>によって獣の姿にやつしたウルスラの姿だった。




