第二話 「虎」
左手は臍部の下あたり、手のひらは返し天を向けている。
右手は左肩の方へと真っ直ぐに肘を伸ばし、指先をピンと張っていた。
妙と言えば、妙なポーズである。
「変身」
そう言い放った彼女の姿は、人の形をしているものの、どこか人と違う形をした存在。魔人になっていた。
ダメージだらけのジーンズから、尻尾が見える。黄色に黒のストライプ模様。
眼光の鋭さが先とは偉く違い、まるで猫化の動物のようであり、発達した獣耳も目立つ。
間違いない人虎だ。
「人に仇名す魔人を殴って砕く、我こそは正義の人虎、〈ウルスラ〉也!」
「……はい?」
意味がわからず、間抜けな声をあげてしまう。
妙なポーズをとったまま、まるで前口上のように彼女は叫んだ。
呆気に取られた僕をよそに、ベルは僕の体を道の端へと押しのけた。
「アルト、隠れて」
そう言われてハッとする。相手はまともな相手ではない。こんな往来のど真ん中で擬態を解き魔人化したんだ、壊れていてもおかしくない。
理性を失い、闘争本能でもってのみ動く魔人のことをしばしば壊れている、と表現するがなるほど。相手は壊れている気がする。
だとしたら、不味い。こんな所で暴れられたら……。
ここまで考えて、気付く。あの人虎は正義のーだとか、魔人をーだとかと宣っていった。
それの意味について、脳が動き始めるよりも前に相手は行動に移していた。
「一撃必殺──人虎蹴撃!」
まるで冗談のような音が聞こえた。ドン。と言うような、何かを突き破る音。聞いたことがある、これは攻城砲が放たれる時の体に響くような、重い低音だ。
しかし、こんな街の往来に攻城砲など置いてあるはずもない。
僕の眼球は壊れてしまったのか、目の前にいたはずの人虎を見失ってしまっていた。
直後に突風が吹き、彼女が居たであろう地点がまるで弾着があったかのように大きくえぐれているのが見えた。
「ベル、あの人虎は……」
隣にいるベルへ話しかける。首を横にして視線を移すが、いない。
そこにいたはずのベルは姿を消し、代わりに土埃が少しだけ舞っていた。
ベルが立っていた地点に影が出来た、状況が飲み込めず呆然としていると空から人が、魔人が音もなく降り立った。
僕の連れではなかった。
視線があう。死んだと思った。
「もう安心だ、自分が守ってやる。相手は龍人のようだが問題ない。あと数撃見舞えば終る。では!」
そう言って、人虎は駆け出した。
駆け出した先に目を配ると、遠くの方に人影が見える。ベルだった。
苦悶の表情を浮かべているし、なによりも姿が魔人となっていた。翼が顔を出し、尻尾が生えている。龍鱗が光を反射して綺麗だなと間抜けにも場違いな感想を遊んでしまった。
「ごふっ……」
ベルが吐血した。吐血? 吐血だと……ありえない光景を目にして僕の脳はさらに混乱した。
龍鱗の堅牢さは本物だ。世界で随一と言っても差し支えないはないだろう。触ればツルツルとしていて、むき卵のような柔らかさのくせに凄まじい弾性と防刃力を誇っている。斬っても突いても殴っても撃っても傷付かない現世界最強の鎧を全身に纏っているからこそ、龍人は最強と呼ばれている。
だと言うのに、吐血?
龍鱗を突き破り斬りつけ、いや、吐血と言うことは体内の裂傷だろう。つまり、殴られて骨が折れて内臓に突き刺さっただとかそう言った理由が有力だ。
「さすが龍人だ。自分の蹴撃を食らってその程度のダメージで済む相手は始めてだぞ」
「貴女は、一体……なぜ、急に攻撃など……」
「決まっている、正義の執行だ。さぁ、決着をつけてやる!」
ベルが翼を広げて飛翔した。
そうだ、相手は翼を持たない人虎なのだから空を飛んでしまえば。そう思った僕らはやはり、愚かだった。
ニヤリ、と人虎の口角があがり、イリスよりも大きく発達した犬歯が光る。
「対空迎撃──人虎手刀!」
またしても、地が抉れた。
瞬く間に飛翔するベルへ接近し、その手刀を振り下ろした。
腕で十字を作りその攻撃を防御したベルであったが、衝撃で撃墜されてしまう。
往来のど真ん中に墜落するベル。人虎は自由落下をしつつ、体制を整えベルを着地地点として見定めた。
「滅敵粉砕──猛虎乱撃!」
まるで、拳の弾雨だった。
自身の体が浮かび上がるほどの威力と速度で、ベルの全身を滅多打ちにしている。
ドドドド、とまるで工事現場から響くような音が響いた。
暴力の渦は止むことがなく、ベルに降り注ぎ続いている。
なんの予告も無しに戦いが始まり、一方的にベルが攻め立てられ、最強と信ずるに足る実力を持つその彼女が殺される、死ぬと断定出来るほどの状況に陥っている。
これはなんの冗談だ? 細々と思考を繰り返す脳を他所に、僕の体は勝手に弾き飛んでいた。
目的地は暴風雨の際勢力地点。まるで自殺だが、体が勝手に動いたのだから仕方ない。
貧血であることが間違いない体に鞭を打ち、全速力でベルの元へと駆け寄った。
ブレーキは踏まない、そのまま頭から覆いかぶさるように飛び込む。
あぁ、これは死んだ。僕の体など盾になるはずもない。全身の骨が粉々に砕け、内臓は潰れ飛び出し、ミンチになって死ぬだろう。なんでこんなことをしたのかな、と考え悔む間も無く僕は死ぬ。
死──あれ? 痛くない。
「人間。なにをしている、死んでしまうぞ」
「あ、ある……逃げ……」
僕の体を境界に、上と下から声が聞こえた。
ベルの頭を両手でしっかりと包む、殺されてたまるか。ちくしょう。
「人虎! お前はいったいなんなんだ!」
珍しく、頭に血が上っていた。今回のこれは余りにも突然すぎた。人虎にいきなり襲われる理由なんて見当たらない。僕であればまだ納得もいく、恨みは、まぁ帝国時代を含めれば相応に買っているだろうし、警察機構にも目をつけられているから。
だけど、ベルはどうなんだ?
この娘の過去なんて知らないが、少なくともこの国に来てから人に恨まれるようなことはしてないはずだ。
「自分は正義だ」
言い淀むこともなく、人虎は言った。
それを聞いて吹き出してしまう。
「正義だと? いきなり襲いかかって正義? やはり壊れている、お前は壊れてんだよ人虎!」
「人間、お前がなにを言ってるのか自分にはわからない。手を潰されさそうになってたじゃないか、無理矢理に連れ去られそうだった」
この時の僕は珍しく頭が沸騰していた。なるほど、強襲を受けた側とはこう言う気分になるのかと驚く。
帰ったらイリスに仕置をせねばならない、彼女もまた、ベルに強襲した過去を持つ。どうやらベルはそう言った星の元に産まれたようだ。
「おい、ベル。大丈夫か? くそ、失神してるのか。人間の医者じゃ役に立たないだろうし……」
覆いかぶさっていた体をどかし、ベルの顔を覗き込んだ。気を失うのは僕の専売特許だと言うのに、くそっ。心がささくれる。
「な、なぁ、おい、にんげーー」
「うるさい、黙れ喋るな」
キツく睨む。まさしく僕の顔付きは凶相に歪んでいたようで、人虎が怯んだ。
「お前は勘違いで人を襲ったんだよ、ヒーロー。頼むから消えてくれ、魔人のお前になにをしたところでどうにもならないことはわかってる、だから可及的速やかに視界から消えてくれ。頼む、お願いだ」
「ぁ……」
人虎から表情が消えた。
滑稽なものだ。自身が正義と思い込んでいたのだろう、それが違ったと認識して、なにをどうすれば良いかわからなくなっているんだ。
「そうだ、そろそろイリスが事務所に帰ってる時間だ。事務所に帰っ……」
ベルの体を持ち上げようとしたが、重すぎて動かない。僕が非力なのもあるが、翼と尻尾を出している状態は相応に重い。担ぐことなど出来そうにもなかった。
「くそっ……どなたか手伝っていただけませんか!?」
幸いにもここは往来だ。騒ぎで人は引っ込んでしまったが、それでも何事かと視線は集まっている。なんとか手を借りようと思ったが、どうにも力添えしてくれるような聖人はいなかった。
当然か、魔人同士のいざこざに自分から突っ込む馬鹿はいない。命がいくらあっても足りないからだ、僕の命はいったい幾つあるんだろうな?
「ふぎぎっ……」
なんとか背に担いでしまえば、いけるかもしれない、と無駄な努力をし続けていた。
すると、
「手伝おう……」
横から、手が伸びた。重すぎて持ち上がらなかったベルの体が軽々と浮く。
「おい、まだ消えてなかったのか?」
救いの手を差し伸べたのは、この状況に追いやった張本人である人虎だった。
「すまない、自分の落ち度だ」
キツく唇を結んで彼女は言った。
正直、手助けなど借りたくはないし、一秒でも早く消えて欲しいのが本音だったのだが、重すぎるベルの体を運ぶ手立てがないのも事実なので、
「ッチ。丁寧に運べ」
「……わかった」
舌打ちを聞こえるように打ち、申し出を受け入れた。