四話
「あー、いいお湯だった」
日課となっている朝風呂を終え、温泉玉子の殻を割りながら上機嫌で呟く。
ここはルシール伯領の湯河の近く、先日の惨劇があった川辺である。川沿いに俺の魔術で小屋を作り、家具を運び込んで、ちょっとした別荘のようになっている。
明日がルシール領に滞在予定の最終日、結局俺たちは滞在時間のほとんどをここで温泉に浸かりながら過ごしたことになる。
「・・・残念、もう終わり?」
おそらく一同の中で一番温泉を堪能していたであろうアリシアが心の底から残念そうに呟く。僅か数日の滞在で魔力の総量を三割増しにしたことを考えると当然ともいえるのだが。
「ここの温泉は諦めろ、王都に戻った後で王領なり、ダスティア侯爵領の温泉を探せばいいさ」
俺は知ろうともしなかったが、ノーリリアに点在する島の中には他にも火山島があるらしい。火山があればその近くには温泉がある。考えてみれば当然のことである。
そーいや昔、金が取れるところでは温泉も湧いているとか言う話を聞いたことが有るような無いような・・・それが本当ならノーリリアの金山周辺を探せば温泉も見つかるかもしれない、探してみるのも面白いな。
「・・・うん、楽しみ」
そう言って微笑むアリシア、この笑顔の為なら多少の苦労はなんでも無い――
「うむ、見つけたらアタシたちだけで行こう、ギーラとティオは置いて女の子だけでな」
横からいきなり出て来て何を言ってるんですか、イリーナさん。
「男女の混浴は無しなのだろう?ならば多数決で女子に譲るべきではないのか?」
そんな俺の視線に気付いたのか、そ知らぬ顔で答える彼女。だが、その声に秘められた違和感を俺は確かに感じ取っていた。
ちなみにこの数日間、イリーナとアリシアの二人は魔力吸収の邪魔になると、水着の着用を拒否しており、その為俺は、意識を失う寸前まで湯から出ることが出来ない状態になっていた。
こんな子供を相手に意識してしまうとは・・・いくら心の方も体に引っ張られて子供じみたものになっているとはいえ、前世での二十五年と今世での十二年を合わせて、四十年近い年月を生きてきた身としては、“おまわりさんこのひとです”と言いたくなってしまう。
それはさておき、聞き逃せない一言を言った彼女に顔を向ける。
「建前はいい、本音を言え」
「たった数日で魔力を倍近くにまで増やしおって・・・このままギーラも温泉に行くようでは何時まで経っても追いつけないではないか」
そーいうことか。彼女にとっては切実な理由かもしれんが、俺にとっては関係ない理由だな。そんな事で俺の楽しみの邪魔をしようとは・・・
「おい、マジになってどうする」
おもわず手に力を込め、必殺のアイアンクローをお見舞いしようと近づく俺をティオが制止する。
・・・そんなにマジな顔をしてたのか?俺は。
「そーよ、せっかく縮めたと思った差をあっという間に広げられた彼女の身にもなりなさいよ」
ターニャまで何を言って・・・
「・・・ギーラの魔力吸収の効率の高さは異常、イリーナが焦るのも無理はない」
アリシアよ、お前もか。
だけどな、地球の術者にとっては地脈からの魔力吸収なんぞ初歩の初歩、俺なら無意識レベルでやっちまうことだし、地球の学校で例えるなら二桁の掛け算みたいなレベルの事を完璧にこなせたからって褒められても困るんだがな。
大体それを言ったら、この世界の住人には魔素の利用という概念さえ無かったはずなのに、一日であっさり出来るようになったお前らがすげーよ。
現にライラ姉が出来るようになったのが昨日で、近衛隊のおねーさんたちは誰一人出来なかっただろうに。
そんな複雑な思いでイリーナたちを見ていた俺の後ろから一同に声が掛けられる。
「準備のほうはどう?昼過ぎには出発するから忘れ物ないようにね」
『はーい』
小学生の林間学校か・・・って状況的にはその通りだったか。
「相変わらず・・・すごい景色ね、ここは」
「落ちたら死ぬから気をつけてね」
湯河からの帰り道、行きも通った『硝子の崖』その縁に作られた道を通る。
硝子の崖とはこの山の中腹から崖下の海中まで直径数十キロの球状に抉り取られたような地形で、その名の通り表面の岩が硝子状に変質している。
この硝子の崖はいつ頃に出来たものかは分からない。だが自然にこのような地形が出来るはずもない。
おそらくは誰かが超高破壊力の大規模魔術を使った跡なのだろう。こんな火力は今の俺はおろか義威羅や義彦でも出すことは不可能だが、一人だけ出来そうな人間に心当たりがある。
個人的にはあんな怪物という言葉すら生ぬるい、最強の男と同じことが出来る人間が他にも存在していたというのは信じ難いが、目の前の光景を否定することは出来ない。
はるか昔、この世界にも彼・・・諏訪部真澄に匹敵する使い手がいたのだろう。
俺の主観時間ではもう二十年以上も昔に異なる道に進んだ、数少ない義威羅の友と呼べる人間のことを思い出す。
『頼むから、俺がお前を殺さなきゃならなくなる様なことはするんじゃねーぞ』
義威羅が十五才のとき、義彦に勝つ為に外法師となることを決めた日、別れ際に掛けられた言葉が脳裏に浮かぶ。
少なくとも『俺』が一般人を巻き込んだ大規模呪術や、術者の魂を喰らう邪法、人間を使った蟲毒などを使わず、正真正銘の外道に堕ちなかったのは彼の言葉が有ったからだ。
結局、それから彼と顔を合わせることは無く、俺はその十年近くの後に義彦の手で討たれたわけだが、彼は今どうしているだろうか・・・
もう二度と会うことは無いであろう旧友のことを考えているうちに崖際の道を抜け、森の中を切り拓いた山道へと入る。
クヌギとコナラの混合林、どこか日本の里山を思わせる落葉樹林の中を進みながら今の“俺”という人間は義威羅なのか、それともギーラなのか、そんなことを考えていた。
「ん?」
俺たちの歩く山道、その空気の変化にいち早く気付いたのは、当然のように俺であった。
「ライラ姉、ちょっと皆を止めて」
「え?どうしたの?」
俺の言葉に不思議な顔をしつつも、皆に声を掛け足を止めさせる。
「うん、なんか雰囲気がおかしい。なにか回りの小動物が怯えてるような、恐怖で息を潜めてるような、そんな気配がする」
常人には読み取ることは出来ないだろう微妙な空気の変化、だかかつては深山幽谷に篭り、天地の霊気と一つになって暮らしていた俺にははっきりと読み取れる。
「・・・来る!」
俺の言葉とほぼ同時、襲撃に備えていた一行の頭上から襲い掛かる十数体の黒い影。
「殺人猿!?」
ゴリラにも似た体長二メートル強の霊長類、だが温厚な性格のゴリラとは違ってきわめて凶暴であり、食性は肉食。決まった縄張りを持たずに数匹から十数匹の群れを作って獲物を求めて徘徊する。
つまり、軍隊アリの獰猛さと狼のチームワーク、そして大型霊長類の頭脳と怪力を有する(大人のゴリラの平均握力は四〇〇〜五〇〇キロ)、血赤鳥と並ぶこの島の食物連鎖の頂点である。
「なんでこんな高地に出てくるの!?」
手にした短槍を構えつつ、ライラ姉が叫ぶ。
彼女の言葉の通り、殺人猿は普段なら山羊や鹿、イノシシなどの中型から大型の草食動物が多い低地の常緑広葉樹林を徘徊している。稀に群れからはぐれたり、追放された個体が常緑林を離れ、豚肉を運ぶ馬車や牧場を襲うことはあるが、群れ単位でこの落葉樹林帯に現れたことは無いはずだった。
「ライラ姉ちゃん、文句は後で!まずはこいつらを倒さないと!」
腰に差した細剣を抜きつつティオが叫ぶ。・・・うん、まったく同感だ。
『凍れ』
魔力を込めた俺の言葉に世界が応え、強烈な冷気が吹き荒れる。一撃で片付けるつもりだったが、樹上に居た半数ほどは発動前に散り、射程範囲内から逃れていた。
魔力の流れを感知した!?本当に動物かこいつら?
舌打ちをしつつ、俺の周囲に落ちてくる瞬間冷凍された殺人猿の死体を避け、生き残りに目を向ける。
「・・・『蔓の束縛』」
だがその瞬間、アリシアの言霊に従い、樹上に巻きついていた蔓が残りの個体を縛り上げる。
「流石アリシア!『光の投槍』!」
「『雷光』よ!」
「はぁっ!!」
出来た隙を逃さずイリーナの光の投槍、タ−ニャの雷光、そしてティオの投げた毒塗りの短剣が一匹ずつしとめる。
ライラ姉と近衛の人たちも縛り上げられた殺人猿に弓を射かけ、あるいは投げ槍を投げつけている。
これはもう終わりかな・・・と、考えているうちに一際大きな一体、群れのボスであろう個体が蔓を引きちぎり逃げ出すのが見える。
あれを逃がしたら、今度こそ馬車か牧場を襲うよな。
『貫け』
懐から取り出した短剣、それを投げつつ魔力を乗せる。
魔力のブーストを得た短剣は弩さえも超える勢いで殺人猿のボスに迫り、その延髄を貫いた。
「終了ーっと。ライラ姉、皆に怪我は無い?」
だが、そんな俺の言葉に対する返答はライラ姉の呆れたような視線。
「なんだよ、その視線は」
「いや、ギーラ君って本当に反則だな、と」
・・・・・・デジャヴか?数日前にもこんなやり取りをしたような。
「殺人猿の群れに会った時点で私は死んだと思ったわ。最悪、私と近衛隊全員で囮になってでも皆は逃がさなきゃいけないと覚悟を決めてたの」
ふんふん、それで?
「それが終わってみれば何よ、瞬殺じゃない。これが反則じゃ無ければ何だって言うのよ」
・・・言われてみれば、その通り。
いや、だけど今回俺がやったのは最初に半分を瞬間冷凍にしたのと、ボスに止めを刺しただけで、残りを拘束したアリシアや数秒の拘束で息の根を止めたイリーナたちだって十分に反則じゃあ・・・
「・・・ライラ姉さん、いまさら」
「そうよ、ギーラの非常識さにいちいち驚いてたらキリが無いわ」
ちょっ・・・そこまで言うか?
「そんなに落ち込むな、ギーラ」
ああ、そうだよな。ここでフォローしてくれるのはお前だけだよ、ティオ・・・
「自分が普通だって思ってるのはお前だけだから、いい加減に開きなおっちまえよ、な?」
・・・この裏切り者が!
「ふん、特別だからって好い気になるなよ、アタシがすぐに追いついてやるからな!」
いつもと変わらぬ反応が心の底から嬉しいぞ、イリーナよ。
そうして俺の心に地味に痛手を残しつつ、道を急ぐ俺たちであった。
森を抜けルシール伯爵の居城、その城下町を一望できる丘の上。本来ならば予想も付かない・・・だが、流れからすれば予想してしかるべきであった光景に思わず呆然とする。
「今度は血赤鳥?いったいどう言うことなの?」
城門の周辺に寝そべっている数十匹のダチョウに似た紅の巨鳥。ルシール伯爵領のもう一つの食物連鎖の頂点、血赤鳥。
数十匹で草原に広大な縄張りを作り、そこに侵入した捕食対象である水牛やイノシシ、野生馬以外の動物――他の群れの個体や肉食獣、人間などは執拗に攻撃し、排除する。
ここから見る限りでは、城門から街道にかけてを新たなテリトリーとした群れが居座っているということなのだろう。
「ライラ姉・・・この辺に血赤鳥の縄張りってあったっけ?」
「まさか、一番近い所でも馬で一日以上掛かるような距離よ」
まったく一体どーなっているんだか・・・だが、城内の兵士達は身動きが取れ無いみたいだし、俺がやるしかないよなあ・・・
ため息をつきながら血赤鳥の群れに向けて足を進める。背後ではライラ姉たちが何か言っているが気にしない。
反則、化け物、モンスター、何とでも言うがいい。ただイリーナとアリシアの二人ならこれから使う魔術を解析・応用して、より強力な魔術を開発することだろう。
俺は本来ならこの世界の異分子、皆の糧となることこそ本望、俺個人の評判など如何でもいい。そう心に言い聞かせて魔力そのものを放出し、目の前の地面に浸透させていく。
クゥエエエエエエエェェェ!!!!
俺が縄張りに侵入すると同時に数十匹の血赤鳥が突進してくる。
あと5メートル・・・2メートル・・・よし!
『閉じろ』
俺が魔力を浸透させていた一帯が隆起し、数十匹の血赤鳥を閉じ込めるように石のドームが出現する。
だが、無論これで終わりじゃない。
『爆ぜろ』
言葉と同時に響く爆音、ドームの内部で起きた大爆発に空気が震える。
密閉空間内での大爆発、魔力そのものを効率的に使うだけじゃなく、この世界の魔術はこういう使い方も出来る。
石のドームが崩れ、その中から数十匹の血赤鳥の死体が覗いて見える。
「魔王・・・」
全滅した血赤鳥の群れ、その死体を前に佇む俺の背後から底知れぬ畏怖と恐怖の込められた、そんな声が聞こえた気がした。