二
遡る事、数週間前のことだ。
最初の事件現場から比較的近い場所にある大学の研究室で、田城睦美が真剣な表情で顕微鏡と睨めっこしていた。
そんな研究室の部屋の窓に向かって黒い大きな影が現れた。
窓いっぱいに広がる人の顔は、恐ろしく見えて寝ぼけていた睦美は椅子から転げ落ちた。
その音を聞いた大きな黒い影は不気味に笑い出す。
窓をこじ開けて来た。
ひぃ!!
恐怖で声も出ない。
床に尻餅をついたまま窓を見上げる睦美の目の前には、真っ黒に日焼けしたお隣の尾崎小次郎が立っていた。
「よぉ〜。毎回毎回簡単に驚いてくれちゃうから、嬉しいね〜。こーんな簡単な仕掛けにすぐに引っかかっちゃうから止めらんないんだよな〜」
にやにやと笑って来る。
お隣の尾崎小次郎は、
いつの間にか人の家の窓ガラスに昆虫の好きな塗料を人形になるように塗っていたなんて…。
「!!!!」
顔を真っ赤にして怒って来る睦美の頭を大きな手で撫でながら「悪かったよ」と口では言ってるけど、目が笑っているじゃない!
「あ、あんたなんか蟲に食われちゃえば良いのよ!」
睦美は今新種の昆虫を作る実験をしている。もしこれが認められたら…と思うと旨がワクワクして来るのだ。
「今回は何の研究だよ?」
「軍隊蟻の遺伝子とこのクモの遺伝子を組み合わせるの。これが成功すれば、この蟲の弱点である短命って言う所が補われるのよ。後は蟲たちがどうやって連絡を取っているのか、そのシステムが分かれば私達人間の生活の役に立つのよ」
「どんな役だよ? 力が強大化するのか?けけけけけ」
小次郎が茶化して来ても、研究熱心な彼女は自分の持論を持って熱心に説明し始めた。
ー遭難した時に携帯電話も使えない場所で、蟲と同じような通信方法があれば助かるんじゃないのか。
ー誘拐されたとしても、蟲独自の探索能力で誘拐犯人と一緒に被害者も見つける事も出来るだろ?
ー後は…戦争かな…。戦車の弾も避けれるような頑丈な体になれば、結構最前線で活躍するんじゃないのかな。これは本当はあんまり使って欲しくはないわね。
「お前、そりゃ〜マンガの見過ぎだっーの、それよりもさ〜何か食わしてくれよ」
小次郎の言葉にムッと来た睦美だったが、あまりにも彼が情けない声を上げて来るので、怒りながらも「ちょっと待っててよ。あ!これに触っちゃ絶対ダメだからね」と念を押しながらも、一度研究室を出て隣の資料室兼ロッカーへと向かって行った。
成人しても未だに悪戯盛りの小次郎は、睦美がいなくなったのを確かめると、ニンマリと笑みをこぼした。
さっき睦美から聞いた話では、これは金のなる木だ!
そう確信した彼は、ポケットから小さなスーパーのビニール袋を取り出すと、さっそく彼女が研究しているシャーレに置かれていた黒い塊の一つを盗んだ。
「お待たせ〜。持って来たわよ。サンドウィッチで良いんでしょ? ったくおばさんがあんたに渡して頂戴って行っていたけど。本当に研究室に来るとはね…」
「ああ!!サンクス! 神様仏様睦美様だな」
笑いながらそう言うと、ハムサンドウィッチを美味しそうに食べ始めた。
「なあ、これって何を食べるんだよ?」
(やっぱ、金のなる木には多少の投資も必要なんだろうな。きっと…。まあ、高く無きゃ良いけどさ)
「さあね。でも、今の所はベジタリアンで全てオスにしているの。そうしないと軍隊蟻のDNAも入っているんだから、何か間違いがあったら困るじゃない? 狩りをするのは動物もそうだけど、メスの役目なんだって。オスは普通に働くだけなのよ。人間社会とは逆なのよね〜」
「ふ〜ん。じゃあ、金になるのか?」そう言いながらも小次郎は次々とハムサンドウィッチを口の中に放り込んで行く。
「さあね。私は金になるならないで研究を続けているわけじゃないんだもん。人のためになるかならないかよ。食べたんなら、早く帰った帰った!」
腹も満たされた所で、「ヘイヘイ。じゃあな。睦美、ごちそうさん!」と言い残すと、まだ一つだけ残っていたハムサンドウィッチを掴むと、そのままポケットに突っ込んだ。小次郎は、そのまま来た道を(屋根を伝って)自分の家へと帰って行った。
その夜、隣の小次郎の家ではいつものようにジーンズで上半身裸の状態で、眠っている小次郎のジーンズのポケットで何かが蠢き始める。
その次の日には、小次郎がジーンズのポケットに慌ててバイクの鍵を突っ込むと、食卓からベーコンを数枚とトーストを二枚攫うように取った。
「これ!小次郎!!ちゃんと座って食べなさい」
「わりい!時間ねーんだ。これでよっし! カギカギ…!あった!」
即席でベーコンサンドにすると、まだベーコンの油がついた指でジーンズのポケットを弄って行く。
バイクの鍵のキーホルダー部分には、黒いゴミみたいな物が付着していた。
「ちぇっ睦美の研究だから、金になるかと思ったのにさ、こんなゴミになるとはな…
それに気がついた小次郎は一旦バイクを止めると、多摩川の土手に向かって黒いゴミを指で弾いた。
黒い塊は放物線を描くように河川敷の河原に向かって消えて行った。
この時、黒い塊の上にべっとりとベーコンの油が付いていたことから、これからの悲劇が始まった。
蟻や、ハエがベーコンのニオイにつられて黒い塊の上に集って来ると、ガサゴソと黒い塊が左右に揺れ始めた。
同じ塊から無数に蠢く黒い影が出て来たかと思うと、近くを通っていた野良猫の体を捉えた。
ギャオン…!
猫の断末魔と共に、動き出した黒い影。
最初の事件からまた一週間も経たないうちに、今度は別の遺体が発見された。
遺体が発見されたのは、最初の事件現場となった隅田川河口付近から数キロ離れた住宅街の一つ。
蟲とは縁もゆかりもないような家で、その家の中はゴミ一つ、埃一つ落ちてないと言う。
そんな家の浴室で主婦は半分体が白骨化した状態で発見された。
第一発見者は夫。
夫がいつものように朝、台所にいるはずの妻に声をかけようとするが、妻の姿が見つからず慌てふためいた。妻の名前を叫びながら呼ぶと床に点々と血の跡を見つけ、すぐに警察に通報した夫が見たものは…浴室で変わり果てた妻の姿。
警察は初めに第一発見者の夫を犯人だと目星をつけていたが、近所も子供たちでさえも羨むようなおしどり夫婦だった夫には妻を殺害する動機が見つからず、事件は難航していった。
昨日まではピンピンと生きていたのに、朝突然半分白骨化していると言う事も警察の頭を悩ませて行く。
死亡解剖の結果、主婦の体から数個の蟲の蛹と幼虫が発見された。
検死官も何故蟲の蛹なんだと首を傾げていたが、それを見つけた検死官はそれを丸いトレーの上に乗せるとメスを使ってそっと固い蛹の殻を割りはじめた。
中から出て来たのは、まだ羽化していない蟲と未だに蠢いている幼虫。
この遺体安置室では検死官が変死体の死亡原因を調べるために死体を解剖している。
中には、この熱い最中、なかなか発見されずにいた死体もあり、それらからはウジが出て来たり、時には成虫が口から出て来たりするのは、この時期ならではだが…。
「ウジ? いや…違うな…なんなんだこの蟲は」
黒点のような幼虫と言うのは初めてだ。検死官は右眉を上げるとズレ落ちた眼鏡をくいっと元に戻して、被害者の足の親指に付けてあるタグに書き込みをしていると目眩に襲われた。
ここ何件か同じような変死体が運び込まれて来るようになって、連日連夜での徹夜はすでに足にまで来ているようだ。
眠気覚ましのためにコーヒーを飲もうとした時に、白衣の袖に何かが引っかかってしまった。
大きな音が遺体安置室内に響き渡る。
どうやら、シャレーと一緒にトレーも落としてしまったようだ。
蛹だけはすぐに見つけたので証拠物件として再び新しいトレーの中に入れるとイソイソとトイレに向かって行った。検死官の靴の裏には、緑色の蟲(幼虫)の体液がべったりと付着していた。
床に落ちた幼虫をそれとは知らずに、検死官は靴で踏みつぶしていく。
彼が外に出ると、それまで煩かった蝉の声がピタリと止まる。
薄気味悪く感じた彼だが、台風でも近づいて来ているのだろうと気にも留めない。怪しい空模様を見ると彼は、近道と称して警察署から駅までの最短通路の公園へと急いで向かって行った。
「うわわあああ!!」
暗闇から黒い砂煙が吹いて来たかと思うと、体中を闇色に覆い尽くされ検死官が悲鳴をあげる。
だが、彼の必死の悲鳴も都会の喧騒にかき消され、誰一人彼の助けを求める声を拾う事は出来なかった。
次の日、公園で検死官の白骨化した死体が発見された。
事件を担当した刑事が、手帳に事件の被害者の名前を書き連ねて行く。最初の被害者であるホームレスの男性、次に主婦、その次が検死官。
「一体どうなっているんだか…」
「ちまたでは一種の都市伝説が囁かれているって話だけどね」
「口さけ女ですか?」
「さあな…にしても、ヤマサンは昨日までピンピンしていたんだよな?」
「ああ…昨日は例の変死体の検死をしていたらしいからな」
富永正臣と松田レンが仏さんに向かって小さく合唱をする。
検死官のヤマサンこと山口紀博とは、飲み友達だった。
一体何があったんだ?