第6話『風纏う者』
月の話をしようか。
そう、お空にぽっかり浮いている、あの月さ。
月は元々この星の一部だった。
兄弟だったのかって?
…そうとも言えるなぁ。
本当は別れ別れになるはずじゃなかったんだ。
お空に上った月は、元の星と別れがたくて、元の星に戻りたくて、その周りをぐるぐる回っているんだ。
もうずっと大昔、大きな、それは大きな石がぶつかって、星が砕けてお空に上ったそうだよ。
そこに人は住んでいたのかね?
一緒にお空に上ってしまいはしなかったかね?
【ある吟遊詩人の戯言】
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旅芸人の一座はルーズァの街にひと時の賑わいをもたらした。
街一番の広い街道のそこかしこで一座の華麗な技を興奮気味に話す人を目にした。
一座の芸に興奮しているのはアリベンティス家ではルビーンズも同じで、吟遊詩人が歌っていたという詩を諳んじてみせるのだが、思ったより上手く行かなくてじれったく思っているらしい。
アジュを招いての夕食を終えてから皆で今日の一座がどれだけ素晴らしかったかを話し合っていた。
「歌うために生まれたような声なのよ。本当に本当に素敵だったんだから」
「ふぅん」
「お兄ちゃんも聴けたら良かったのに。迷子になっちゃうなんてついてないのね」
「俺は!男として!ナラ姉ちゃんに手を引かれて街を歩くなんてことはしちゃいけないんだ!」
「男の子ってそんなもの?」
「どうだろうな」
ルビーの視線を受けてアジュが興味なさそうに答えた。
「お前が変な意地を張るからみんなで探す羽目になったんだぞ」
「そんなこと言って、しっかり一座を楽しんだみたいじゃんか。別にいいだろ?」
「ルーズァだけ見られなかったのは残念だったねぇ。一座が行ってしまう前にもう一度くらい観に行くかい?」
カレルは読んでいた本から視線を上げて言った。ルーズァはふと黒衣の女を思い出す。自分は人ではないと言った彼女は尖った牙を見せながら、そこで会ったことは秘密だと言った。冗談めかして「約束を違えれば妹を食らいに行くぞ」と。果たしてあれは本当に冗談だっただろうか。あの牙が言葉に妙に説得力を持たせる。
最初は悪い人ではないと思った。でも、別れるときは怖い人だと思った。彼女はルーズァに妹がいることを知っていたのだ。まるで始めからルーズァを見ていたような口ぶりだった。底知れなくて、怖い。出来れば近付きたくはない。
「ん…いいや。なんか、人ごみに疲れちゃったし」
「そうかい?」
「うん。またはぐれるのはごめんだしさ」
ルーズァは努めて明るく笑った。カレルは首を傾げていたが、それ以上追及はしなかった。
「アジュ、そろそろ帰るだろ?」
「ああ。サルトーニに伝言を頼んであるが、長も心配するかもしれないからな」
「お兄ちゃん、送ってくんでしょ?あたしも行く」
「ルビーはだめだ!危ないだろ!」
黒衣の女が笑った顔が頭を掠めた。
次に、驚いた表情のまま固まっているルビーを見て、はっとして口を覆った。
「いや、その…もう、暗いし。送ってくって言っても、すぐそこだし?」
「…お兄ちゃん、なんかヘン。迷子になってた間に何かあったの?」
「別に…何もないけど……いいぃって!!」
目を泳がせながらルーズァが言い終わらないうちにルビーの両手が勢いよくルーズァの顔を挟んだ。
「あたしの目を見て言いなさいよぉぉぉ!!」
「なんでお前最近そんなに攻撃的なんだよ!!」
赤くなった両頬をさすり労わりながらルーズァは抗議した。
「まあまあ、ルビー。いつまでもアジュ君を待たせるのもなんだから。今日は諦めなさい。暗くて女の子には危ないのは本当なんだし」
「でも…」
「何でもないんだって!!アジュ送ってくる!!」
ルーズァはそう言うと、半ばアジュを攫うようにして家を出た。その後ろ姿をルビーンズは心細そうに見つめていた。
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月も寝静まった夜の道で、虫の声だけが静かに響く。
ちょっとそこまで、と言うには随分遠い道のりをルーズァはアジュと並んで歩いていた。
「ルビーの心配も尤もだと思うが…。今日のお前は何かに怯えているように見える」
さすが、アジュは鋭い。ルーズァは咄嗟に言葉を接げずに息を呑み込んだ。
「………本当に、何でもないんだよ」
「俺にも言えないことか?」
ルーズァは押し黙った。
「誰かに口止めされているのか」
全くアジュは鋭くて時々嫌になる。
ふ…とため息が聞こえた。
「俺が音くくりのまじないでも出来ればな。お前が心配する必要もなく悩みを打ち明けられるのだろうに」
アジュは心から心配してくれているのだ。どうしたって打ち明けられないルーズァは胸が痛んだ。親友の信頼とルビーンズの安全は秤にかけてもルビーンズの安全の方が勝る。ルーズァにとってルビーンズは文字通り同胞なのだ。時を同じくして、同じ母親から生まれた。兄弟より血の濃い、ルーズァにとっての唯一。
アジュはそんなルーズァの葛藤を見て取って、彼を小突いた。
「無理に打ち明けなくてもいい。ただ、困ったことになったら真っ先に俺を頼れ。どこにいてもお前が呼べば森が教えてくれる。すぐにお前の許に駆けつける」
「………風に乗って?」
「疾風より速いぞ」
「すげー自信だな」
ルーズァは小さく笑った。
「アジュ、言えなくてごめんな。でもお前がそう言ってくれるの、正直すっげぇ心強い」
「それが俺たちの役目だからな」
ルーズァの真っ直ぐな言葉は受け止めるのに苦労する。本人が無自覚なだけに始末が悪い。アジュの口からはいつも素直でない言葉が滑り出てしまうのだ。
「もうここでいい」
夜の森はルーズァであっても必ずしも安全とは言えない。ましてや、今日は道を照らす月も出ていないのだから。黒い新月の色。いつか不思議な双子の夢を見た時のルーズァの目の色と一緒だ。それはルーズァの不安を掻き立てた。
「なあ、いつか俺に言った言葉って何だっけ?」
「何の話だ?」
「黒い瞳になった話をした時に言っただろ。イーマ…何とかって」
「…ああ」
「それって、≪月≫と関係ある?」
「なぜそれを聞く?」
「お前が新月の色だって言ったから、今何となく思い出した」
「……ないとは言わない」
「…そっか」
アジュは逡巡した後決意を瞳に込めた。月明りのないこの夜、ルーズァにその光は届かない。
「ルーズァ、そのことは誰にも言ってはいけない。夢を見たことは俺とルビー以外には言うな」
その言葉はルーズァの脳裏で黒衣の女の言葉と重なった。その偶然が不安だった。だから、ルーズァはアジュの言葉の意味を追及する気になれなかった。知ってしまったらもっと大きな不安の存在に気付いてしまう気がして。
森に入る手前でアジュと別れた。闇に紛れていくアジュの後ろ姿に心細くなって、走ってその場を後にした。
今宵は新月だ。アジュもルーズァも、ルーズァを獲物を追うように血走って見つめる獣の目の光に気付かなかった。
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獣は暗闇を駆けた。心臓は歓喜に震えていた。
『見つけた!ついに見つけた!!』
獲物の肉を食んだ時以上の歓喜だ。ずっと探し続けていた。焦がれ続けていたのだ。
『我らの主を呼び戻す者!』
獣は新月に向かって遠く吼えた。
それを合図にしたように森の木々が風もないのに大きくざわめいた。木々は全身から大きく警告を発していたのだ。それを聞くことが出来る者に。
背後の森が騒がしいのを不思議に思って振り返ったルーズァの目に飛び込んで来たのは、迫り来る闇のような黒い獣だった。
「なんだッ!?」
腰に剣は差していない。全くの丸腰だ。
獣はルーズァが逃げられないように素早く回り込む。金色の眼がルーズァに釘付けになっていた。
(なんだこれ…こんなに大きい狼、この辺じゃ見たことないぞ…)
獣はルーズァの周りをぐるぐると回っている。襲い掛かる瞬間を見定めているのか、ルーズァの反応を面白がってでもいるのか。緊張に身体を強張らせるルーズァの耳に聞き覚えのある声が聞こえた。
『ふふ…坊、この姿で会うのは初めてじゃな』
「…占い師のおばちゃん」
『おばちゃんはないぞえ』
獣が笑いを含んだ声でそう言うと、その姿が影のように膨れ上がり、黒衣を纏った人の形を成した。
「坊よりずっと年上ではあるがのう」
くすくす笑うのはルーズァの反応を面白がってのようだ。
「…俺、誰にも喋ってないぞ。ルビーを…どうする気だ?」
「どうにもせんよ。ありゃ冗談じゃ」
思いの外人懐っこく笑ったその口の端には尖った牙が覗く。昼間会った時にはあれほど怖かったのに、今は愛嬌さえ感じさせてルーズァは拍子抜けした。
「なんじゃ、怖がらせてしもうたか。それは悪いことをしたのう」
からからと明るく笑う。
「わらわはこんな牙を持ってはいるが、人は食わぬぞえ」
「冗談に聞こえないんだよ!全く…俺がどんなに怖い思いをしたかわかってんのか!」
「妹を失うのは怖いかえ?」
虚を突かれてルーズァはぐっと言葉を呑み込んだが、素直にこくんと頷いた。
「護りたいと思うかえ?」
「ああ、護りたいよ。絶対に」
微かに、淡くルーズァの瞳が菫色に染まった。この暗闇の中、黒衣の女にそれが見えただろうか。
「…坊の≪力≫は随分と不安定なようだねぇ」
「俺の≪力≫のこと、なんか知ってんの?」
「さて…どうかのう」
謎かけめいたやり取りにルーズァは困惑していた。
「おばさんはどこの民?≪水≫?それとも≪火≫?」
獣から姿を変じるなど、アジュと同様にどこかの民に違いない。姿が変わること自体には然程驚きもしなかった。
「おばさんはないぞえ。わらわにはユイネ=アシュハシュという名前がある」
「ごめん」
「わらわは≪月≫の民じゃ」
「え?」
ルーズァは父から聞いていた。≪月≫の民の伝承はどの地にも全くない。存在していないのではと思われるくらいだ、と。
「≪月≫の民はずっと影ながら坊のことを探しておったのじゃよ」
「俺を?どのくらい?」
「さて…どのくらいじゃったか。≪近しい者≫がこの地を離れてからずっと…」
「俺が生まれるずっと前から?」
「そうじゃ。ずぅっとじゃ。やっと会えた…」
ユイネは青白い手でルーズァの頬を愛おしそうに撫でた。その手はかすかに震えているようだった。見上げると、ユイネの細めた目に金色とも銀色ともつかない不思議な色が輝いていた。その色に見惚れていると、ルーズァの身体をユイネが優しく抱き締めた。
「これでわらわたちは救われる…」
優しい抱擁に反してルーズァの胸はユイネの言葉に射抜かれた。その言葉に悲痛なものを感じたのだ。彼女を押し退けてルーズァは問うた。
「救われるって?どういう意味?」
ユイネが口を開きかけたところで、突然鋭い風の刃が彼女の黒衣を切り裂いた。
「ルーズァから離れろ!!」
振り仰ぐと、アジュが疾風より速く夜の空を滑り降りて来た。地に足を着ける間もなく二撃目を黒衣に向かい放つ。風の刃が更に黒衣を切り裂いた。
「アジュ!やめろよ!」
「当てていない。奴は全て避けている」
「…やれやれ、≪風≫の者に見つかってしもうたか。まあ、≪風≫の縄張りでは見つかるのも時間の問題だったがのう」
「≪月≫は何を考えている?何のために≪風の森≫まで来た?」
「かまととぶりおって。知っておろ。≪イーマ・スュール≫を探しに来たのよ」
ルーズァはその言葉に聞き覚えがあった。アジュは確かにそう言わなかっただろうか。あれはルーズァの事だったのだろうか。
「ルーズァはそんな者ではない」
「隠し立てするかえ。その不安定な力が何よりの証拠よの」
「≪力≫も見ずにそんなことがわかるのか?」
「連れて行けばわかることじゃ。そなたひとりに坊を守りきれるわけもあるまい?」
「そう思うか?」
アジュがそう言うと森がざわめき、何かがこちらにやって来るのが見えた。それは暗闇の中にあってなお白く浮かび上がる白鳥の一群。
「≪風≫の民たちを相手に逃げられるとでも?」
「…ちっ!」
「逃がさぬよ」
一陣の風が黒衣の女の行く手を塞いだ。ルーズァは何事かわからないままにアジュの背に庇われた。
「…そなたらほどではないにしても、我らも縄張り問題にはうるさいでな。縄張りをうろつく犬にはうんざりしておったところよ」
「…≪風≫の長マリウか」
マリウはふわりと着地した。
「さてさて…≪月≫の者が≪風の森≫に何用かのう。返答次第ではこのまま帰すわけにもいくまいの」
マリウがそう言うと、≪風≫の民たちの白刃が鞘から解き放たれて煌めいた。黒衣の女の額に汗が浮かぶ。が、その表情は場違いに笑みで形作られていた。
「…≪風≫の民が総出でお出ましか。成程、坊の力に確信が持てて来たぞえ」
「やはりルーズァが目当てであったか」
「≪イーマ・スュール≫の誕生は我ら≪月≫の宿願!邪魔はさせぬぞ!!」
黒衣の女は白刃を煌めかせてマリウに踊りかかった。しかし、剣の腕で≪風≫の民の上を行く者はいない。黒衣の女の白刃を避けながらマリウの剣は舞うように彼女の進退を追い詰めた。
「…くッ!」
黒衣の女は深手も浅手も無数に受けてとうとう地に膝を付く。
「はて、何のことかわからぬな」
次の瞬間、大きな風が巻き起こった。≪風≫の民それぞれの手の中に風の刃が閃く。その刃先はもはや動くことが出来ないユイネに向けられていたのだ。ルーズァはそれを見てしまった。そうなるともう、考える間もなく飛び出していた。
頭に血が集まる。全身が熱くなり、指先が焼けるように疼いていた。
「やめろぉぉぉーーーッ!!」
ルーズァは、ユイネを背にして≪風≫の民の前にその両の掌を差し出した。
「ルーズァッ!!」
無数の風の刃にルーズァが引き裂かれる悪夢が目の前を過った。しかし、駆け出そうとしたアジュの行く手を風の壁が遮り弾き返した。民たちが放ったものとは別の、遥かに大きい力に弾かれてアジュの身体は投げ出され、地に四肢を強かにぶつけた。
「う……」
周りを見ると、アジュと同様に風に弾かれた民たちがそこかしこに倒れていた。身動ぎしない者はいない。皆軽傷のようだ。
「……なんだ、これは」
マリウの前に聳え立ったのは天を衝くほどの竜巻だった。マリウたちと黒衣の女の間に厳然と立ちはだかる風の柱の中心にいるのはルーズァである。
「……坊が、これを……?」
「いくら風騎士だろうと、この人を傷付けることは俺が許さない!!」
紫電に煌めく瞳がマリウを射抜いた。
「ルーズァの≪風≫の力か…!!」
「ルーズァ!いかん!力を止めろ!!」
アジュの制止はルーズァの耳には届かなかった。風の柱はかすかに帯電してさえいる。これだけの力の中心にいて、無事でいられるはずがないのだ。風の柱はルーズァの苦悶を見るように、大蛇が悶え苦しむようにうねり、猛る。
(…息が、出来ない…!)
酸素さえも巻き上げた風の柱の中心で、ルーズァの肺は悲鳴を上げていた。だが、この力を収めることは出来ない。ルーズァが護らなければ、ユイネは≪風≫の民たちに殺されてしまうかもしれない。
(ユイネが殺されるのは嫌だ…でも…)
それ以上に、風騎士が人を傷付けるところを見たくなかった。ルーズァは風騎士のようになりたかったのに。人々を護り慈しむ、風騎士のような大人になりたかったのに。
「ルーズァ!もうよせ!!」
アジュの声が悲鳴のようだった。
『和子よ、もう良い』
ルーズァの背後から、獣が低く唸るような声が聞こえた。
『我が同胞は我々が連れ帰る。もう、良い』
倒れたユイネを助け起こしたのは三頭の大きな狼だった。ユイネの遠吠えに呼ばれたのだ。
『…同胞を助けていただき、礼を言う。小さな風騎士よ』
「…風騎士?……俺、が?」
『同胞を助けしその心根は騎士の如く気高きものとお見受けする』
一際大きな狼が頭を垂れた。他の狼もそれに倣う。
『坊…いや、風騎士よ。ありがとう』
そう残して三頭の狼と傷付いた一頭の狼が闇に紛れて去って行った。去り際に傷付いた狼―ユイネが金色の瞳で振り返った気がしたが、幻だったかもしれない。もうルーズァの意識は朦朧としていて、力の止め方さえもわからなかった。
狼たちの後ろ姿を見送り、限界に達したルーズァは全身の力を抜いて意識を手放した。
唸る風の柱がルーズァの身体に吸い込まれるように消えた後、そこに残されたのは仰向けに倒れたルーズァだけだった。
「≪月≫は!?」
「…逃げたようじゃな」
「ルーズァ!!」
アジュはルーズァに駆け寄った。すぐに呼吸と鼓動を確かめる。…気を失っているだけだ。ほっとしてルーズァを抱き締め、その身体を担ぎ上げた。
「……驚くべき力だ」
マリウがアジュに担がれてやって来るルーズァを見て驚嘆の声を上げた。
「最初に牙を剥いた相手が我々というのが皮肉ですが」
ルイリュールが苦笑する。
「なに、些末事、些末事」
マリウは目を閉じたルーズァの額を撫でた。
「この子の力は護るために使われておるのだな」
ほっとしているように、アジュには聞こえた。