第3話『森の子供たち』-後編
『最近、よく森に逃げ込んで来るんだな?』
白い鳥のアジュがくくっと笑う。ルーズァはそれをからかわれたと思って口を尖らせた。
「だってよー、ナラ姉ちゃんの稽古ってすっごい厳しいんだぜ?」
『その割にはここに来ても剣を手放さないじゃないか』
森にぽっかりと陽の光を落とす小さな広場にふたりはいる。樹上からアジュが見下ろすと、木の根に座ってぶすくれているルーズァの傍らには、彼のケルン石の剣があった。
「……風騎士って言うくらいだから、アジュだって剣は出来るんだろ?」
アジュはこくりと頷いた。
『里では皆、剣を学ぶ』
「なあ、もう少し、俺が剣が上手くなったら手合せしてくれないか?そういう目標がある方がいい」
『いいよ。何だったらここで教えてもいい』
一瞬表情を明るくしてアジュを見たルーズァだったが、すぐに思案顔になって首を振った。
「いや、今はやっぱりいいよ」
『どうして?』
「一応、今の俺の師匠はナラ姉ちゃんだから」
『君はやっぱり騎士に向いてるな』
アジュは満足そうに笑う。
「なんでだよ」
『騎士は道を重んじる。年長や師には敬意を持たなければならない。それをきちんとわかっている君は騎士に向いてるんじゃないかと、俺が思うだけだよ』
アジュはてっきりルーズァは大喜びするものだと思っていたが、彼は微妙な表情だった。
『…どうした?君らしくないな』
「……俺、風術師にはなれないのかも」
アジュはその言葉に少し目を見開いた。それまで樹の上に留まっていた彼は翼を開いてルーズァの隣に下りて傍らに寄り添う。
『どうしてそう思うんだ?』
「……夢を見たんだ」
『夢?』
「どこかの国の、双子の夢。妙に現実感があって、起きたら瞳の色が変わってた。ルビーが言ったんだ。瞳が黒くなってるって。しばらくしたら元の茶色に戻ったんだけど、あれがただの夢じゃないって感じたのと関係あるのかなぁ…」
『……≪イーマ・スュール≫……』
「なんだ、それ?」
『……いや、何でもない』
アジュははっと口を噤んだように見えた。しかし鳥の姿の時のアジュの表情の変化は人間の姿の時のそれに比べて乏しく、ルーズァにはその変化がわからなかった。
『瞳が黒くなったのを知っているのはその子だけか?』
「ああ。ルビーンズは双子の妹なんだ。秘密の話を他の人に話すなんてことは絶対にしない」
『普通の子なんだってな』
「確かに≪力≫は何もないけど、俺とルビーは何も変わんねぇよ。それに、あいつ時々すごいことするんだ。怖いもの知らずなんだよ」
『そうなのか?』
「俺も見てて時々ヒヤッとするよ。あいつは俺の妹だからさ。だから、俺がちゃんと護ってやんないと」
ルーズァは傍らのケルン石の剣を構えた。
「…父さんたちは俺に≪風術師≫になって欲しいんだと思う。父さんも祖父ちゃんも姉ちゃんもそうだから。でも、俺の瞳が黒くなったのって…」
『ルーズァ』
アジュがルーズァの言葉を制した。鞘にしっかり収まったルーズァの剣は刀身に何も映しはしないが、抜き身であったならアジュの紫電の瞳が映っていたはずだ。
アジュは何も言わずに嘴の先で森の奥の小さな泉を指し示して歩を進めた。ルーズァは黙ってアジュの後ろをついて行く。
泉に着くと、アジュは姿を人に変じた。その時巻き起こった風で泉の水面が微かに揺れる。
「見てみろ」
言われて、ルーズァはまだ揺れる水面を覗き込んだ。
「なんにも見えないぞ」
「いや、見える。よく目を凝らして。俺と君の瞳の色が、今は同じ色だ」
「え…」
揺れる水面は穏やかさを取り戻していき、ルーズァの瞳の色を確かに映す。そのふたつの瞳はアジュと同じ紫電の瞳。
「紫は≪風≫の象徴だ。君はルビーを護ると言ったな。その気持ちが大切なんだ。誰かを護ろうという気持ちこそが≪風≫の存在の全てなんだ」
「……俺の瞳は何でこんなに色んな色に変わっちゃうんだろう。普段はルビーと同じ茶色の瞳なんだ。でも時々赤くなったり水色になったり緑になったりする」
「長が言っていただろう。君の瞳の色は≪力≫が大きな証なんだ」
「黒って、何の色かアジュは知ってるか?」
知らない、と言うことも出来た。だが、真名を教えてくれた≪兄弟≫相手に嘘は吐きたくなかった。
月の≪力≫を持つ子供は人間には生まれない。人間には生まれないはずだった。
「…黒は月。それも新月の色だ」
「新月の色…」
黒い月の色。闇夜の色。それは何か不吉なもののように思えて、ルーズァはそれ以上そのことについて聞く気にはなれなかった。
「≪力≫を持つ者でも、いろんな人がいる。ルーズァのように瞳の色が変わったり、姿が変わったり、身体に何かしらの変化がある者は特に力が大きいっていうよ」
アジュはまた水面のルーズァの目を見た。
「君が望む何者にもなれるんだと思うよ。その瞳の色は」
アジュに言われて、ルーズァはそっと自分の目元に触れた。水面に映る自分の右手の指先が触れた先の目の色はもう茶色に戻りつつある。
その時から紫色がルーズァの一番好きな色になった。
『アジュ』
空から二羽の鳥が降りて来た。彼らは着地と同時に姿を人に変じる。褐色の肌と銀髪に菫色の瞳は≪風≫の里の者の証だった。
「サルトーニ。ルイリュール」
ルーズァが声をかけた。サルトーニと呼ばれた少女は年には似合わない妙に艶な笑みを浮かべて挨拶をする。
サルトーニもルイリュールも年はアジュとほとんど変わらない。ルーズァがふたりと面識を得たのは、≪真名の儀≫を終えてからだった。≪風≫の里の者はほとんどの者が長に名付けてもらう。ふたりともルーズァの≪姉≫であり≪兄≫だった。
「はぁい、ルーズァ君。ここに居たのね」
「俺を探してたの?」
「いえ…」
答えたのはルイリュールだった。
「≪森≫の中でルーズァによく似た子を見たんです。女の子を連れていたので、何事かと思って」
「俺に似てるんだったらそれ、ルビーンズだよ。俺の双子の妹。女の子を連れてるって?」
「ええ、ルーズァ君と同じくらいの女の子よ」
「…誰だろう?ルビーは俺を追って来たのかな?」
アジュを振り返ると、思いの外渋い顔をしていた。
「子供ふたりだけで来たのだとしたら危険だ。≪森≫は深いから迷いやすいし、危険な獣もいる。時に竜も出る」
「でも、俺は…」
そんな危険な目に遭ったことはない。いつも森を進んで行くとアジュに会えた。まるで森が導くように。
「君は特別なんだ。特別な子だから≪森≫も動物たちもここまで来ることを許すんだ。ルビー達にはその≪力≫がない」
「じゃあ、すごく危険なんじゃないか!」
「サル、ルビーをどの辺りで見掛けたって?」
サルトーニとルイリュールの表情も厳しかった。
「≪森≫の入り口よ。まだ深部までは来ていないはずだから、すぐ見つけられるわ」
何しろ、≪森≫はその最奥を護るのだ。
「アジュ、ルビーを探しに行くんだったら俺も行く」
「駄目だ。君にも危険があるかもしれないんだ。もし万が一竜が出たら君まで護り切ることは出来ない」
「だったらなおさら行く。ルビーは俺の妹なんだ。俺が護ってやらなきゃ」
ルーズァの瞳は紫色に輝いていた。それを見て、サルトーニはアジュに含み笑いをした。
「もうこうなっちゃったらルーズァ君は止められないと思うけど~?」
「しかし、アリベンティスの家にも一応このことを知らせないと」
「あら、子供の悪戯を親に告げ口するの~?」
アジュはむっとしてサルトーニを睨んだ。
「ルビーちゃんが無事に帰ってくれば今回の事は何もなかった。そうでしょ?」
「それは確かにそうだが…」
「人間を護るのが≪風≫の役割よ。秘密を守ってあげるのも同じじゃない?」
「アジュ、頼むよ」
加えて、ルーズァのこの言葉である。
「…わかった」
アジュは渋々折れた。
「しかしサルトーニ。お前はこんな時になぜそんなに緊張感のない喋り方をするんだ。力が抜ける」
するとサルトーニはアジュの片腕に自分の両腕をするりと絡ませた。
「アジュが堅い分あたしが楽観的じゃないとね~。何せあたしたちは許嫁なんだから」
「許嫁?」
言葉の意味がよくわからずにルーズァは首を傾げる。
「そうよぉ。あたしたちは将来結婚する仲なの」
アジュの片腕を掴んだまま、サルトーニはブイサインをして見せる。
「………親同士が勝手に決めたことだ」
承服しかねる、というようにアジュは渋面になった。
「いっつもそればっかり~」
サルトーニは形だけ不満げに言うと、アジュからするりと離れた。
「さて、ルビーちゃんと女の子を助けに行きましょうか」
ルーズァは片手に持ったケルン石の剣をしっかりと持ち直した。
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ルビーンズとディアナの目に映る森の情景は先程からあまり変化がない。どの樹も変わらないように見えて、ずっと同じところをぐるぐると回っているようだった。
「ねえ、ルビー?あたしたち、もしかして道に迷ったのかしら?」
「獣道を来たんだもの。きっとどこかで分かれ道を見逃したんだわ。大丈夫、すぐにお兄ちゃんのところに行けるわよ」
ルビーはそう言うと、森の中でルーズァを呼ばわった。
「お兄ちゃーん!」
「この辺りにいるとは限らないわよ」
「いいの。聞こえたら絶対来てくれるもん」
もう日暮れも近い。森の樹の隙間から見上げる空は茜色が混じり始めていた。その色に不安になり、ルビーンズはもう一度ルーズァを呼ばわる。
「お兄ちゃーん!」
その時だった。草木の影から小枝を踏む音がした。怯えたディアナは思わずルビーンズの袖を掴む。
姿を現したのは黒い狼だった。いつかのルーズァの瞳のように黒く、眼だけが鸞と金色に輝いている。
その姿は、闇から溶け出した災いにも似ている。
≪風の森≫に棲む動物のわりには異様に思えた。≪風の森≫は、≪風≫、人間の守護者の住む森。こんな不吉な闇色の狼は似つかわしくないように、ルビーには思えた。
狼は長い距離を走って来たようで、忙しなく呼吸を繰り返している。ルビーンズから目を離さない狼の様子に固唾を飲みながらも、彼女は素早くと剣の柄を握り、鞘から抜き放つ。
剣を構える姿に狼は首を傾げた。嘲笑してでもいるようだ。
「それ以上来ないで!来たらひどいんだから!」
狼はルビーの言葉を理解しているのか、そのまま近付く代わりに二人の周囲を円を描いて回り始めた。狼が移動する度にルビーンズはディアナを庇いながら切っ先を狼に向ける。近付く気配がない分、狼の行動は不気味だった。きっと隙を狙っているに違いない。
ルビーンズの鼓動は先程から厭な律動を刻んでいる。脚が震えて萎えそうだった。
(でも…)
汗で滑る柄をしっかりと握り直す。
(あたしがディアナを護らなきゃ。お兄ちゃんなら絶対にそうする)
ルビーンズはきっと狼を睨み付けた。その時胸元で輝いた月輝石が狼の目に留まった。
『…ただの子供か』
「え?」
今喋ったのはこの狼だっただろうか?それとも耳の錯覚だろうか?鼓動が耳元でうるさいくらいに鳴っていた。
狼は途端に二人に興味を無くしたように踵を返す。ルビーンズはその後ろ姿を剣を構えたまま見送った。後ろで、ディアナがへたり込んだのがわかる。ルビーもそうしたかったが、何しろ脚が緊張したままでその姿勢を崩すことが出来なかったのだ。
「ルビー!」
その声に我に返ると、ルーズァが彼女めがけて走り寄ってくるところだった。ルーズァは剣を構えたままの姿勢のルビーンズを庇うように抜き身の刃を狼が消えて行った方向に構えた。
そこに狼の姿はもう無かった。
代わりに、真っ白な、銀色に光るような鳥が一羽舞い降りて来た。日が傾き始めた空にその姿は一条の希望のようだった。
『無事だったようだな』
ルビーンズはぎょっとした。まさかその鳥が喋るとは思わなかったのだ。
後を追って、もう二羽の鳥が舞い降りる。そのうちの一羽は他の二羽に比べて幾分優美な姿形をしていた。その鳥もやや人間臭い仕草で溜め息を吐いたようだ。
『まったく、心配したわよ』
先程の狼と言いこの鳥達と言い、この森の動物は意外に人語を解するものが多いのかもしれない、とルビーンズは思った。
「ルビー!何ともないか!?どこも怪我してないか!?」
ルーズァはまだ放心状態のルビーンズの肩を揺さぶる。その時初めて、ルビーの手から剣がするりと落ち、夕日を反射して地面にぶつかった。
「お兄ちゃ~ん!」
緊張の糸が切れたルビーンズは大粒の涙をぼろぼろと零してルーズァに抱きつく。ルーズァはそれを抱き締め返した。
「ばか!なんで森に来たんだよ!ディアナまで連れて!」
「ルーズァ、ごめんなさい、違うの。あたしがルビーに頼んだの。ルビーは何も悪くないの」
「はぁ?ディアナが?」
「だってお兄ちゃん、いつも森に行っちゃってあたしを置いていくんだもん」
ルビーはルーズァから離れたが、まだ鼻をすすりながら目をこすっている。
「でもすごいのよ、ルビーったらこーんな大きな狼を追っ払っちゃったの!」
ディアナはへたり込んだまま両手いっぱい広げて狼の大きさを表そうとする。恐怖に縮こまっていた彼女の言葉には説得力がなかったが、アジュはディアナの言葉に敏感に反応した。
『狼?』
ディアナは白い鳥が人間の言葉を話すのにびっくりして、ただこくこくと頷いた。その様子に、アジュはああ、と呟いて姿を人に変じる。それに合わせてもう一羽の鳥―サルトーニも人の姿を取った。微かな風が巻き起こったかと思うと、そこには褐色の肌と銀髪、菫色の瞳をした少年と少女が立っていた。
「驚かせてごめん。この姿なら大丈夫だろう?」
「あ!」
「え?」
アジュの姿を見るなり、ディアナは彼を指して立ち上がった。
「あたし、あなたに会いに来たのよ!」
「アジュに?まさかそれでルビーを連れ出したんじゃないだろうな?」
ルーズァの剣呑な目線に睨まれてディアナは狼狽えた。
「…ごめんなさい…」
「ごめんじゃすまないぞ!一歩間違えばふたりとも危なかったんだからな!」
「ルーズァ」
アジュはルーズァの肩をそっと叩いた。
「とにかく、ふたりとも無事だったんだ。もう日が暮れる。帰ろう」
「…うん」
「俺は長に報告することがある。サルを森の入り口まで付けるから。ルイは一応その狼を探してくれないか。日暮れで、なかなか見つけづらいかもしれないけど」
ルイリュールは無口な性質のようでアジュに向かってひとつ頷くと再び姿を鳥に変じて茜色の混じりかけた空に飛び立った。
アジュの目配せを受けてサルトーニは片目を瞑って見せる。
「まっかせて~♪」
アジュは姿を鳥に変じると、夕暮れの中の星のように空へと飛び立った。その姿を見送るルビーの視界にサルトーニが割って入った。
「初めまして。あたし、サルトーニ=マクファニティよ。あの無口なのはルイリュール=エントハンス」
「あ、初めまして。あたしは…」
「ルビーンズちゃん、でしょ?ルーズァ君から話を聞いてたわ」
サルトーニは意味ありげに笑う。
「ルーズァ君の言ってた通りの子みたいね」
サルトーニの言葉にルビーンズは首を傾げた。
「ルーズァ君の妹ならあたしにとっても≪妹≫みたいなもんだわ。仲良くしてね。えーと、それからあなたはディアナ?」
「ディアナ=ウルナス」
「よろしくね」
サルトーニは人懐っこい笑みを浮かべた。
そうして四人は帰宅の途に就いた。しかしディアナは思い出した。
「結局、クッキー渡しそびれちゃったな…」
三人の後をとぼとぼと歩きながら、ひとつクッキーを頬張った。会心の出来だったのに。
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≪風≫の里で、アジュは長である父、マリウに言う。
「森の入り口で狼が出たそうです」
「狼?狼は≪月≫の獣。それがこの≪風の森≫に出たと?」
「俺は直接見てません。ただ、今日…」
これも告げ口になるのだろうか、とアジュは思った。
「今日、狼を見たという子がいて」
「なるほどのう」
「一応、ルイリュールに探しに行ってもらいましたが、この時間ではもう見つかるかどうか」
「うむ。里の者にも探させよう。目的が何であるかは突き止めたいところよな」
「はい。…それと、もうひとつ」
アジュの言葉にマリウは目を向ける。
「ルーズァは≪イーマ・スュール≫の持ち主であるかもしれません」
マリウは紫色の目を見開く。
「人間の子供だぞ?」
「ですが、夢を見たそうです。妙に現実感があったと。起きてからしばらく、瞳の色が黒くなったそうです」
「……ほんに、あの子の≪力≫は計り知れぬのう」
「一応、お話ししておいた方がいいと思って」
「わかった。覚えておこう」
「あの…父上はどう思いますか?」
「なにを?」
「ルーズァの≪力≫です。成人しても定まる気配がないのが…」
心配で、と心の中で呟く。
「≪力≫の大きさゆえに定まりかねておるのであろ。なに、心配することではないよ。昔は里にもそう者はいたと言うしの」
ルーズァには心配することはない、と言ったものの、実はアジュには自信がなかったのだ。マリウにそう言われてほっと溜め息を吐いた。
「よほど心配なのじゃな」
マリウはアジュの眉間に人差し指を突き出した。
「ほぅれ、皺が寄っておるぞ」
アジュが唸る。マリウは笑ってアジュの頭を撫でた。
「大切にするのだ、人間の友をな」
「………はい」
年こそ随分下だけれど、ルーズァはアジュにとってもはや親友だった。自分と正反対の明るい笑顔を持つ少年。
アジュの表情に柔らかい笑顔が灯ったのを見て、マリウも笑みを浮かべた。
子供は笑顔でいるのがいい。