第3話『森の子供たち』-前編
ルーズァが≪真名の儀≫を終えてから、ルビーンズには不満がある。ルーズァは剣の稽古を終えると(正確には逃げ出すのだが)、自慢の俊足で真っ直ぐ≪風の森≫へ行ってしまう。前にもひとりでよく森に行っていたようだったが、最近はもっと頻繁に行くようになった。
ルーズァの≪親≫は風騎士の長だった。もうこれは街中の人が知っている事実だ。それでどこにいても彼は注目されるので、街でルーズァの行方を聞けば必ず誰かが知っている。
ルビーは街を割って森に向かう街道を見回しながら歩いていた。
「ルビー!ルーズァを探してるのね?」
通りに面した大きな宿屋の三階から、ひとつ年上のディアナがひょっこり顔を覗き出した。彼女は快活でくるくるとよく動く表情が街の人たちからも可愛らしいと評判だった。事実、ルビーンズもそう思う。
「ディアナ、知ってるの?やっぱり森?」
ルビーンズは三階に声が届くように両手で輪を作ってディアナに問いかける。
「ええ、森に行ったわ。あたしここから見てたもの」
ディアナは視線を森に転じて何かを探し求める風だった。
「そこから何か見える?」
ルビーンズが声をかけると、ディアナはまた下を覗き込むように通りのルビーンズに声を放った。
「鳥が見えないかと思ってるだけ」
「鳥?」
「…ルビー、ずっと上を向いてて首が疲れない?よかったら上がって来ない?あたし、クッキー焼いたのよ」
「行く」
ルビーは即答した。ディアナのクッキーは彼女が自慢するだけあって本当に美味しいのだ。
宿屋の一階は食堂になっており、旅の者や食事をしに来た者でごった返していた。
「ルビー、こっちよ」
ディアナが彼女の部屋の戸を開けて待っていた。
「下のお手伝いをしなくてもいいの?」
「下はお酒を出すからあたしは立ち入り禁止なの。当然だけど、あたしたちまだお酒を飲むような年じゃないもの」
「そう?」
「クルミのクッキーを焼いたのよ。クルミは好き?」
「大好き」
「そう、よかったわ」
ルビーンズはディアナが皿ごと勧めてきたクッキーに手を伸ばし、ひと口に頬張った。さくさくと噛み砕くとクルミの甘さと香ばしさが口いっぱいに広がった。
「美味しい!」
「お茶も飲む?」
「うん!」
ディアナの淹れてくれたお茶は甘くさっぱりとした芳香で、クルミのクッキーによく合った。
「ルーズァの≪真名の儀≫の時に街に来た男の子、覚えてる?」
「だれ?」
湯気の向こうに何かを期待した風のディアナの顔を見た。
「風騎士の男の子」
「ああ、お兄ちゃんのお友達ね」
「やっぱり友達なの?」
ディアナは身を乗り出して訊いた。
「お兄ちゃんの≪真名の儀≫の時に紹介してもらったの。あのお友達のおかげで風騎士の長に≪親≫になってもらえたんですって」
「じゃあ、ルーズァはいつもあの男の子に会いに行っているのね」
「剣のお稽古が終わった途端によ?それに…」
ルビーンズはルーズァの黒くなった目のことを思い出した。約束だから、誰にも言う気はない。だが、あれから森に行くことが頻繁になったように思う。風騎士の友達に相談をしに行っているのだろうか。
(そういう相談はいつもあたしだけにしてくれてたのに…)
「…それに?」
不思議そうにルビーンズを覗き込むディアナの目と目がかち合った。ルビーンズは咄嗟に誤魔化そうとしてクッキーをひと口に頬張った。
「打ち込みの練習は背丈が同じくらいの相手がいた方がいいの。お兄ちゃんがいなくなっちゃうんじゃ、あたしはそれ以上お稽古が出来ないわ」
「ふぅん。剣のお稽古って面白い?ルビーがもらったのは月輝石なんでしょ?」
ルビーはその価値とは関係なくペンダントを気に入っているのでいつも身に付けているが、ケルン石の装飾の施された月輝石のペンダントは高価なものだ。
同じ月輝石の持ち主として、ディアナはルビーンズのペンダントが羨ましかった。
このように高価なものを贈ったのは、双子の兄のルーズァが能力者であったことを両親が慮ったのだろう。双子で不平等がないように、と。
「お稽古は楽しいわ。お兄ちゃんと一緒だもの」
「…ルビーっていつもルーズァばっかりね。誰か好きな男の子はいないの?」
思わぬ話の展開にルビーンズは目を丸くした。
「そんなの、いないわ。ディアナはいるの?」
「いるわ!」
待ってましたとばかりにディアナの目が輝いた。
「あの風騎士の男の子!すごく素敵だったと思わない!?」
「え?えっと…よく、わかんない…」
ディアナの勢いに圧されて思わず身を引く。
正直に言って、ルーズァの≪真名の儀≫の方が一大事だったルビーンズにとっては、介助役が自分でなかったことだって不満だったのだ。ルビーンズの時にはルーズァが介助役をしてくれた。
物思いに耽っていると、ディアナが再び変わらぬ勢いでルビーに訊いて来た。
「また街に来ることってあるのかしら?」
「ど、どうかな……」
「森に行ったら会えるかしら?」
それはきっとそうだろう。ルーズァが会いに行っているのだし、と思い、ルビーンズは頷いた。
「多分会えると思うわ」
「…今から行ってみない?」
「森に?風騎士に会いに?」
「ひとりで行くのはちょっと怖いし…。でもルビーは剣も使えるんでしょ?ねえ、一緒に行かない?お願い!」
ディアナの言葉に、ルビーンズはちょっと迷った。でも、剣の稽古を途中で抜け出したルーズァに姉のナラは怒っていたようだ。連れ戻しに行く口実にもなる。
「……いいけど……」
「きゃあ!やったぁ!!」
ディアナはルビーの両手を取って喜んだ。
「それじゃ、ちょっと待ってて。お家に戻って剣を取って来るから」
「うん、街道で待ってるわ」
席を立って去りかけて、ルビーはくるりとディアナを振り返る。
「ねえ、そのクルミのクッキー」
「うん?」
「森に行く時に一緒に持って来て」
ディアナの勢いに圧されて味わい損ねたが、本当に美味しかったのだ。ルビーンズの母、エリナ=リアも料理は上手いが、ディアナのクッキーもそれに劣らず美味しい。
「ふふ、いいわよ。あの男の子にもおみやげに持って行くわ。何ていう名前か知らない?」
「アジュ=カール…ううんと、とにかく舌を噛みそうな名前」
「…アジュ!素敵な名前!」
「ディアナはお兄ちゃんのお友達を好きなの?」
「ふふ、多分これが初恋ってものなのね」
ルビーはまだ恋をしたことがない。まだ六歳なら当然だろう。恋に憧れる年でさえない。だが、たったひとつしか違わないディアナはもう初恋真っ最中のようだ。ルビーンズにはそれが大人の証のように思えて、少しだけディアナを羨ましく思った。
そのディアナはうきうきと早速荷物を準備し始めた。ルビーンズは慌ててクルミのクッキーを最後にひとつだけ頬張ると、剣を取りに家に向かった。
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家に戻ると、ナラが予想通り憤慨していた。ルーズァが剣の稽古を逃げ出したからだ。
ルビーンズは裏口を覆うように群生しているハーブの中でもゼラニウムの香りが好きだ。だからいつも帰ってくる時には裏口から入る。
ルビーンズは扉の陰に隠れて部屋に剣を取りに行く機会を伺った。ナラとエリナ=リアのいる台所は裏口から入ってすぐのところにある。子供だけで森へ行くことは悪いことなのだと、ルビーンズは知っていた。剣を持ってどこへ行くのか訊かれれば、正直に打ち明ける以外の術をルビーは持たない。
皿を拭きながら、ナラは母エリナ=リアに不満をぶつけていた。
「あいつはいつもいつも堪え性がない!」
「ふふ、最近よく森に行くようになったわね。そんなにアジュ君に会いたいのかしら」
「それにしたってだ!せっかく人が稽古をつけてやっているのに逃げ出すなんて!」
「ちょっと厳し過ぎなんじゃない?」
「母さんはルーズァに甘い」
「ルーズァじゃなくて…ルビーは付いて行けてる?」
それにはナラは押し黙る。ルビーの上達はやはりルーズァに比べて遅い。それは≪力≫によるものだ。向き不向きは≪力≫によって決まってしまう。
「……ルビーは普通の子だ。だから、仕方ない」
「…あなたは一番お姉ちゃんだから、何でもしっかりやろうとしてしまうけれど、もう少し力を抜いてごらんなさい。その方が大事なものを護れることもあるわ」
「……ルビーは本当に普通の子なんだ。あの子に剣は向いていない」
扉の陰に隠れていたルビーンズは衝撃を受けた。確かに、剣を始めた動機はルーズァがやるから。それしかなかった。
(あたしは普通の子…)
ルビーンズにとって、双子であるルーズァと違うということは、劣等感よりもむしろ寂寥感に近い。だが、たった六歳の子供に己のこととはいえそんな感情の機微がわかるはずもなく、それは意地に変わった。
(そんなことないもん。あたしだってお兄ちゃんと同じように森に行けるわ)
ルビーンズは意を決して自分の部屋にある剣を取りに足音を消して走った。