第2話『満月の夢』-後編
大きな真っ白い樹に紫色の花が咲き乱れていた。ルーズァが見たこともない樹だった。でも夢の中のわりにその樹はしっかりと大地に根を降ろしていたから、きっとルーズァが知らないだけで現実に在る樹なのだろうと思う。
その白い樹の下に双子が並んで座っていた。双子とわかるのはそのふたりがあまりにもそっくりな顔立ちをしていたからだった。服装の他に見分ける特徴があるとすれば、男の子の方はルビーンズと同じような栗色の髪をしていて、女の子の方は薄茶色の髪をしているところだ。ルーズァの髪の色によく似ていた。
年の頃はルーズァよりひとつかふたつ上だろう。ふたりとも身形がいいので、もしかしたらどこかの国の貴族かも知れない。
「キフィは大きくなったら何になるの?」
剣を磨きながら女の子の方が言う。その胸元には月輝石のペンダントが光っていた。手の込んだケルン石の装飾で、彼女の家の裕福さが窺える。
彼女の剣は使い込まれた輝きを放っていた。女の子らしい服装と見た目には似合わない。膝の上に広げた書物は、広げているだけで読む気はないようだ。
「レフィの騎士になるよ」
男の子の方が真面目くさって言った。レフィと呼ばれた女の子の方は笑って言う。
「騎士になりたいの?」
「違うよ。レフィを護る騎士になりたいんだ」
「でも剣術はキフィより私の方が上手いのよ?」
「…だから頑張って練習してるじゃないか」
キフィと呼ばれた男の子の手には、努力の跡は見られるものの、まだ使い慣れていない真新しい剣があった。ルーズァの剣と同じように、それは沈黙を守っている。
「キフィには剣術より、薬草学とか、お勉強の方が向いてると思うわ。私と違って。それに棒術が充分上手いじゃない」
「でも、どうせやんなくちゃいけないなら僕は剣術の方が上手くなりたい。だって剣は騎士の象徴じゃないか」
キフィの手の中には真新しい剣と一緒に、使い込まれて古びたように見える杖があった。しかしその手は剣の方をより強く握り締めている。
「なんで僕の≪力≫は≪火≫だったんだろう。どうせなら≪風≫が良かった」
「こればっかりは仕方ないわ。森の麓にはその要素の術者が生まれやすいんですって」
「それは知ってるけど…」
キフィはレフィの剣に視線を遣った。彼女はキフィの視線を辿って自分の剣をちょっと掲げて見せた。
「これはただ私に剣術が向いていたからよ。何も≪力≫なんてないんだもの。普通の剣だわ」
レフィはキフィに向かって、自分の書物を差し出した。
「不満なら、教え合いっこする?キフィに教えてもらうなら、勉強もちゃんと覚えられそう」
「レフィは授業中に寝ちゃうからいけないんだよ」
「だって眠くなっちゃうんだもの。このダルムの樹の花のことくらいよ、覚えられるのは」
「剣を鍛えるのに使うからでしょ」
「しぃー!」
レフィが口元に人差し指を当てて言った。
『迂闊に話しちゃだめよ。この国の秘密なんだから』
『うん、そうだった。ダルムの樹の花のことは内緒ね』
ルーズァは驚いた。このふたりも双子言葉を持っているのだ。そして、何故かルーズァにはふたりが何を言っているのかが分かった。双子なら皆わかるものなのだろうか。
レフィとキフィは白い幹のダルムの樹を見上げた。見上げるとあまりに大きくて、白い葉の間の枝に、たわわに震えるように咲いている紫色の花を見るのには首が痛くなる。
「この国でしか咲かない花だから、たとえ知った人がいてもどうしようもないだろうけど」
「ギナファ以外では育たないんですってね、この樹」
「この樹は特別だから」
キフィはダルムの樹から視線を≪森≫に転じた。森ではダルムの樹の白い幹と葉の上に紫色の花が浮かぶように咲いていて、遠目には雲の上のようだった。
「≪火の森≫はこの世界でここにしかないからね」
「ねえ、他の国の森は茶色い幹と緑の葉しかないってほんと?」
「本当だよ。薬草学の本にはそう書いてあった。他の国の森は普通の植物と同じように緑の葉を持っていて、色とりどりの花を咲かせるんだって」
「どうしてギナファだけ違うの?」
「どうしてだろう。僕にもわからない」
「でも、面白いわね。私も白くない樹を実際に見てみたいわ」
「僕も。大人になったらふたりで国を出て旅をしてみようか」
「楽しそうね!」
「最初の目的地はどこがいいかなぁ」
「私、≪風の森≫に行ってみたいわ。もしかしたら≪風騎士≫に会えるかもしれないもの」
「お伽噺の種族だよ?」
「理由なんて何でもいいわ。とにかくどこかに行けばそれは旅だわ」
キフィはレフィの言い方に笑った。彼女はこれ以上考えるのが嫌なのだ。考え込んで動けなくなるよりも、とりあえず動いてからどうするか決める。レフィはそういう性格だった。
「旅ってそんなものなのかもしれないね。したことないけど」
「いつかやってみたいわ。少しの着るものと食べるものだけ持って、ほとんど身ひとつで旅をするの」
「それは過酷だ」
「旅ってそれくらいじゃないと感動がないと思うわ」
「レフィは冒険に夢を見過ぎだよ」
「だって、その方が楽しいわ」
しとやかな外見に男勝りな性格を持つこの姉をキフィは好きだった。大好きなレフィが楽しそうだからキフィも楽しい。
「ねえ、私たちが大人になったら本当に旅をしましょうね。まずは≪風の森≫に行くのよ。風騎士に会いに行くの」
「うん。≪風の森≫の森はやっぱり≪火の森≫とは違うんだろうね。珍しい植物とか、あるのかな」
キフィは手元の書物をぺらぺらと捲った。
「ああ、やめてよ。そのページいっぱいの文字を見るだけで頭痛くなりそう。絵もない書物をよくそんなにすらすら読めるわね」
「僕には想像力があるから」
「私にだってあるわよ、それくらい」
「レフィのはただの空想だよ」
「同じじゃない」
「違うよ」
「違わない」
「違うって」
押し問答にレフィが膨れっ面をした。そんな顔をしていると年よりだいぶ幼く見える。
「空想じゃなくてさ、本当に叶うといいね。一緒に旅を出来るといいね」
『キフィ、私には夢を叶える力があるのよ。私の真名を知っているでしょう?』
レフィがふたりの間でだけ使う双子言葉に切り替える。ふたりの間には音くくりのまじないは必要ない。内緒話はいつだってこの言葉を使う。人間の言葉を覚える前の赤ん坊の頃からだ。
『知ってるよ、レフィア=成=マルツリーム。≪夢成る≫君には本当にそんな力があるのかもしれない』
『あなたも名前の通りね、キフィア=樹=マルツリーム。≪真実の樹≫のあなたは芯の強い頑固者』
『褒めてるんだかけなしてるんだか』
キフィは開いていた書物をぱたりと閉じた。
「さあ、レフィ。僕に剣術を教えてよ。絶対に君より強くなって見せるから」
「いいわよ」
レフィは自分の剣を取ってさっと立ち上がった。スカートについた泥など彼女は気にしない。
「一本も取れなかったら、あなたの分のおやつのクッキーをもらうわよ」
「絶対に一本取ってやる!!」
今日のおやつのクッキーはキフィの好物なのだ。それをレフィにやるなんてもったいないことは出来ない。
「その意気!」
レフィは弾けるように笑った。
双子の剣躑はリズムよく息の合った演奏のようだった。高い音から低い音まで、飛び跳ねる様子はふたりのじゃれ合いのようでもある。実際ふたりは遊んでいた。剣を交えながら、ふたりで笑い合った。
しかしキフィは本気で言ったのだ。
レフィを護る騎士になる。レフィより強くなってやる、と心の中で強く思っていた。
そして景色が変わる。
飴を引き延ばしたように色彩だけが伸びる視界の中、誰かが叫んでいるようだった。いや、叫ぶのだろう、とルーズァは思った。その感覚には夢独特の浮遊感も、目覚める直前の現実感もない。
それは直感だった。誰かが、確かに叫ぶのだ。
きっと、遠い未来に。
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目が覚めると、部屋いっぱいに広がる朝の光の中、台所からことことと小さな音が聞こえていた。
ルーズァはそれを聞きながらしばし天井とも朝日ともつかない空間を寝ぼけまなこで見つめていた。今の彼はもう、直感を得たことを忘れている。見ていた夢もぼんやりとしか思い出せなかった。
隣で寝ていたはずのルビーンズはもう起きていて、ベッドの端にはルビーンズのパジャマがきちんと丁寧に畳まれていた。
(…ルビーなら…)
覚えているだろうか。あの夢を。白い幹と紫色の花の綺麗なあの樹の夢を。
「夢?昨日はあたし、何も見なかったわよ」
ルーズァの家の庭には、母、エリナ=リアの育てているハーブが野生の力を爆発させて縦横無尽に育っている。ゼラニウムの葉をちぎってその香りを嗅ぎながら、ルビーンズはルーズァの話など上の空のようだった。彼女はゼラニウムの香りが好きなのだ。
「あの樹の夢も?」
「だから、珍しく昨日は何も見なかったのよ。お兄ちゃんだけ見たのね。…あら?」
「なに?」
「お兄ちゃん、また目の色が変わってるわ。初めて見る色。真っ黒よ」
「黒?黒って何の色だったっけ?」
≪火≫なら赤、≪地≫なら緑、≪水≫なら水色がそれぞれを象徴する色になる。
≪風≫の色は紫だ。だから≪風騎士≫たちは菫色の瞳を持つ。
「黒は知らないわ。お父さんなら知っているかしら?聞いてみる?」
「……ううん、別にいいや」
もしかしたらルーズァの持つ≪力≫が発現したのかもしれない。だが、彼はそれを知るのが不安だった。成人してもどの要素にも定まらない大きな≪力≫。知らない色に染まった瞳を隠すように目を閉じて草の上に寝転がった。
『…夢でさ、俺たちと同じ、男の子と女の子の双子が双子言葉を喋ってたんだ』
『そうなの?』
『うん』
閉じていた瞼の裏に、またあの白い幹の樹が浮かぶ。双子はあの木の下に並んで座っていた。
『双子って、他の双子の言葉もわかるもんなのかな?』
『そしたら内緒話が出来なくなっちゃうわ』
ルビーンズが隣に座った気配でルーズァは目を開けた。
『教えられた言葉じゃないんだもの。他の人になんてわかるわけないと思うわ』
『…そうだよな』
ルビーンズの言うことは正しいと思う。
それなら、あれは本当にただの夢だったのだ。そう考えてルーズァはほっとした。
夢の中でとは言え、他人の真名を漏れ聞いてしまうのは、何ともばつの悪い思いだった。真名を口にすること自体が神聖だ。夢自体がぼんやりとしていてもう思い出せないとはいえ、そこに土足で上がり込んだような気がしていたのだ。
『目の色が戻って来たわ』
『ほんとに?』
『うん』
いつもの明るい茶色に戻ったルーズァの目に、青空に流れる白い雲とルビーが映っていた。
『あのさ、ルビー』
『なに?』
『今のこと、父さんたちには言わないで欲しいんだ』
『目の色のこと?どうして?』
ルビーが首を傾げた拍子に肩から長い髪が滑り落ちた。ルビーはあの夢の双子の女の子に少し似ている気がする。
『……よく、わかんないんだけど…今は話したくない気がする』
ルーズァは再び目を閉じた。妹の問うような視線が少し痛い。
『そのうち話すからさ。今は内緒にしといて』
『わかったわ。お兄ちゃんがそう言うんなら』
『ありがとう』
ルビーが内緒話の終わりの合図に、普通の言葉で話しかけて来た。
「ほら、もう行きましょ。お母さんがごはんだって呼んでるわ」
手を差し出してルーズァが起き上がるのを助けてやる。
「うん。もうおなかぺこぺこ」
ルーズァは腹をさすりながら歩き出した。それに追い付いて、ルビーンズは驚きの声を上げた。
「昨日あれだけ食べたのに?」
「うん」
「お兄ちゃんってよく食べるわね。昨日もミートパイをふたつも食べてたでしょ」
「だって美味かったから」
「ナラ姉ちゃんが聞いたら喜ぶわよ」
「かもな。姉ちゃん、また作ってくれないかな」
ぱたん、と扉を閉じてふたりは家に戻った。ふたりの内緒話を聞いていた植物たちが風に巻かれてざわざわと音を立てた。
風は森の方から吹いていた。
これはアジュからの合図だ。今日もまたルーズァは≪風の森≫に行くことになる。
今度は家に来るように誘ってみようか、と風の音を聞きながらルーズァは思った。≪兄弟≫なのだから、もしかしたら誘えば来てくれるかもしれない。
秘密を抱える今、無性にアジュに会いたかった。