第1話『風の森』-後編
結局、それから幾日かが経ってもルーズァの≪親≫は見つからなかった。アジュに会いに≪風の森≫に向かうルーズァの足取りも、落ち込んだ気持ちを反映して心なしか重たい。日々元気をなくしていくルーズァの様子を、アジュは案じていた。
≪真名の儀≫は、あまり長引かせても体裁が良くない上に、機を逃す事になる。
ルーズァの父親のカレルは、ほとほと困り果てていた。今夜も宵闇を明るく照らすランプの灯を眺めながら、大きくため息をつく。
「お父さんにも手が負えないとなると、後はもう、心当たりの術者はないですね…」
カレルの父のシドはこめかみに白いものが混じるものの、身体は屈強な剣士のそれである。老いを感じさせない立派な体躯をしていた。シドは、自分の愛刀の出来映えを丹念に確かめながら答えた。刀剣職人の亭主が研ぎ終えて戻って来たものである。その刀身には困り顔の息子夫婦が映っていた。
「だから言っただろう。俺やお前の手に負える奴じゃねぇんだ、ルーズァの奴ぁ」
「では、ほかにどうすれば…。 あの子は≪仮名≫のままでこの先を生きられるような、生半可な力ではありません」
カレルの妻、エリナ=リアは、未だ仮名のまま大人になりきれない我が子を不憫に思っていた。カレルはエリナ=リアの肩に手を乗せた。そして、ずっと考えていたことを口にする。
「…≪風騎士≫なら、あの子の≪親≫になれると思うんだ」
守護の一族である≪風≫の者を、その誇り高さから、人はいつしか騎士と呼んだ。滅多に人に姿を見せない。だが、難事の際には人間を助けることを使命と定められた一族。≪近しい者≫の研究者であるカレルにとって、≪風≫の一族を頼るという発想は至極当然のことであった。
「カレル…お前…」
何ということを言い出すのだとシドの目は語っていた。
「考えられるのはもう、≪風騎士≫しかいないんですよ、お父さん。あの子は人間の術者の手に負えるような、生半可な力じゃない。
実際、≪風術師≫であるお父さんにも、手に負えない」
「しかし、≪森≫が許すかどうか…」
シドは、暗闇の中で淡く銀色に光る≪風の森≫を窓越しに見遣った。この街にいればどこからだって森はよく見える。
「通れますよ。≪風騎士≫にとっても、あの子の儀式は特別であるはずだ。あの子の力は自然との結びつきが人より強いがゆえのもの。≪風≫とのつながりもまた然りなんです」
カレルの金褐色の瞳に、ランプの火が映って揺れていた。息子の目を見て、シドは愛刀を研ぎに出しておいて良かったと思った。彼も一緒に森に行くつもりだったからだ。森はその深さゆえにどんな獣がいるかもわからない。
「…それなら、人目についちゃ奴らにもちょっとばかし不都合だろう。話しに行くなら闇が深い方がいい」
「ええ。幸い明日は新月で闇夜です。明日の夜にでも」
シドは、愛刀の出来映えを確かめ終わると、鞘にしまって自分の傍らに置きかけた。が、すぐにまたそれを握り直した。
と、その時、風の音に混じって誰かが扉を叩く音がした。
「誰かしら。こんな夜更けに…」
エリナ=リアが席を立とうとしたのを、カレルが制した。術者であるカレルとシドは、扉の向こうにいる存在もまた術者であることを感じ取っていたのである。
シドは鞘から白刃を抜き放ち、カレルに警戒の目配せを送る。
カレルはそれに用心深く頷くと、慎重に、ゆっくりと扉に歩を進めて、取っ手に手をかけた。
扉の向こうに立っていたのは、銀髪に褐色の肌を持ち、神秘的な菫色の瞳の男がひとり。ランプの僅かな明かりに照らされて、敵意のない瞳で微笑んだ。
「夜分にすまない。我らは人から身を隠す種族ゆえ」
「…≪風騎士≫……」
風騎士と呼ばれたその男は、家に招じ入れられるなり言った。
「里の者から聞いたのだ。 ルーズァが≪親≫を捜していると。早く≪真名の儀≫を執り行わねば、あの子の器は保たぬであろう」
「≪風≫の長―マリウ自らが、≪親≫になると?」
シドが、半ば拍子抜けして言った。
≪風騎士≫は、そんなシドに苦笑して見せて、
「彼の≪親≫になれるなら、シド。私はお前の僕になっても構わぬよ」
と、言った。
「しかし、危険ではないのですか。さすがのあなたでも」
カレルが言う。
「確かにこれ以上先に延ばせば私の身も危険であろう。ルーズァは成長し、力もまた成長してしまう。だから、今なのだ」
≪風騎士≫は、思いの外人懐こい笑みを浮かべて、
「私としても、息子に初めて出来た人間の友に、出来る限りのことをしてやりたいのだ」
ルーズァの≪真名の儀≫は、≪風騎士≫の突然の訪れから二日後と決まった。街の人々に姿を晒すことになるが、それも構わないと言う。
「難事の際は人の子を護り助けるのが我らの役目ゆえな」
事もなげに、≪風騎士≫は言った。
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「アリベンティスの長男坊が、やっと≪親≫を見つけたらしいな」
「ああ。何でも、≪風騎士≫らしいぞ」
「≪風騎士≫?あの、絵物語によく出てくる?本当にいたのか?」
「ああ。祖父さんや、曾祖父さんの頃から言われてたろう」
「≪風の森≫に≪風騎士≫がいるって?」
「俺ぁ、祖父さんの法螺なんだと思ってたよ」
「罰当たりな事言うもんじゃねえよ。≪風騎士≫にこの街は護られてるってのに」
「そうさ。姿は見えなくとも、 ≪風の森≫に≪風騎士≫の隠れ里があるのは誰でも知ってる。森が隠してるんだ」
「それにしたって、≪風騎士≫が≪親≫ってなぁ、ルーズァも大した術者になるんじゃねぇか?」
「あそこはシドもカレルも名の通った術者だからなぁ」
「もしかしたら、騎士になるかも知れねぇぞ」
「この街から騎士が出たら、そりゃあ、どえらい事だぞ」
「めでたい事だ」
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物見高い性質のこの街で噂が噂を呼び、ルーズァの≪真名の儀≫は、街を上げての大きな儀式となった。
滅多に人間の前に姿を現さない≪風≫の民が、少年の≪親≫に名乗りを上げた。伝説的な存在であった≪風騎士≫が、姿を公にさらすのだ。
この街は世界で一番≪風の森≫に近いこともあり、≪風騎士≫の存在は他の土地より身近である。大半の者が幼い時から≪風騎士≫の話を子守唄代わりに聞き、ある者は畏れ、ある者は憧れの対象としてきた。そしてルーズァは後者であった。
≪風騎士≫が家を訪ねてきた時、ルーズァは寝床でぐっすり眠り寝息を立てていた。両親からその訪れを聞いた時、なぜ起こしてくれなかったのかと文句をつけたものだ。それくらい、ルーズァは≪風騎士≫に憧れていた。
まさかアジュが≪風騎士≫に所縁の一族だっただなんて、思いもよらなかったのである。この街で一番自分の幸運を喜び、緊張しているのはルーズァであった。
刻限になり、街の中心の広場には街中の人間が集まって、 ≪風騎士≫の登場を今か今かと待ち望んでいた。
広場の中心には、儀式の装束に身を包んだルーズァの姿。頬を紅潮させて ≪ 風の森≫の方角を見つめていた。
やがて、 ≪ 風の森≫の方角の空に、ふたつの鳥の影が現れた。 その影が大きくなるにつれて、ルーズァはその表情を驚きで満たしていく。
広場に降り立った二羽の鳥のうち、小さい方の鳥にルーズァはいやと言うほど覚えがあった。
「…アジュッ!?」
名を呼ばれたその鳥が人間臭い仕草で可笑しそうに笑うと、風が起こって白い布が翻り、そこにはいつの間にか少年と男が立っていた。
褐色の肌に銀髪。菫色の瞳。鳥の姿だったころの面影を残していなくもない。
「ルーズァ。成人の儀、おめでとう」
少年のその声は聞きなれた鳥のアジュの声だった。
「お、お前…」
完全に二の句を継げなくなったルーズァに、アジュは確信犯的な笑みを向けて、
「驚かせたかったから、黙ってた」
「何で言ってくれないんだよ!≪風騎士≫だって!!」
「気付かない君が悪い」
「そんなの!」
ルーズァはむっとして声を上げた。
「言われなきゃ思いもしねえよ! ≪風騎士≫って、ついこの間までてっきり言い伝えだと思ってたんだ!ア、アジュだって、喋る鳥なんて珍しいから隠れて暮らしてるんだと思ってたんだ!」
「思いこみは視野を狭めるぞ。肝に銘じておくんだな」
「……この野郎」
親友同士のこの会話を聞いていた二人の父親は顔を見合わせて苦笑し、カレルはマリウの手を握って歓迎の意を示した。
「よく来て下さいました。…これが息子のルーズァです」
父に紹介され、ルーズァは小さな体を思わず固くした。
「ルーズァ」
マリウがルーズァの名前を反芻するように呼びかけた。以前から知っている名前だというように。そして、初対面とは思えない温かい親しみの籠った声音だった。彼はルーズァの目の高さに屈み込む。
「今日は、私がそなたの≪親≫を務める。≪風≫の長のマリウだ。どうか気を楽にして」
銀色の睫毛に縁取られた菫色を、ルーズァは混乱と憧憬の入り混じった瞳で見つめ返した。マリウはルーズァの小さな肩を軽く叩いた。小さな子供を、親は誰でもこのようにあやし、勇気づける。
ルーズァのその瞳が淡い青色に色を変える。青色は≪水≫の象徴。気が静まった証拠だ。その様子を見て取ると、マリウは満足そうに笑って今度はアジュの頭をひとつ撫でた。
「始めるぞ、アジュ」
アジュは、父を見上げてひとつ頷いた。
儀式は、街の裏手にある泉で行われるのが慣わしだ。
真名は人に滅多に知らせることはないため、街の人々が儀式自体を目にすることはない。儀式の間は泉に近づくことは最大の禁忌とされる。儀式は≪親≫と儀式を受ける子供、そして≪親≫の介助役の三者のみで行われる。
双子の妹のルビーンズの儀式では、ルーズァが介助役を務めた。今回介助役であるアジュは泉には入らず、儀式が行われている間は泉のほとりで待っている。そして、泉の周りには真名が漏れ聞こえないようにまじないで括られる。
真名は、その人の構成、意味、行く末までをも表す大切なものであるので、知られればその人の存在自体を握られたと言っても過言ではないのだ。授けられた本人が誰かに知らせない限り、名付けた≪親≫と己以外に知られることはない。
ルーズァは儀式の装束のまま泉に入り身を清めた。泉の水は思いの外冷たく、小さく身震いをした。儀式の緊張と≪風騎士≫を目の当たりに、しかも≪親≫となるという緊張も手伝って、ルーズァは誇らしく、鼓動はどきどきと高鳴った。
≪親≫であるマリウが、儀式の時にのみ用いられる古い言葉を唱え始める。ピンと空気が張り詰めた。
古い言葉は何を言っているのかルーズァにはわからない。葉擦れの音にも聞こえ、音楽的な独特の響きを持っている。歌っているようだとルーズァは思った。
「目を閉じよ」
言われて、ルーズァは目を閉じた。儀式の流れは知っている。これから六大元素の恵みの儀に入るのだ。
絶えず流れるように音楽的な言葉を唱えながら、マリウはアジュが掲げる盆から、最初に小袋に入った灰を手にした。それをルーズァの頭にふりかける。言葉を唱え終わると、泉の水でルーズァの頭を清めた。
次に盆から水を、土を同様にしてふりかけ、清めていく。
不思議なことに、そうされる度にルーズァは何か温かいもので包まれていくようで、鼓動は段々と鎮まっていった。
月桂樹の葉を口に含んだルーズァの額に、マリウが短く息を吹きかけた。月桂樹は≪月≫を象徴し、息は≪風≫を表す。ルーズァは「知」と「護り」の恵みを同時に受けた。
そしてマリウの額とルーズァの額をつき合わせられる。額に全ての熱が集まったように感じた。≪近しい者≫を象徴する儀だ。
ルーズァは無意識に耳を澄ませた。五感が冴え渡る。泉が、遠くの森の木々が、鳥が、風が、ルーズァを見ている気がした。そして、耳のすぐ近くで聞いたマリウの声は、微かだがしっかりと彼に名を告げた。
「汝が名はルーズァ。姓をアリベンティス。真名を≪煌≫とする。ゆえに真の意味は≪和みの煌き≫。これからも幸多き、恵み多き道を歩まんことを」
そして、眉間に感じたのは、マリウの息吹であった。「儀式が終わった」とルーズァは直感的に思い、閉じていた目を開けてマリウを見上げた。≪親≫は静かに微笑んで頷いた。
泉から上がってきたルーズァに、アジュがよく乾いた布と服を差し出した。
「おめでとう」
友人の顔を見て、初めて実感が湧いたルーズァは、満面の笑みを浮かべて、
「俺、いい名前もらったぞ!」
アジュの耳元で、今名付けられたばかりのその名を口にした。