第三話
その表情には、一切の感情も読み取れなかった。だが、黒い瞳だけがリナレスを捉え揺れている。どうやら状況を掴めていないようだ。
朝日に照らされた少年は、ところかしこに傷を負っていた。服も赤黒く滲んでいたが、致死量ではない。朝から血を見て、リナレスは血の気が下がるのを感じた。
反対に、もう1人は無傷だった。少年とは二周りも離れていそうな壮年の男だったが、その男の顔をリナレスは知っていた。
ゼグラ・ラインド。
この村の長の1人だ。
彼だと気付いた時には、ゼグラは停止したまま、こちらに口を歪めていた。
「リナレス。巫女の力を軽々しく使うな。罰が当たるぞ」
ゼグラは妙に殊勝な顔つきでそう言うと、口を突き出す。からかわれたのだとすぐに気付いたが、無視する。取り合っている場合ではない。
「そうさせたのは貴方です……。ここがどういう場所か知らない訳ではないでしょう」
リナレスの顔には、非難の色がありありと浮かんでいる。小さく抑制された声音からは、怒気すら感じとれた。――先ほどの、“声”とは随分違うな――ゼグラは苦笑するしかなかった。しかし、それは彼女には不穏当に映ったらしい。
リナレスは、ゼグラを食いつくように睨んだ。
「巫山戯ないで」彼女は短く言った。
「長、自ら掟を破り、得意気ですか」 「掟を破った覚えはない。ただ、こいつに稽古をつけていただけだ。そう睨むな――全く、その目……段々と、あの婆に似てくるな」
「こいつって……」
いつもの軽口も、今はただ、苛立つだけだった。彼女は、ゼグラに向き合っている少年を、乱暴に指さした。
「こんな風になるまで、斬り合うのが稽古なんですか?」
リナレスには、この手の嗜みや知識はまるで無い。だが目の前の少年は、乱闘でもしてきたかのような有り様だったのだ。
だから、何事もないようなゼグラの返答を聞いた時、彼女は絶句した。
「無論だ」
未だ動けないまま、トイタナはリナレスと呼ばれた少女を凝視していた。彼女は、ピッタリと動かなくなってしまった。多分、ゼグラの肯定が意外だったのだろうが……。
しかし、あれはなんだ?
ゼグラとの剣戟のさなか、トイタナは研ぎ澄まされていた。ただ、自分の力を試したい一心で、提案した手合わせだったが、剣を交えるうちにそれらは消し飛ぶ。
相手の剣を感じ取るだけで、精一杯だった。
猛然に迫る剣。
肉薄――したかと思えば、間をとる。つかず、離れず。
ゼグラ・ラインドは剣に振られていない。完全に四肢と同義へと昇華させていた。
つまり、剣が身体に馴染んでいるのだ。――ゼグラにはまだまだ遠く及ばないな――しかし、トイタナは、静かに予感しているのだった。
遠くない未来、自分もそれを手に入れることを。ほとんど確信めいた予感だったが、それは厳しい修練の糧となっていた。
それは、唐突に、トイタナを貫いた。切れ切れに続いた、2人の剣。音が無いほどに研ぎ澄まされた世界。血の香。
それらをかいくぐり“声”はトイタナに届いた。
その“声”は美しかった。
剣を持っていることも忘れるほど。
呼吸する度に、ズキズキと痛む傷もむしろ、清々しかった。
動けないことに気づいたのは、リナレスという少女が、自分を指差した時だった。ゼグラを詰問している彼女に、事情を説明しようとした。
だが、言葉がでない。音にならないのだ。それどころか、指一本動かせない、まるで、彫刻のように。
そこでようやく、トイタナは理解した、あの“声”はただの声じゃない、と。
あれはなんだ?
確かゼグラは、あれを、“巫女の力”とよんでいた。だとすれば、彼女は――――
「リナレス……、お前がこの場所に執着するのは分かる。だが、その執着は――」
「巫山戯けるな!!」
悲鳴。
トイタナはハッと、意識を現実に戻した。
空白。
自分の、手の内を、見る。
そこに、もう、剣は無かった。
白く、折れそうな、腕。その先に、鋭い金属が揺れている。切尖には瞳。
両腕で支えているが、定まらない剣。しかし、その空気は、戦場を引きずってきたかのように、剣呑だった。
リナレスは今、ゼグラに剣を向けている。
トイタナは、必死に動こうとした。リナレスは、とても冷静じゃない。傍目にも分かる興奮状態だ。今にも、剣を突き立てるかもしれない。
しかし、彼女がそこまで激昂する理由が分からかった。たしかに、ゼグラの態度は誠実とは言えないだろう。だが、それは親しみの裏返しに過ぎない。
……一時的とはいえ、殺意を向ける理由が他にあった?
少年には、少女の苦しみが、分からなかった。