第一話
短いです
トイタナの朝は、いつも早かった。
幼い頃から、太陽より早く目覚ると、窓の外に広がる誰もいない世界を見渡すのが彼の癖だった。
まだ暗く、夜の帳を感じさせる。しかし、確実に命が息吹こうとしている草原。
まるで、骸のように冷たい靴の中に、中途半端に脚をいれると、椅子に掛けてある外套を羽織り、廊下に出た。
静かな灯りが等間隔で通路に続いている。その光は、執事がつけたものだ。ここで、彼より早く起きるのはその執事だけだった。
屋敷の一階に降りるため、階段を下る途中、踊り場の壁に目をやる。
女の肖像画が自然にそこにある。
病的に白い肌。腰まで流れるような艶やかな黒い髪。瞳は柔らかく、消えいりそうに控えめな笑み。
彼女を描いた絵は、他にも何枚かあったが、これが最後の絵になった。彼女はもう居ない。
だから、トイタナはいつも、この肖像画に微笑んでみせた。
じゃないと。
消えてしまいそうだった。
彼の中に――残った彼女の姿さえも。
彼は母の顔を、もうしっかりとは思い出せなかった。
外にでると、やはり期待通りに慎ましい静謐さが空気を充たしている。
深呼吸をして自分をリセットすると、いつも通る草原の小路に歩みを進める。小路と言っても背の低い草の中に、微笑ましい程度の半円形に削れた地面があるだけだったが、トイタナはその無骨な路が好きだった。
少し平地より高い丘に建つ彼の屋敷から、半刻ほど下った場所に集落がある。そこに毎朝通い続けて、もう2年になるが、13の頃から1日も欠かしたことは無かった。
仄かな白を含む空を見上げながら歩く。
人の影はまだ見えなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その集落はユマリの村と呼ばれていた。ユマリとは、この国の古の言葉で《連なる者》という意味らしい。
何に連なるのか。
人か、思想か、神なのか。それを知る者は今は、もういない。
ユマリは豊かだった。あたりを草原に囲まれ、草原を縫うように、数多くの川が緩やかに流れていた。
雨もよく降り、特に雨期には、緩慢だった川の流れが、激流へと変わる。その様を村の者の間では「水の蛇」が棲む、と昔から言い伝えられている。
だが、その「水の蛇」さえ除けば、ユマリは豊かな自然に恵まれた、極めて平穏な村であった。
今は晩春に近い。幾月かすれば、今年もまた蛇が首を擡げるだろう。
蛇に備えるため今、村は慌ただしい。しかし、トイタナが訪れる早朝には、人の気配は全くない。僅かに、住居の前で老いた村民が数人、厳しい顔で話し合っているだけだった。
そちらを一瞥すると、彼らは、顔をほころばせて微笑む。もう自分たちには失われてしまったものを懐かしむ、そんな老人の目だった。
村の中にある住居にたどり着く、村にあるどの家より粗末な家。その扉を叩く。 「入れ」
鍾乳洞みたいに低く響く声に返事をし、中に踏み入る。
ほぼ円形な部屋の中央で、地べたが露出している面があり、そこで篝火が揺らめいている。ゼグラはその近くで片膝を立てて佇んでいた。 壮年に差し掛かるというのにその肉体は未だ、衰えを知らないのだろう。傍目にも分かる筋肉は鋭く引き締まっていた。
部屋の暗さと対照的に火のまわりだけが、ぼんやりと照度を保っている。光があたる彼の厳しい表情さえも、優しく見せる幻想があった。
「座しなさい」
「はい」
火の近くに腰かけると、冷えた身体が芯から溶けるように緩んだ。
「今日はどうする。決めてきたのか」
ゼグラは火をじっと見つめながら問う、その目は揺らぎもしない。
「はい、決めてきました」
しばし、薪が爆ぜる音だけが場に響く。トイタナは次ぐ言葉を躊躇していたが、やがて口に出した。
「手合わせを」
火を捉えていた瞳は、ゆっくりと見開かれトイタナに向いた。その重みをじっと受け止めていると、ゼグラは口を弛めた。
「そうか、わかった」
そう言うとゼグラは立ち上がって、部屋の隅に立てかけてあった剣を手に取る。そのまま戸口の前に行き、振り返った。
「準備をしたら外に出ろ。真剣だ、斬るつもりでやれ」
冷たくそう呟くと、ゼグラは扉の向こうに消える。その顔に笑みはもう無かった。
トイタナは自分の剣を手にすると、小さく燃える篝火を土で消した。