ジャブジャブ野郎とヴォーパル娘
――――世界は「反転」する――――
ジャブジャブ鳥と魔剣ヴォーパルはルイス・キャロルの「ジャバウォックの詩」から借りてきました。
年中発情中のジャブジャブ野郎にヴォーパル娘がキッツいお仕置きをしてくれますように。
イラスト提供:朝日登子様
寝坊した日曜の午後。遅い朝食は適当に腹の中に収めたものの、なんとなく気怠い。今週はなんだか疲れた。いつもなら週末も夜まで頑張るのだが、半ドンの女性社員と一緒に帰宅したくなるほど消耗した。
彼女を誘ってドライブにでも行こうかな?と電話したものの留守中なのか繋がらない。忙しさにかまけて今週ずっと電話もせず、ほおっていたから怒っているのかもしれない。
せめてもの身だしなみにと、もてあました時間を有効活用することにする。そして電話が通じた時に彼女に好印象を与える二重の効果を期待してお馴染みの理髪店に行くことにする。
歩いていける距離だが妙にだるいので具合よく着た路面電車に乗る。二区間ほど電車に揺られ、街並みを眺める。赤くなった木の葉がぱらぱらと落ちてくる。朝晩は冷え込むようになったが、この時間帯は太陽に照らされ体が温たまり気持ちいい。子供の頃、実家の縁側でしたひなたぼっこを思い出す。公園には編み物を持ち出す老婦人がいて、さらに陽だまりの心地良さに居眠りしてしまうような、そんな日。
電停前のいきつけの理髪店に入ると、毛もないのに毎週散髪にやってくる顔なじみの爺さんがいつもどおり顔に蒸しタオルをのせている。年金のぼったくりだろう、と毎度毎度思うのだが、爺さん、理髪店のオヤジが双方納得しているのならいいのか、と苦笑い。習慣と自己満足なんだろう。
新聞を眺めていると、パタパタと足音がして白い作業服を着た若い女性が店に現れた。
「いらっしゃいませ!こちらの席にどうぞ」
と元気よく挨拶されてちょっと面食らう。にこやかに笑いながら手際よく道具を揃えている。
(あのオヤジ、カネがかかるから従業員は入れないとか言っておいて、可愛い女性理容師を雇ったじゃないか)
今日は店にはどうやらこの女性ひとりのようだ。
(ラッキー!)
と心の中でガッツポーズをかまし、立ち上がるとへんてこな時計が目にとまる。
「あれっ?あの時計…。なんか変じゃない?」
妙齢の女性はにっこりと笑い、オレを椅子に座らせケープをふわっとかける。薄くつけたコロンが香りに不覚にもクラッとした。顔が近い。近すぎるって…
「ほら、お客さん、見て」
彼女は動揺するオレに気づかず、鑑の中を指差す。
「エッ?…ん?アレッ?」
オレは驚いて振り返る。このへんてこな時計、鑑の中ではちゃんとした普通の時計だ。正確に時間を刻んでいる。鑑の中の時計は午後二時の昼下がり。
「ふふっ、面白いでしょ?鑑に写すと普通の時計になるんですよ。
この鑑も先日新調したばかりなんです。わかります?」
彼女は殺菌ケースから鋏を取り出し、手慣れた手つきで散髪を始める。そういえばシンプルと言えば聞こえがいいが、素っ気なかった鑑は縁に装飾されたものに変わっている。ちょっと高級そうなイメージだ。
「アール・デコって言うんですよ」
オレは新調した(らしい)鑑のことなどどうでもよくて――鑑を通して彼女をちらちら盗み見している。オレの頭の後ろで軽く弾む胸が…胸が…
(今日はいい日だ!!)
お疲れモードが一気に吹っ飛んだ。今まで女性理容師に散髪してもらったことはなかった(オバちゃん、除く)。いや、役得、役得。同じ散髪をしてもらうならこれからは絶対若い女性理容師にしよう!と固く誓った。
そして俺の前髪を挟んでいる彼女の左の薬指に目が止まる。キラッと光るプラチナの細いリング。その「アール・デコ」とやらのちょっとうねった装飾。
(あっ!クソッ…。あのケチオヤジ、うまいことやりやがって)
可愛い女性理容師目当てに通い詰めようと思っていたら、若い新妻らしい。あのスケベオヤジ、どんな手を使いやがった?彼女はだまされてるんじゃないか?じゃなきゃそうとう趣味が悪い。こんなに若くて可愛くて、そして――
鏡に写った彼女の弾む笑顔と胸を見て鬱な気分になる。
癪に障るやら、悔しいやら。でも午後の温かな日差しに眠気を誘われ、ウトウトする。彼女の穏やかな落ち着いた笑顔で店全体がほっととした雰囲気に包まれている。
「ちょっと失礼しますね」
俺の散髪を終えた彼女はシェービングクリームを泡立てる。そのもこもこした泡を隣の爺さんに塗り始めた。髪は生えなくなってもヒゲはのびるんだろうか?それとも髪の毛と同じで、「気もちだけ」のひげそりなんだろうか。
どうでもいいことを考えながら彼女の仕事を見守っているうちに眠気が訪れる。そして、いつものように椅子の上で眠り込んでしまった。若くて可愛い理容師をもう少し眺めていたかったんだけど。そういえば、まだ名前も聞いていない。
ふと気づくとまぶたの裏がほんのり赤くて。
――ああ、もう夕方だ。ずいぶん眠ってしまったな、声をかけてくれればよかったのに…。土曜といったらかきいれどきだ。忙しいのに申し訳ない…と思いつつゆっくり目を開ける。
店の中は妙に静かだ。暗くなったのに電気も灯さず宵に沈んでいて、鑑も床も赤く染まっていた。カラスが遠くの方でカー、と鳴いている。ぼんやりとした寝覚めの頭。次第に焦点があってきて、愕然とする。
鑑や床、俺のケープに点々と散っているのは赤黒いものは――血ではないのだろうか。ケープだけではない。床にも小さな血溜まりができている。驚いて隣の爺さんに声をかけようとしたが――
爺さんの喉は泡をつけたままぱっくりと横に切り裂かれて事切れていた。ケープは真っ赤に染め上げられていて、趣味の悪いサンタクロースのようだ。
店の窓から覗く街は穏やかで、こちらの異変には気づいていない。夕暮れの宵闇の中、こちらだけが「ポツン」と切り離された別世界のようだ。街も店も赤く赤く染め上げられていている。
どういうわけか、体は動かず声も出せない。自由が効くのは眼球のみ。鑑の中のオレは気持よさそうに眠っている。金縛り?――そうか、これは夢なんだな…
いったい何時なんだろう、と思って苦笑する。夢に時間もなにもないか。鑑の中の時計はまたひっくり返って読めなくなっているし。夢のなかでも時計は正確に時間を刻んでいるのか?振り返って確かめたいところだが、体は相変わらず石のように重く動かない。
この支離滅裂な思考はやっぱり夢なんだよな?嫌な夢だ。早く醒めたい。
店の奥からコトンと音がする。目だけを動かして無理やりそちらを視界に入れる。先ほどの女性理容師がゆっくりとこちらに向かってくる。左手に赤く染まったナイフを持っている。先ほど爺さんのヒゲを剃っていたナイフだ。ぽとり、ぽとりとナイフの先から血が落ち、血溜まりに輪を作る。作業服は血を吸って真っ赤だ。
こちらの彼女は左利きで。そして先程のマリッジリングは右手に。ということは婚約者でも新妻でもない。コイツはいったい誰なんだ?混乱する、夢、夢、夢――
――夢だよな?これ――
彼女は俺の後ろに立つ。散髪の続きか?それとも…
鑑の中のオレの後ろにも先程の可愛い理髪師が立っている。真っ白な作業服を着て、眠り込んだオレをみてにっこりと微笑む。その表情にはなんの邪気もない。そして右手に同じ髭剃りナイフをもっている。
こちらの彼女もナイフを持ったまま、リングのはまった右手でオレの顎を支えオレの目を覗きこむ。その瞳は怖いぐらいに底なしの真っ黒で淀んだ闇のようだ。清潔に束ねられた黒髪、真っ白な頬と細い指はべっとりとした血糊で染め上げられている。
夢のなかで死んでしまったら、現実のオレはどうなるんだろうか?
目が醒める?それとも――
鑑の中のオレは幸せそうに眠っている。真っ白な作業服がとりわけ似合う彼女がひげそりの準備を初めている。
(起きろ!起きろよ!オレ!)
幸せそうな顔でバカみたいにねこけている鏡の中のオレに向かって叫ぶ。
喉にひやりとした感触。血まみれのナイフが喉元に当てられる。
(やめてくれ!)
夢でもなんでもいい。手を止めてくれ!大声で叫びたいのに声が出ない。血まみれの彼女に必死で目で懇願するが――。どんよりと真っ黒な目は焦点が合わず、オレのことなんか見ちゃいない。
鏡の向こうの彼女も寝ているオレのひげそりを始める。喉元にナイフがあてがわれ――
そして――
鑑の向こうからこっちのオレに向かってにっこりと微笑んだ。
この短篇集の全て、あるいは一部は予告なく削除される場合があります。