書架の蜘蛛
私は書架から書架へと渡り歩く。そう、まるで蜘蛛みたいに――
私は大切な『それ』を高い高い書架に隠し持っている。
誰にも理解されなくても『それ』は私にとってはとても大切なもの。
そして「危ないことはするな」と約束させられた夫に書架に登ったことを見咎められて叫ばれて――
とうとうぎりぎりのバランスで保たれていた書架が崩れ落ちてしまう。
私は人の手の届かぬ程の高い場所に、何かとても大切なものを隠している。
そして『それ』を毎日確かめにいく。
私はどうやら「妊娠」してしまったらしい。
夫にもう危ないことはするなと昨日言われた。
できるだけ彼に従ってはいたけれど、これは私にとって大切な「日課」なのだ。
――ということを彼は理解しないだろう。
だから私はやはり今日もこっそりと『それ』を見に行く。
高い高い書架に上り詰め、私は蜘蛛のように横に伝っていく。
急な坂道の上から見下ろすとに書架は下方に向かいずらりと一列に並んでいる。
一度踏み出すと降りることはできない。 降りる術がない。
坂道の一番低い書架まで辿り着き、地面に足を下ろすまで、自分の腕と足だけが頼りだ。
だんだんに連なる書架はコンクリートで打ちっぱなしの延々と続く階段の上に据え付けられている。
墜落したら即死かな。 それも潔くていいような気すらする。
目がくらむほど高くて怖い。おまけに私は高所恐怖症だ。
が、これは毎日やらねばいけないこと。
私の大切な「義務」であり「権利」だ。
蜘蛛みたいに書架にへばりついてそろそろと地面と並行に移動する。
いや、蜘蛛ならばもっと優雅にらくらく動けるだろう。
毎日行う日課なのにいつまでも慣れず、怖さで体が強張る。
腕の筋肉がピリピリ引きつる。
過度に心身の負荷がかかり脚がガクガクする。
『それ』は坂に並んだ書架の列のちょうど真ん中ほどに隠してある。
書架の本の中にこっそり隠してある。
何万冊もの本の中、それも誰も近寄らぬ危険な場所にわざわざ隠してある。
その書架は年代物で古く不安定でとてもグラグラしていた。
本が数冊バサバサッと落下する。
どの書架も本がぎっしりと詰まっていて不安定でゆらゆらしているのだが、特にこの書架は今にも崩れ落ちそうだ。
――あぶないな――
この書架は近いうちに崩壊するだろう。
そうすると私の大切な『それ』は2度と見ることも触れることもできなくなる。
――しかたない――
私は心を決めて『それ』をさりげなく本の中に紛れ込ませた本のカバーケースから取り出す。
本カバーの中の本は学生時代の彼に貸したきり。
大切な本だったけど、本はお金を出せば買えるしね。
私は誰にも見られてないことを承知で、なおもこっそりと『それ』をポケットの中にしまう。
誰にも見つからないように、誰もこれない所に隠しておいたけど…
永遠に失ってしまうのとどっちがマシだろう?
バラバラと本が雪崩落ち、長い間『それ』を守っていた書架がゆっくり前のめりに倒れていくのを私は隣の書架にしがみついてぼんやりと眺めていた。
坂の下で夫が大声で何かを叫んでいる。
ああ、きっと私が心配で見に来たんだな。
約束を破ってしまった。 もともと守るつもりはなかった約束。
彼が勝手に決めた約束だから。
もっと上手に「『約束』を守っているふり」をすればよかったな。
ぐらついているのはそこの書架だけ。
だからこそ、私はそこを選んで隠した。
どこよりも不安定で危なかしかったから。
残りの書架は低いし安定しているので落ち着いて書架を伝い地面に足をつく。
ずっと叫んでいた彼は走ってきて私の背中をぎゅっと抱きしめた。
約束を破って心配させてしまったし、怖がらせてしまい悪かった。
「ごめんね、私は大丈夫。どうしたの?」
私は安心させるために体の前に回されている彼の手を一生懸命さする。
同時に『それ』を見つからないようにお腹のあたりに隠す。
背中を彼に与えておけば『それ』は取り上げることがないだろうから。
彼は何やら大声で話しているが、内容はさっぱり頭にはいってこない。
そんなに私の中にいる彼の子が大切なんだろうか?
私はもう年だし、この子は流れてしまうかもしれない。
そしてもう卵は古い。 優秀な子は望めないというのに。
私は彼を落ち着かせようと必死で彼の指に私の指をからませ、優しい言葉をかける。
背にのしかかってくる大柄の彼は重くじっとりと汗ばんでて、私は支えるだけで精一杯。
私はお腹に抱えてる『それ』が彼に見つかって取り上げられないかと恐れている。
だから彼の気を紛らわせ落ち着かせようと一生懸命だ。
単に彼を落ち着かせるためだけに。
面倒な事になるのを避けるために。
そこに「愛」はない。
そこで初めて私は彼に「好意」を持っていないことに気づく。
今、初めて気づいた思いが彼に知れてしまわないかと恐ろしくなり、怯え、指先が冷たくなり震える。
突然、彼は全体重を私に預ける。
とても私の体では支えきれない重み。
しばらく耐えるが膝は崩れ、両手をふんばり四つん這いで頑張る。
やがてそれもかなわず地面に倒れ伏した私の上で彼はどんどん重力を増し、私はその重みと息苦しさに包まれ地に押しつぶされる。
視野の片隅で全ての書架が崩れ始める。
私は地面の奥の深い真っ暗なところへ飲み込まれていく。
――どうして?
彼だって初めから私を愛してくれてはいなかったじゃない。
物みたいに私を「所有」していただけじゃない。
そしてそれを「愛」だと言った。
そして「彼の愛」で私を縛った。
『それ』が彼の手に渡ったら彼は『それ』を叩き壊してしまうだろう。
『それ』が壊れたら私も壊れてしまうだろう。
私が私自身を守る。
それは「義務」であり「権利」。
だから命をかけて守っていた。
ふ、と、その重圧から放り出されたことに気づく。
時計を見ると6時少し前。 外は薄暗い。
朝? 夜? どっち?
ここはどこで、私は誰で、何をしている人なんだろう?
――そして誰と暮らしているのか。
高速でアイデンティティが確立されていく。
うす闇の中でぼんやりと私は「私」が戻ってくるのを待っている。
まっさらな私。
記憶を呼び起こす時間は一瞬なのか長時間なのか――
これから浮かび上がってこようとしているのも、誰かに都合よく作られた記憶なのかもしれないし。
案外と記憶なんて必要がないものかもしれない。
外の陽は明けてゆくのか暮れてゆくのか。
私自身は幸か不幸か。
それすらもまだわからない。
とりあえず床は安全なようなので、そこには深く感謝しつつゆっくりと目覚めよう。
この短篇集の全て、あるいは一部は予告なく削除される場合があります。