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蟷螂と締め切り

作者: 水嶋 治人
掲載日:2026/09/25

蟷螂と締め切り


水嶋 治人


 よる十時、月光が届かない、どこか見覚えのあるような町の、山間部を電車が走っている。心細いヘッドライトだけが頼りである。カーブのない線路を走るのである。朝方なら、切土や苔の生えた法面がみえる。だが、そこに慎ましい木々はない。四季を通して鮮明は皆無だ。人工的な雰囲気だけはある。

 この電車の行き先はベッドタウンである。もう少しで辿り着くだろう。その駅の周辺には三十年ほど前に造られたマンションが七棟も八棟もずっしり黙って在る。そこに私の帰る家があるのだ。私はというと、簡単にいえば課題の締め切りに追われる学生である。似たような奴はそこら中にいっぱいいるだろう。彼女はできたことがない。だから女の子と手を繋いで歩いてみたい。現実は悲しいものだ。なのに、くだらない話で盛り上がれる友達は幾つかいる。だが、上辺だけのような気がして、大学へ進学すると同時に縁を切るつもりだ。

 車内を見渡すと、私の他には主に四十代、五十代、たまに六十代の、ブリーフケースを膝に添える男性が十数人ほどいる。皆ロングシートに座っている。また車内にいる誰もが床をじっと見詰め、熱中したかのように俯いているのだ。会社で疲れたのだろうか。私はよくわかる。私も疲れ果てていて、課題に追いつかれそうなのだ。下を見てしまう気持ちがわかる。落ち込んでしまう気持ちがわかる。私もそのままじっと床をみつめてみた。色褪せていた。床は、毎日ある朝夕の混雑ラッシュを乗り越えてきた戦士そのものだ。なんて称賛の声を上げかけた。しかし単純に汚れた薄穢い茶色をしている。味も糞もない。そんなものはない。

 電車は古い車両だったから、走行中はずっと窓ガラスがカタカタカタカタとやけに耳障りの悪い音を出して揺れていた。ただカタカタカタカタいうのは、薄穢いと言われて怒っているように思えた。そうやって心地よく乗っていると、トンネルにさしかかり、運転士によって警笛が吹鳴された。驚いた。威勢のいい元気な音が静かな山に鳴り響く。だが、すぐに已む。電車は都市部の始発駅を出て、もう三十五分くらい経った頃であろう。

 唐突に車内アナウンスが流れる。「まもなく、××駅、××駅。」——

 ブレーキのかかるのが、身体でわかる。妙にわかった。そうして、こじんまりした(駅前には寂れた電話ボックスとタクシー会社の電話番号が記された錆びた看板と自動販売機が二台と一面に広がる田んぼがある)駅に着くと、車掌さんの渋い肉声が各車両に流れる。

 「左側の扉が開きます。ご注意下さい。」——

 その音と共に、ガタッ、ゴロゴロと年季の入った扉が、ぎこちなく開いた。××駅は誰ひとり乗り降りのない場所だった。扉の外の景色は黒かった。そこで私の目に入ったのは、近くにあった電灯だ。ポツンとあった。そこには、その周りには、小さい虫(たち)の飛び回る姿が見えた。確かにいた。群れていた。よく見分けがつかなかったが、多分、蛾にカメムシに、羽蟻もいたようだった。虫は楽しいのかもしれないが、私はどうも気持ちが悪いのだ。虫は大の苦手である。

 すぐに、電車は扉を閉めて、次の駅へ向かった。どうやら次が終点らしい。ベッドタウンだ。やっと帰れる。風呂に入って、晩飯を食って、寝てやるのさ。

 私は徐に座席から立った。とぼとぼ足を動かし、そしてドアの前に佇んだ。目の前には、扉のガラスに反射した自分が見える。車内の電気に照らされていた。ガラスの向こうにいる私は、毎回つかめそうなのに掴めない。それは何故か苦労するのだ。世の中には不思議なことがある。そうして私は、ベッドタウンの最寄りの駅のホームに電車が滑り込むまで気を散らす為に、頭上を見てみた。だが、変わったことは何もなかった。いつもの吊り広告と白色の(擦れた痕のあるやつもいる)つり革だけ。

 同じ魂胆で、今度は連結側の妻面の窓に注意を向けてみる。右側をみると、隣の車両にはスマホをみつめる女生徒がいた。私と同じくらいの年頃だろう。ショートヘアの可愛い子だった。連結部を隔てていても可愛かった。話し掛けようか迷った。でも、やめておいた。気づかれると不味いので、そそくさと次に左側をみた。隣の車両には、疲れ切った会社員らしい格好をした人がいた。私にはその会社員に微塵の興味もないので、さっきの可愛い女生徒をジロジロみようとした。すると、気にかかる小さな物体がある。とても小さい。予想もしていなかった。それはどこか願いが叶ったように嬉しいものだった。ただこれも電灯に群がる、しょうもない虫なのかと思った。最初は簡単に蠅かなんかだろうと、そう思った。私は確かめるために近付いてみた。興味のままに、己の足を動かした。するとそこには、微かに動いている何者かがいるのである。どうやら正体は、蟷螂だった。妻面の窓にいるのは珍しいと思った。なぜここに迷い込んだのだろう。私は可笑しいと思った。可哀想だともおもった。生きていては、なにが起こるか、誰にも予想できないものだとも思った。それは悟りに近いものだった。私の締め切りも間に合うかもしれないし、駄目かもしれない。わからない。ただ私の場合は頑張るしかないのだ。――

 蟷螂は、そんな人間のつぶやきを諸ともせずに、走る電車にしがみついている。飛ばされないように、いまを生きていた。何事もないように凶器のようなギザギザした鎌を携えている。見た目は厳つい。そして怖い。なにかと思えば、こちらを睨んでいるのだ。顔の形はいつもの逆三角形で、生き生きした緑色を身体に纏っていた。まだ若そうな見た目をしていた。活力があった。私のようにまだ青年のような、社会のことを何も知らないような顔立ちだった。ただ私と違うところがあった。それは締め切りに追われていないことである。実に呑気であった。

 もうすぐ最後の駅に着く。さっきと同じように渋い声のアナウンスが流れる。でも、さっきと違うのは、「終点」という二文字の言葉だった。

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