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ガラス越しの世界で

作者: M
掲載日:2026/01/31

目を開けたそこにはいつもの光景が広がっていた。教室に響く笑い声。

廊下を叩く足音。

でも、全部ガラス越しの出来事みたいだ。

音が遅れて歪んで届き、体の自由は効かない。

これは私の最悪ないじめの記憶だ。

記憶はずっと残っている。笑われた声。

無視された沈黙。それは刃物みたいに鋭く、胸に刺さって抜けない。

息がしづらい。

辛い…苦しい。


「はぁ…またか」

ここ最近こんな夢ばかり見ている。

こんな夢を見ているのに私は地獄に行くために体を動かしている。

自分がおかしいのには気づいていた。

でも、見て見ぬふりをするしかなかった。

親に心配をかけたくないし、怒られるのが怖かったからだ。

「いってきます。」

玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。その瞬間、胸の奥で何かが小さくひび割れるのが分かった。

でも、振り返らない。

振り返ったら、もう歩けなくなる気がしたから。

通学路の景色は、毎日同じなのに現実味がない。

信号の色も、空の青さも、全部が薄いガラスに阻まれているみたいだ。

それでも足は勝手に前へ進んでいる。

私はただ、それに乗せられているだけだ。

学校が近づくにつれて、心臓の音がうるさくなる。逃げ場のない場所に近づいている、と体が先に理解しているみたいだった。


教室のドアを開ける。一瞬、笑い声が止まり、またすぐに再開される。私に向けられていないと分かっていても、その音は針みたいに耳に刺さる。

席に座っても、居場所はない。ノートを開いて、ペンを持って、先生の声を聞くふりをする。

でも文字は頭に入らない。

視界の端で誰かがこちらを見ている気がして、肩が強張る。

「ねえ」

小さな声が聞こえた気がして、体がびくりと反応する。でも、誰も私を呼んでいなかった。ただの幻聴。

「大丈夫…大丈夫…」

そう言い聞かせても、鼓動はなかなか落ち着かない。


昼休み、机に突っ伏す。お腹は空いているはずなのに、何も喉を通らない。楽しそうな会話が、遠くで流れるBGMみたいに聞こえる。

私はこの世界に存在していないみたいだ。

――おかしい。

その言葉が、初めてはっきり浮かんだ。泣きたいのに涙が出ないこと。怖いのに、逃げたいのに、体は真逆の行動をとること。それ全部が、普通じゃない気がした。

いや、普通じゃないとわかっていた。


放課後、階段を降りる途中で、急に足が止まった。息が浅くなる。視界が揺れる。胸がぎゅっと掴まれて、空気が足りない。

「……無理だ」

声に出したのかどうかも分からない。ただ、その場にしゃがみ込んでしまった。

誰かが通り過ぎていく。でも、誰も声をかけない。それが、少しだけ楽だった。

このとき初めて、思った。――もしかしたら、私はもう居なくなってもいいのかもしれない、と。

それは希望というより、私が最後の力で絞り出した、願いだった。


その日を境に、何かが終わった。

はっきりと壊れた感覚があるわけではない。泣き叫んだわけでも、倒れたわけでもない。ただ、糸がぷつりと切れたみたいに、内側が静まり返った。

次の日も、その次の日も、私は学校に行った。でも【行っている】のは体だけだった。

笑われても、胸は痛まない。無視されても、怒りも悲しみも湧かない。代わりにあるのは、底抜けた空洞だけ。

刃物みたいに刺さっていた記憶は、まだそこにある。でももう、痛みとして感じられない。刺さったままなのに、感覚がなく、不思議だった。あれほど苦しかったはずなのに、今は何も思わない。「辛い」と感じない代わりに、「何も感じない」だけ。

それは救いじゃなかった。

家に帰っても、部屋は静かだった。親の声は聞こえる。

心配しているのも分かる。でも、その言葉はガラスに弾かれて、心に届かない。

「大丈夫?」

大丈夫じゃない、と答える感情すらなかった。口が勝手に「うん」と動く。嘘をついている自覚もない。

ただ、そう返すのが正解だと知っているだけ。

夜、ベッドに横になる。夢は見ない。いや、見ているのかもしれないけど、朝には何も残っていない。

目を開けると、また朝だ。生きている証拠だけが、規則正しく繰り返される。

【呼吸】【瞬き】【心拍】

それらは全部、自動で動いている。

「生きたい」も、「死にたい」も、もう私の中に存在しない。選択肢そのものが、頭から消えてしまった。

私はただ、在る。感情のない人形みたいに。

怖いことに、この状態は楽だった。苦しさがない。期待もなければ絶望すらない。

完全に心が死んでいるのに、体だけが世界に取り残されている。

――このまま、何も感じずに消えていけたら。

そう思った瞬間ですら、心は動かなかった。願いですら、もう感情を伴わない。

私は今日も目を開ける。光景はいつも通りだ。

ただひとつ違うとすれば、もうそれを「最悪な記憶」と呼ぶ心さえ、失ってしまったことだった。


ある日の放課後、私は屋上にいた。

理由はない。気づいたら、風の中に立っていた。

フェンスにもたれかかって、コンクリートに腰を下ろす。冷たいはずなのに、何も感じない。それすら、もうどうでもよかった。

空は夕焼けに染まっていた。赤とオレンジと、名前のつかない色が混ざり合って、ゆっくりと沈んでいく。世界はこんなにも綺麗なのに、私はそれを「綺麗だ」と思えていない。

そのとき、胸の奥で小さな音がした。

完全に壊れる音じゃない。でも、確かに入ったヒビの音。

何も感じないと思っていたのに、胸がわずかにざらつく。痛みとも、悲しみとも違う。ただ、「何かがあった」という事実だけが残る。

夕日を見ながら、私は初めて立ち止まった。前にも後ろにも行かず、ただそこに座っている。

風が制服の裾を揺らす。遠くから、下校する人たちの声がかすかに聞こえる。それらは全部、別の世界の出来事みたいだった。

「……」

声を出そうとして、やめた。言葉にする感情が、まだ見つからなかったから。

太陽が、ゆっくりと建物の向こうに沈んでいく。光が減るたび、世界は少しずつ輪郭を失っていく。

私の心も、同じだった。

ヒビが入ったまま、壊れもせず、元にも戻らず。ただ、そこにある。

そう思ったとき、風に押されるみたいに、体がわずかに揺れた。立ち上がろうとしたのか、座り直そうとしたのか、自分でも分からない。

そのときだった。

「……大丈夫?」

背後から、低くて落ち着いた声がした。驚くほど近くて、振り返ると、見知らぬ人が立っていた。先生なのか、用務員なのか、それともただ通りかかっただけの大人なのか。判別する気力もなかった。

「ここ、危ないからさ」

責めるでもなく、急かすでもなく、ただ事実を言うみたいな口調だった。

何か言おうとした。でも、言葉は形にならなかった。

その代わり、体が小さく震えた。自分でも気づいていなかった震え。

その人は少しだけ距離を詰めて、フェンスから私の体を離す位置に、静かに立った。

触れられてはいない。でも、逃げ道がふさがれた感じでもない。

「座ろうか」

そう言われて、ここが「屋上」だということを思い出した。

夕焼けはもう、ほとんど闇に溶けている。でも、完全には消えていなかった。それだけのことなのに、胸の奥で、また小さな音がした。

今度は、割れる音じゃない。何かが、かすかに戻る音。

このあとどうなったのか、正確には覚えていない。誰かに連れて行かれたのか、誰かに話しかけられたのか。

ただひとつ確かなのは、あの夕暮れの中で、私はひとりじゃなくなった、ということだった。

止まっていた時間が、ほんの少しだけ、動き出していた。

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