第6話
母の形見であるサファイアのブローチが盗まれた。
その事実は、冷たい水となってわたくしの心に注がれた。あれは、わたくしがこのエーデルシュタイン家で孤独を感じるたびに、そっと握りしめてきた唯一の心の拠り所だったのだ。
「申し訳ございません、お嬢様! わたくしが、少しだけお部屋を離れた隙に……!」
侍女のセーラが、顔を真っ青にしてわたくしに泣きつく。わたくしは彼女を落ち着かせるようにその肩を抱きながら、冷静に状況を分析しようと努めた。
「あなたのせいではないわ、セーラ。……ゼオン様、これは……」
わたくしが助けを求めるように隣の彼を見上げると、ゼオン様は既にテラスからわたくしの部屋へと移動し、鋭い観察眼で室内を検分していた。その姿は、もはや公爵ではなく、戦場を駆ける騎士そのものだった。
「窓にも扉にも、無理にこじ開けた形跡はない。警備の者たちも、怪しい人影は見ていないと報告があった。……つまり、犯人はこの屋敷の内部の人間、もしくは、誰にも気づかれずに侵入できる特殊な能力を持った者だ」
彼の言葉に、背筋が凍る。
この屋敷に仕える者たちは、父が厳選した、忠誠心の厚い者ばかりのはずだ。裏切り者がいるとは、信じがたい。ならば、後者か。
「敵は、我々が接触したことに気づき、警告を送ってきたのだろう。そして、おそらく……」
ゼオン様は言葉を区切ると、宝石箱が置かれていたドレッサーの前に屈みこみ、床に落ちていた何かを慎重に拾い上げた。
「……このブローチが、君の『星詠み』の力を増幅させる、一種の触媒だった可能性が高い」
彼が指の間でつまんでみせたのは、一輪の黒い薔薇の花びらだった。エーデルシュタイン家の庭園には存在しない、不気味なほどに完璧な漆黒。
「これは……?」
「『夜薔薇の教団』。前世で、君の力を狙っていた者たちが使っていた紋章だ」
夜薔薇の教団。
その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが閃光のように炸裂した。
―――暗い祭壇。黒いローブを纏った人々。そして、中央で高らかに笑う、仮面をつけた男の姿。
一瞬のヴィジョン。それはあまりに鮮明で、わたくしは思わずよろめいた。
「リリアーナ!?」
ゼオン様が、すぐさまわたくしの身体を支えてくれる。彼のたくましい腕に抱きとめられ、ようやくわたくしは呼吸を取り戻した。
「今……何か、見えました……。黒いローブの集団と……仮面の男が……」
「……そうか。力が、目覚め始めている」
ゼオン様の声には、喜びよりもむしろ、痛みを堪えるような響きがあった。わたくしの力が目覚めることは、敵にこちらの居場所を知らせる危険な賭けなのだ。
彼はわたくしを抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。
「すまない。君に、こんな思いをさせて……。だが、もう躊躇ってはいられない」
彼は決意を固めたように顔を上げると、わたくしの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「リリアーナ。我々は、ここを出る。今すぐに、私の領地である北のアルジェントへ向かう」
「北へ……? ですが、父が……」
「侯爵には、私が話を通す。彼の望みはエーデルシュタイン家とアルジェント家の結合だ。場所がどこであろうと、君が私の妻になるという事実さえあれば、文句は言うまい」
彼の判断は迅速だった。
敵が屋敷内部にまで侵入できる以上、ここがもはや安全な場所ではないことは明らかだ。彼の本拠地である北の公爵領ならば、帝国のどんな権力も容易には手出しできない。
「分かりましたわ。……あなたと、共に行きます」
わたくしの返事に、ゼオン様はわずかに安堵の表情を浮かべた。
父への説得は、ゼオン様の予想通り、驚くほどあっさりと進んだ。父は、わたくしの身の安全よりも、アルジェント公爵との繋がりが確実になることの方を喜んでいるようだった。そのあからさまな態度には傷ついたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
出発の準備は、秘密裏に、そして迅速に進められた。
必要最低限の荷物をまとめ、信頼できる侍女のセーラだけを連れて、わたくしは夜陰に紛れて屋敷を後にした。
公爵家の紋章が刻まれた、堅牢な馬車に乗り込む。ゼオン様が隣に座り、扉が閉められると、馬車は音もなく滑るように走り出した。
窓の外を流れていく、見慣れた王都の景色。
これから、わたくしの運命は、全く新しい局面を迎えようとしていた。
不安がなかったと言えば、嘘になる。
けれど、それ以上に、隣に座る彼の存在が、わたくしの心を強く支えてくれていた。
「……ゼオン様」
「なんだ?」
「わたくしは、怖くありません。あなたと一緒なら」
それは、偽りのない本心だった。
五百年もの間、たった一人でわたくしを想い続けてくれた彼だ。この人を、信じられないはずがない。
わたくしの言葉に、ゼオン様は一瞬目を見開くと、ふっとその表情を和らげた。
「ああ。……私もだ。君が隣にいてくれるだけで、私は何とでも戦える」
彼はそう言うと、わたくしの左手を取り、薬指に嵌められた指輪に、そっと口づけを落とした。
その瞬間、また、脳裏にヴィジョンが過る。
今度は、もっと鮮明なものだった。
―――それは、豪華絢爛な舞踏会の光景。
場所は、王宮の大広間。近々開かれる、建国記念の祝賀舞踏会だ。
シャンデリアの光の下で、多くの貴族たちが踊っている。その中に、クラヴィス殿下と、純白のドレスを纏ったミア嬢の姿があった。
彼女は、殿下と踊りながら、その陰で、誰かと目配せを交わしている。
その相手は……黒い礼装を纏った、見知らぬ若い貴族。しかし、その男の瞳には、見覚えがあった。夢で見た、あの『夜薔薇の教団』の仮面の男の、冷酷な瞳と同じ光が宿っていたのだ。
そして、ミア嬢の手には、見覚えのあるものが握られていた。
わたくしの母の形見、サファイアのブローチ。
彼女は、そのブローチを、大広間の天井に吊るされた、巨大な魔法のシャンデリアに翳す。すると、ブローチが禍々しい光を放ち始め、シャンデリアの魔力が暴走を始める。
悲鳴が上がり、人々が逃げ惑う中、ミア嬢と黒服の男だけが、静かに笑っていた―――。
「……はっ!」
現実の世界に引き戻される。
わたくしは、ぜえぜえと肩で息をしていた。
「リリアーナ、どうした!?」
「今……見えました……! 建国記念舞踏会で……ミア嬢が、何かを……!」
わたくしは、見たままの光景を、必死にゼオン様に伝えた。
ミア嬢が『夜薔薇の教団』と繋がっていること。母のブローチを使い、王宮のシャンデリアを暴走させようとしていること。
「……なるほどな」
全てを聞き終えたゼオン様は、険しい表情で呟いた。
「ただの警告や嫌がらせではない。彼らの狙いは、王宮での大規模なテロ行為そのものか。舞踏会には、この国の主要な貴族や王族が全て集まる。その混乱に乗じて、何かを成し遂げようとしているのだ」
「では、わたくしたちは、このまま北へ向かっていては……!」
「ああ。計画を変更しなければなるまい」
ゼオン様は、馬車の壁を強く叩いた。馬車が、静かに停止する。
彼は御者に短い指示を与えると、再びわたくしに向き直った。その銀色の瞳には、戦いを前にした、鋼のような決意が宿っていた。
「リリアーナ。君の力が、我々に好機を与えてくれた。敵の計画が分かった以上、それを阻止することができる」
「王都へ、戻るのですか?」
「そうだ。そして、建国記念舞踏会へ出席する」
その言葉に、わたくしは息を呑んだ。
敵の罠が待ち構えていると分かっている場所へ、自ら乗り込んでいくというのか。
「危険なのは承知の上だ。だが、これは好機でもある。奴らが衆目の前で悪事を働こうというのなら、我々もまた、衆目の前で奴らの罪を暴き、断罪することができる。そして……君のブローチを取り返す、絶好の機会だ」
彼の言葉には、揺るぎない自信があった。
そうだ。逃げているだけでは、何も解決しない。
いつまでも、彼に守られているだけのか弱い存在ではいたくない。
「わたくしも、戦います」
わたくしは、自分の薬指で輝く指輪を強く握りしめた。
この指輪が、わたくしたちの魂の繋がりを、そして、失われた記憶と力を呼び覚ます鍵なのだ。
「今度こそ、あなたの背中を、ただ見送るだけでは終わりません。あなたの隣で、わたくしたちの運命を、この手で掴み取ります」
その決意の言葉に、ゼオン様は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、彼は、わたくしが今まで見た中で、最も優しい笑みを浮かべた。
それは、五百年の時を超えて、ようやく愛する者と同じ覚悟で隣に立つことができた、騎士の歓喜の笑みだった。
「――ああ。我々の戦いは、ここからだ」
馬車は静かに方向転換し、再び王都の灯りに向かって走り始めた。
目指すは、クライマックスの舞台となる、建国記念舞踏会。
記憶は、まだ不完全なまま。
けれど、魂は知っている。
愛は、記憶も、五百年という時さえも超えるのだと。
そして、二人が共に在れば、どんな運命にも打ち勝つことができるのだと。




