第九十三話 『チスタ:過去の選択』
あれから数日が経った――
あの魔獣襲撃の翌日には、いつも騒がしい“わがままお嬢様”でさえ静かだった。
かなり疲れていたのだろう。
ときおり、ラサラさんが寝ぼけて廊下を徘徊する姿を見かけた……
あれは正直、ゾンビかと思って心底ビビった。
「あれ、夜中にみたらトラウマになっていたな……間違いなく」
と、思えるほど皆疲れきっていた。
けれど、一番疲れていたのは――
もしかするとチスタだったかもしれない。
あの後も意識を失いそうなのを、繋ぎ留め回復を行った。
その為、最後の回復を終えた時には糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。
そして、今も熱を出して寝込んでいる。
それを聞いたオレは、少し慰労を兼ねてお見舞いすることにした。
その前に食堂に立ち寄った。
余っていた『ルヴィア』の実を一つ分けてもらうためだ。
これは、言うなれば「りんご」だ。
この世界ではルビィアと呼ばれている。
前に、チスタがこれを美味しそうに食べていたのを見たことがある。
少しでも喜んでくれるならと、貰ってきたのだ。
――コンコン。
オレはドアを二回ノックして、起きているか確認する。
すると部屋の中から「どうぞ」と促してくれた。
ドアを開けると、こぢんまりとした部屋の中、チスタがベッドに腰掛けていた。
寝てたのだろうが、わざわざ座り直してくれたのだろう。
オレは少し部屋を見渡した。
部屋は石造りの壁に囲まれている。
窓からは差し込む柔らかな光。
それが、木の机や小さなタンスの表面を穏やかに照らしていた。
こぢんまりとした空間には、使い込まれた棚。
それとと手仕事の道具がきちんと収められている。
それが質素ながらも丁寧に整えられた印象を与える。
特徴的なのは、どこか果実のような甘酸っぱい香りが漂う。
干した柑橘の皮でも吊しているのかと想像させた。
隅には簡素な炉と鉄のケトルが据えられている。
湯を沸かす程度は問題ない小さな炊事場が併設されていた。
オレの部屋より狭いが、綺麗に整っている。
チスタの性格が出ているのかもしれない。
そんなことを思っていると、ベッドの上のチスタが小さく微笑んだ。
「どうぞ」と、手で椅子を示す。
オレは一礼するように頷いて、腰を下ろす。
少し間をおいてから、チスタが首を傾げた。
「どうなされたのですか?」
「いや、寝込んでるって聞いたからさ。お見舞い。あと、これ持ってきた」
懐からルヴィアの実を取り出して見せると、チスタの表情がぱっと明るくなる。
「あ……それは、ありがとうございます。すぐに皮を剥き――」
立ち上がろうとするチスタの動きを、オレは手を伸ばして止めた。
「いいよ、オレがやる。病人が立ち上がるなって」
そう言って、部屋の隅にある小さな炊事場を指さす。
「そこ、借りるぞ」
オレは、自前のナイフを取り出すとササッと皮をむき六等分に切り分けた。
「器用ですね。驚きました」
「そうか? まぁ、なんでもいい、そら」
「ありがとうございます。わたし、これ好きなんですよ。ふふ」
嬉しそうにするチスタにオレも微笑ましくなる。
そして、ベッドの上に座るチスタを見る。
チスタは、淡い生成りのチュニック。
そんな感じの寝間着を身にまとっていた。
麻布で仕立てられたそれは、使い込まれた柔らかさがあった。
袖口にはほつれを繕った跡が見える。
膝あたりまでの丈で、動きやすさを優先した実用的な作り。
髪はゆるくひとつに束ねられていた。
そして、寝起きのままのあどけなさを残していた。
「チスタって……ルヴィア……好きだったよな」
フィルは無言で、果実を切り分けた。
その果実をそっと載せ、チスタの前の机へと置いた。
チスタは一瞬、目を丸くし、その果実を見つめた。
そして、ぽつりと呟く。
「……うん。顔も思い出せないけど……昔、お母さんが食べさせてくれたの」
伸ばした指先が、ほんの少し震えている。
その横顔は、かすかに笑っていたけれど――その笑みは、どこか懐かしくて、そして寂しげだった。
フィルはその様子に、自然と言葉を飲み込む。
彼女にとって、この果実がどれほど特別なものだったのか……言葉以上に、その仕草が雄弁に語っていたから。
きっと、それは奴隷商に売られる前――まだ幼かった頃の、最期の家族の記憶。
「すまない……つらいこと、思い出させたかな」
フィルがそう声をかけると、チスタはほんの少しだけ首を横に振る。
「……そうですね。正直、あの頃は、生きているとは言えなかったです」
遠くを見るような目で、チスタは語り出した。
「周りの人たちの目も、光がなくて……みんな、もう諦めていて……
そんな中にいると、自分も同じ運命を辿るんだって……思わずにはいられなかった。
生きている意味なんて、どこにもないんだって……」
言葉が途切れ、少しだけ唇が震える。
けれど、彼女はそれでも続けた。
「でも……そこに、アルトメイア様が現れたんです」
「そして、こう言ってくれました――」
――助かりたいか?
――それとも……このままでいいのか?
――それとも……死にたいか?――
――キミがどれを選ぶか、決めてくれ。
――私はそれに従おう。
――選ぶのも、選ばないのも、キミの自由だ。
――だが、一度キミが決めたのなら――私は全力で、それを尊重する。
――もし、もしも……親を探してほしいというのなら、それも協力しよう――
「……そう、言ってくれたんです」
チスタはゆっくりと果実を一片、口に運んだ。
その味が、かつての記憶と完全に一致するわけではない。
けれど――
「……あれ……おかしいな……」
ぽつりと、チスタがつぶやく。
そして、目尻をぬぐいながら、かすかに笑った。
「味は、覚えてないのに……涙だけ、出てくるなんて……」
フィルは、そっと目を伏せた。
それ以上、言葉はなかった。
ただ静かに、彼女が過去と向き合い、今を選んだその瞬間に、立ち会えたことが――
不思議と胸を熱くした。




