第七十六話 『焦心焦慮(しょうしんしょうりょ)』
――はぁぁぁ……
オレは深く長い溜息を吐いた。
理由は言わずもがな……
この自由気ままでワガママな子猫のお守りをしているからだ。
よく懐いてきて、じゃれてくれるのはいい。
けど……それが長時間続くとさすがに疲れる……
別の意味でSAN値が削られるよ。
「ほんと……いい加減にしてほしい……な」
そして今は、歩き疲れたのか、公園の隅にある木陰のベンチで休憩している。
そんな中でも、うちのお嬢様は楽しそうだ。
あれはなに?
これはなに?
と、聞いてくる。
「ねぇ、あれはなんて書いてあるの?」
とか……
「ああ……あれは……『緑の樫の木亭』って……え?」
あれ? こいつ……
「もしかして……おまえ文字読めないのか?」
「な、なによ。悪い? べ、別に読めなくても、誰か読める人に聞けばいいだけじゃないっ!」
読めないことを尋ねられることに抵抗があるだろう。
ヒュリエはしどろもどろになりながら、少し怒気を孕ませながら言い放つ。
「………」
いや……それはまずいだろ……
貴族で、しかも伯爵家のご令嬢が文字も読めないとか……
これは大丈夫なのか?
いや……それより……
「な、なぁ、もしかして計算も出来ない……? とか?」
「で、出来るわよっ! それくらいっ!」
「175+167は?」
オレは一応、簡単だが少しだけ意地悪してみた。
「……いっぱい……」
「はぃぃ?」
「その……たくさんよっ!」
「おま……」
オレは少し呆れてしまった……
ほんとに誰か教える人がいないのだろうか?
………いや、こいつのことだ。
教えようとしたら、逃げていたんじゃないだろうか……?
そんな、考えがオレの頭を過ぎった。
「ふぅぅ……別に学者とかになれとは言わないが、ヒュリエは少しは覚えた方がいいぞ……」
「い、いいのよっ! それくらい出来る人に任せておけばっ!」
いやいや……
そんな、まるでダメな上司が、面倒な仕事を全部部下に押しつけるみたいに……
「いや……さすがにまずいぞ。このままいくと、ヒュリエ自身肩身が狭い思いをするぞ」
「べ、別にいいわよ……それくらい」
「いや、もう少し考えてないとこれから大変になるって……それに面と向かっては言わないだろうが、使用人にも陰で何か言われてるか分からないぞ……」
――ヒュリエ視点。
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心臓がドクンと跳ねた。
(知ってる……そんなこと、わたしが一番よく知ってる……!)
耳を塞いでも、何度も何度も聞こえてきた。
「ねぇ、聞いた? お嬢様、伯爵家の令嬢なのに文字も読めないんだって」
「ほんと、信じられないわよね。ここの使用人ですら、ちょっとは読めるのにね」
「まぁ、どこかの貴族に騙されて、ひどい目にあうのがオチよ」
「それにしてもいいわねぇ。何もできなくても裕福な暮らしができるんだから」
「ほんと、あんたが言うように騙されたら、分かるんじゃないかしら? 苦労ってものを。あはは」
「ほんと、ほんと! あはは!」
(うるさい……うるさい……!)
拳をぎゅっと握る。あのときも、悔しくて、悔しくて――
だから、努力した。こっそり本を開いてみた。
でも、まったく読めなかった。数字も、意味が分からなかった。
剣術ならできるのに、こんなことすらできない。
まじめに、嫌いな先生の授業も受けた。
ちゃんと机に座って、ペンを握って、何度も計算しようとした。
けど、先生は溜息をついただけだった。
「こんな簡単なものもできないのですか? はぁ……」
その冷たい視線が、突き刺さる。
わたしがどれだけ頑張ったかなんて、関係ないみたいに。
「ごめんなさい……」
悔しかった……
情けなかった……
でも、一番悔しかったのは、あの先生の呆れたような顔をされたことだった……
もう、わたしはダメなんだと。
いくらやっても無駄なんだと。
諦めたんだ……
「……知ってるわよ……そんなことは知ってるのよっ! だからなにっ!? なんでそんなこと言うのっ!?」
声が震えるのを止められなかった。
「いや、オレはおまえのことを思ってだな……あっ……」
フィルは話している途中で何かに気づいて言葉を止めた。
「フィルも、結局みんなと同じ。わたしのこと、バカにして呆れているんでしょっ!? フィルは違うと思ってたのに……もういいっ!」
もう耐えられなかった。
胸がギュッと痛くなって、目の奥が熱くなる。
気づいたら、足が動いていた。
どこに行くかなんて、考えていない。
ただ、ここから離れたくて――
――ガシッ!
走り去ろうとしてわたしの腕が何かに掴まれてしまった。
振り向くと、フィルが申し訳なさそうな顔をして、わたしの腕を掴んでいた。
そして――
「……おまえ、ほんとは覚えたいんじゃないのか?」
そう、優しく言ってくれた。
「――っ!」
けど……図星を刺された気がして、息が詰まる。
一瞬、心が揺らいだけど――すぐに意地を張ってしまう。
「そんなことないっ! 別に覚えなくてもいいの!」
嘘だ。ほんとは覚えたい。でも、素直に言えない。
バカにされるのが怖くて。できない自分を認めるのが怖くて。
「……意地を張るなよ。もし、本当に覚えたくないなら、それでいい。けど――」
フィルが少し言葉を選ぶようにして、ゆっくりと続けた。
「……もし、覚えたいなら、オレが教えてやる。」
「え……?」
意外な言葉に、涙でぐしゃぐしゃな顔を思わず上げる。
バカにしないの?
見下さないの?
笑わないの?
じっとこちらを見るフィルの目に、そんな色はなかった。
――フィル視点。
オレは忘れていた。
自分が同じ経験をしていたことを。
自分で気づいていることを指摘される。
それが、どれほどイヤだったかを……
こいつは、自分ができないことを知っている。
けど、そのことを指摘されて怒った。
なら、ほんとは出来るようになりたいんじゃないか?
オレ自身の経験則だが、そんな気がする。
けど、そんなにすぐに素直になんてなれない。
だから、反発する。
だけど……
ほんとは望んでいるはずなんだ。
助けてくれる誰かを。
力を貸してくれるなにかを。
なら、オレがして欲しかったことをオレがこの子にしてやればいい。
オレだって人にものを教えられる程のヤツじゃない。
けど、それで少しでもヒュリエの救いになるのなら……
オレがその役目を引き受ければいい!
だからっ!
オレは逃げようとするヒュリエの腕を掴んだんだ。
――
「なぁ、どうなんだ? おまえはどうして欲しいんだ?」
既に、涙でぐしゃぐしゃなヒュリエの表情。
そこに、さらに瞳からボロボロと涙が溢れてきていた。
「……教えて欲しい……教えて欲しいよっ! フィルゥゥ!」
そう言って、ヒュリエは小さな子どものようにオレの胸に顔をうずめ、震えながら泣いた。
オレはそっと背中をさすりながら、ただ黙ってその涙を受け止める。




