第四話 『兄弟』
この模擬戦の観戦者は、ほんのわずかだった。
言い出しっぺの父は急な呼び出しで出かけ、兄の母も懇意にしている婦人たちの相手をしており、不在。
この場にいるのは、兄の魔術の教師、わずかな使用人、審判役の警護隊長――
そしてもう一人——兄が市政で見かけ、扱いの酷さに業を煮やし、奴隷商と交渉して買い取ったという、ハーフエルフとハーフリングの血を引く少女だった。名前は「チスタ」。
チスタは元々、もっと北の方にいたらしい。
だが、人さらいに遭い、この街へと売られてきたという。
兄が言うには、彼女は痩せこけ、生きる気力を失ったように何にも反応しなかった。
それでも奴隷商はムチを振るい、恐怖で無理やり従わせようとしていたらしい。
その光景を見かねた兄は、チスタに何かを尋ねたという。
何を聞いたのかは知らない。
だが、その問いかけに、チスタは初めて反応し、兄に助けを求めた。
そして兄は、それに応えた。
今、彼は兄の側仕えとして仕えている。
そんな中、あまり乗り気ではない兄とオレは稽古場の片隅の模擬戦場へと歩み寄り、兄はワンドをオレは剣を構えて対峙する。
しかし、オレは既に覚悟を決めていた。
どういう結果になろうとも、受け入れる。
ただ、それだけがオレに出来る覚悟だった。
だが、兄は違う。
この場においてもなお、悩んでいるようだった。
……分からないでもない。
ブッシュボーン家の跡取りで、しかも父からの命令では拒めない。
それに、それだけではない。
――跡取りとして、絶対に負けられない!――
それがたとえ誰であったとしても……
これは、そういう戦いだと分かっているんだ。
他にも不安はあるだろう……
兄とオレは仲が良かった。
それだけに、悩んでいるのだろうな。
兄さんは優しいからな……
オレとしては、負けても全然かまわない。
それで、兄さんの面目が保てれるのなら、それでいい。
だから、なのだろうか。
オレが手を抜いていることを感じ取り、本気で怒り出したのは……
そして、警備隊長の模擬戦開始の号令が静まり返った中庭に響いた。
フィルは模擬刀を握りしめ、兄――アルトメイアと対峙した。
兄はワンドを手にし、慎重な面持ちでこちらを見つめている。
「……始めるぞ」
兄が小さく言ったのを合図に、フィルはゆっくりと間合いを詰めた。
――様子見だ。
まずは軽く踏み込んで、剣を振る。
それに対し、兄は軽くステップを踏み後ろに下がり、そのまま水の刃を打ち込んできた。
その反応は、驚くほど冷静で、迷いがなかった。
その刃をオレは軽く身をよじり、躱す。
交わした水の刃は場外へと飛んで行き、失速をして地面に落ちた。
(……流石に、強いな)
兄の動きから、自分の攻撃の威力を測り取られていることが分かる。
フィルは二撃、三撃と連続で振るったが、今度は兄はワンドで軽く受け、わざと攻撃を外させているようだった。
――まるで試されているような感覚。
だが、それに乗るつもりはない。
フィルはさらに一歩踏み込み、今度は少し速めに剣を振るった。
しかし、顔に影を落としながらでも、それすらも兄はワンドで防ぐ。
「……っ」
その瞬間、兄の表情が変わった。
ワンドを押し返しながら、歯をギリっと噛みしめる音が聞こえる。
そして、怒りに満ちた声が放たれた。
「おまえ、手を抜いているだろ!」
フィルは驚き、思わず動きを止めた。
「な……っ、そんなつもりは……!」
「嘘をつくな!」
兄はワンドを強く握りしめ、フィルを睨みつける。
「オレを舐めているのかっ!」
フィルは焦った。
確かに、少し加減していたのは事実だ。
兄を傷つけたくない。
勝敗にこだわるつもりもない。
だが、その考えが兄の誇りを傷つけた。
「違う……!」
必死に弁明しようとしたが、兄は聞く耳を持たなかった。
「なめるなっ! 僕がおまえに負けるわけがないだろうがっ!」
その言葉と共に、兄の目に鋭い敵意が宿ったのがわかった。
それを見た瞬間、フィルは息を呑んだ。
兄が……本気で怒っている。
どうすればいい?
戸惑い、迷う。
だが、このままではいけない。
兄に認められるためにも……
そう思った瞬間、兄によって放たれた氷の刃がオレの頬を切り裂いた!
その刃はそのまま場外の壁を砕き破片が飛び散るほどの威力で突き刺さる!
「そうやって、僕を舐めていればいいさっ! けど、僕は今からオマエを本気で殺す覚悟で戦ってやる! オマエは僕に倒された時、悔やみながら死ねばいいっ!」
「……っ!」
その表情は、いつもオレに向けてきていた暖かでまるでお日様のような、優しい兄の穏やかな顔ではなかった。
まるで、大事な誰かを殺されて、その復讐に燃えるような表情だった……
恐ろしい……
それしか表現は出来ないが、オレは恐怖で足がすくんだ……
そして……ここから、何かが壊れた気がする。
決定的な何かが……
オレの……せいなのか?
どうしていれば良かった?
――オレはまた、何かを間違えてしまったのか……?
けど、今はそんなことを考えている暇などない。
今をどうするか、兄との戦いをどうやるかだっ!
だから、オレは――手加減を捨てることを決めた。
――その先で、何が起こったのか。
はっきりとは覚えていない。
ただ、終わった時には兄は負傷し、勝敗は兄のものとなっていた。
しかし、観戦者の目には――まるで、フィルが勝者に対して執拗に攻撃し、傷つけたかのように見えてしまったのだ。
「卑怯者っ!」
チスタの怒声が、フィルの胸を突き刺した。
なんで、オレが卑怯者なんだ……
ただ、オレは兄に言われた通りに全力を出した。
……ただ、それだけだ。
それなのに……
どうやら、オレは何をやっても、頑張れと言われて頑張っても、本気を出せと言われて出したとしても、どうやら認めてくれる人はいないらしい……
なら、もういいや。
誰に認めてもらわなくても……
いつか、この家を出て一人で生けていける自信を付けるためだけに生きればいい。
もう、それだけでいいや……
だが、その際に兄の目元から頬に掛けて傷を負わせてしまった……
それが、オレをこの時のことを思い出させてしまうものになってしまった。
オレはその傷を見るたびに心を締め付けられる……
兄もそれを知ってか知らずが傷を直さなかった。
まるで、オレを呪いにかけるかのごとくに……
この模擬戦で得たものななんてない……
何もかもを失うことだけだった。
そして――何かが、決定的に狂ってしまった気がする。
フィルはただ、静かに拳を握りしめた。
そして、この時からフィルは一人になっていった。