40. リディアとサラ
アナスタシアの瞳が紅く染まった、あの日のことを——。
私はきっと、一生忘れない。
それはまるで雪の上に落とされた、一輪の赤い薔薇のようだった。
——魔力の覚醒。
いとも簡単なことに聞こえるかもしれない。
喜ぶべき誉であり、何も煩うことなどないと——。
だが、それが同時に、多くの犠牲を強いるものだとしたら——?
なによりあの時、私の娘——アナスタシアの小さな身体はもがき苦しんだ。
彼女が発した光は、美しくもあり、同時に恐ろしくもあった。
——そう、私は怖かったんだ。
あの子の中で、何かが変わってしまったのではないか。
誰かの手が、あの子に悪意を持って伸ばされたのではないかと——。
だから私は、それを確かめるために、彼を呼んだ。
首都の魔道具ギルド長で、商人ギルド長の怪しい切れ者。
そして、魔力と精霊の専門家でもあるこの男——セルゲイ・ターナーを。
彼なら、あの『香り』の正体を知っているかもしれない。
アナスタシアの傍にあった、小さな銀の玩具に潜んでいた微かな香り——。
それが異常なものではないと、彼に言って欲しくて。
今、私たちはサロンの一室で向き合っている。
皇后の私室に隣接する、皇后専用のプライベートサロンだ。
そして彼の手には、問題の玩具が握られている。
それは銀の細工で作られた、見た目には可愛らしい玩具。
赤子の手にちょうどいいサイズの、音の鳴る玉のようなものだ。
「これは、何?」
「子ども用の玩具です。銀細工で、ごく穏やかな魔力が封じられており、香りつきのもの……」
セルゲイは説明しながら、ふと目を伏せた。
その声には、かすかな迷いと怒りが滲んでいる。
ただの玩具だろう。
確かに、見た目にはそう映る。
けれども、彼の沈黙が物語るのだ——それが『無害なもの』ではないと。
「銀製ですって……? それに香りまで……」
私の問いに、彼は静かに頷いて先を続けた。
「本来であれば、香りつき魔具は皇宮内には持ち込まれません。特に双子殿下のように、魔力適性が明確でないお子さまには、直接的な魔具の使用は極力避けるべきです。ですから……これがどうしてここにあるのか、私にも分かりかねるのです」
香りつきの魔具——それは、精霊の加護を受けた特別な『香』を放つ道具だ。
微弱ながら、人の感情や意識に働きかけるものもある。
まるで心に小さな波紋を投げかけるように、魔力の根底に触れる。
極めて繊細で、非常に危ういもの。
——そんなものを、誰が、娘たちの傍に…………?
「どこで手に入れたものか、すぐにわかるかしら?」
「この型の銀細工は、近年になって貴族令嬢の間で流行したものです。特に、香りの調合に精霊術が使われているものは人気が高く、高額でも飛ぶように売れたとか。なにしろ精霊術ですからねぇ……、取り扱いを許される者も限られております……。例えば『あの家門』とか」
セルゲイの瞳が一瞬、鋭く光る。
この瞬間『帝国有数の策士』は、覚悟を決めたのである。
◇
——『あの家』
それは、デインヒル伯爵家のこと。
私の脳裏に、サラ・デインヒルの名が浮かんだ。
近頃、彼女の動向が頻繁に報告されるようになったから。
なんでも、マリシスに接近しようと執拗に試みているのだとか。
最初は社交の一環かと気にも留めずにいた。
帝国貴族のもとに生を受けた娘であれば、マリシスに憧れても当然だから。
しかも今世のマリシスは、前世の記憶持ち——。
サラの存在と、自分との関係性を既に知っているとくれば、母親としての警戒心は薄れるもの——。
けれどもあの時、建国記念式典の朝、私はそれではいけないと強く感じた。
決してリディアを侮ってはいけない、警戒を怠ってはいけないと。
リディアと揉めたあの時、私がサラの名前を出した時の彼女の反応——。
思い返せば、あの反応が『サラ・デインヒル』とリディアの関係、その全てを物語っていたではないか。
——まさかリディア、こんな形で……あなたは。
リディア。
彼女は、私の義妹だ。
私の実父、アーノルド・クレメント公爵の後妻が連れてきた娘。
血のつながりはないけれど、形式上、彼女は私の妹に違いない。
——かつて私を殺そうとしたかもしれない女。
そして今は、先帝が与えた皇宮下女の職に就いている。
サラとは旧知の仲だったはず。
それだけじゃなく、今ではサラの兄に恋心まで抱いていると耳にした。
「この香り、私にも覚えがあるの。一度だけ……それも確実ではないけれど、義妹のリディアから、うっすらと香った気がするのよ。…… セルゲイ、今、あなたに問いましょう。この香り、魔力の覚醒を促す作用があるとしたら? どうか、教えてちょうだい」
私の問いに、セルゲイはわずかに目を細めて。
その拳に、グッと力を込めた。
「理論上は、あり得ます。魔力そのものに影響を与える香りであれば、必要な条件が整った場合、潜在的な魔力を刺激する可能性は否定できません」
「つまり……アナスタシアの『覚醒』も?」
「もちろん偶然だった可能性は否めませんが……。ですが、誰かが意図的に仕掛けたと考えれば……合点のいく部分が多いのは確かです」
私の心の奥に、静かであっても確実に、怒りが芽生えた瞬間だった。
私の娘を、無垢な赤子を、どんな意図で巻き込んだというのか?
あのリディアとサラが——。
アナスタシアの瞳が紅く変わった時、何かが目覚めたのは確かだった。
それを『偶然』だと思いたかったけれど、もしそこに『悪意』があったのなら。
「……この件、アルにも報告します。早速、調査を始めましょう。リディアとサラの動向について、改めて洗い出してちょうだい」
セルゲイは深く頷いて、すぐに取り掛かると約束して去っていった。
そうして私は、今日もテラスから夜空を見上げる。
誓いを口にするには、最も適した場所だから——。
「このままでは絶対に終わらせない。子どもたちの未来を守るため、そして帝国の秩序を守ためにも。アナスタシア、トリアージェ……お母さま、ちゃんと働きますよ!!」




