ありがとうと伝えたかったのに
確かに少しだけ、ほんの少しだけ、淡い期待を抱いていた自分がいた。この状況から自分を救い出してくれる手があるのではないかと。………黒馬様たちなら、もしかしたら助けてくれるかもしれない、と。しかし、雀の涙よりも小さなその期待に賭ける程、私は今までに誰かを信じてその通りになった事など無かったのだ。だから、ここに現れた白鹿様たちを見て、まず1番に出てきたのは「なんで」という気持ちだった。
「なんだ、軍人か………!?」
「なんで軍人なんかが………っ」
驚いているのは私だけでは無い。依頼人以外の男にとっては、白鹿様たちの存在を認識したのは今が初めてで、何故軍人がここに駆け付けてきたのか分からず、動揺と困惑と、自分たちがしている事に対しての焦りによって、面白い程に狼狽えていた。その内の1人の男が、そういえば、と言った様子で、私の世継ぎの儀式のことを思い出したようだ。仲間に耳打ちをして、白鹿様たちがその儀式の相手なのだということを伝えていた。
「なるほどな………。お前ら、儀式の為に軍から派遣されてきたのか。毎回毎回こんな田舎町までご苦労な事だな」
「ご苦労なのはそっちの方だ。女1人に男が何人も………。相手もいなけりゃ、女買う金も無いなんて、同情するよ」
男たちを怒らせるには十分過ぎる煽り文句である。紫狐様が鼻で笑いながら吐き捨てた挑発に、ゴロツキたちは面白いように乗り出した。恐らく、私では無く自分達に意識を向ける様に敢えて煽ったのだろう。成り行きを静かに見つめていた私は、その隙に口に詰め込まれていた布を吐き捨てた。何とか体勢を直しながら、後ろ手で固く結ばれた縄を解こうとする。………駄目だ。固く結ばれていて、自力では解けそうにない。
「軍に飼い慣らされて良いように使われてるだけのガキが、生意気言ってんじゃねぇ!」
1人のゴロツキの怒号により、遂には目の前で乱闘が始まった。やはり流石は軍人といったところだろうか、白鹿様、紫狐様、青兎様全員が、慣れたような手付きでそれをいなしていく。キチンと受けた訓練の賜物か、ゴロツキたちの独学の荒々しい武術なんかよりもずっとずっと綺麗で、まるで手本の様な鮮やかな手付きであった。感心するようにそれを見つめていると、私を大きな影が覆い尽くす。
「………だから言っただろ」
安堵なのか、呆れなのか。息を吐く黒馬様が、私の目の前に立っていた。そして、縛られている私の手を解放してくれた。やっと自由になった手首を確認するように触る。きつく縛られたお陰で、白い肌にはくっきりと縄の痕が刻まれている。別に大した傷でも痛みでも無いのに、そこを撫でる私の手に黒馬様の手が重なって、
「………悪い。やっぱり1人にするべきじゃなかった」
「え…………」
その顔は、軍帽のせいでちゃんとは確認出来なかったが、悲しそうな、でもどこか怒っているような、悔しそうな………、複雑な顔であった。何で黒馬様が謝る?何でそんな悲しそうな顔をする?誰の為にそんな顔をしている?全てが初めて向けられる感情ばかりで、何て声を掛けたらいいのか分からない。しばらく黒馬様は私の手首を撫でていたが、やがて何かを感じ取り、無言のまま立ち上がって後ろを振り返った。黒馬様の背中を睨む、ゴロツキの中でも一際体格の良い大男。私を拘束した時、中心となって周りに指示していた、謂わばリーダー格のような男が、私と黒馬様のやり取りを見下ろしていた。
「感動の再会ってか?泣けるねぇ」
「………もう大人しく縄につけ。軍人と一般人じゃ結果は見えてるだろ」
「うるせぇ!偉そうな事言ってんじゃねぇぞ!大体お前らだって、その女に俺らと同じ事してんじゃねぇか!子供産ませる為だけに、無理矢理抱いてんだろ!何が違うんだよ!」
「お前らなんかと同類扱いすんな」
感情的になる男とは裏腹に、いつもの冷静なままの黒馬様。お陰で男がより一層哀れに見えてくる。しかし、その男が懐から物騒なナイフを取り出したことにより、黒馬様も私も、一気に身が引き締まった。刺しどころが悪ければ、小さなナイフでも十分重傷になり得る凶器だ。乱れた服の裾を直しながら立ち上がる私を、黒馬様が背中に隠す。隠れて大人しくしてろ、と言いたいのだろう。
「黒馬様、私………、」
「死ねェェエエエエ!!!!!」
私の訴えが男の叫びに掻き消されて、男はそのナイフを突き出しながら黒馬様に向かって走り出した。だが黒馬様はというと、特に動じることも無く堂々とした出立ちで、男のナイフを掴む腕を、脇の下へ抱え込む。その動きは一瞬で、瞬く間にはもう男など床へ倒れ込んで呻き声を上げていたのだった。本当に軍人なんだ………という呟きは、恐らく失礼に当たる気がするので飲み込むことにしよう。兎にも角にも、あちこちですっかり伸びてしまったゴロツキたちを見回しながら、私は顔を見合わせる黒馬様たちに歩み寄った。
「あ………、あの」
「菖蒲ちゃん、怪我は無い?」
服に付いた埃を払う白鹿様は、フワリと微笑んでみせた。当たり前のように私の心配をしてくれる彼らが不思議で仕方がない。
「あ………、あり………」
「ん?」
何かを言おうとしていることに気が付いて、みんなが首を傾げてこちらを見ている。言い慣れない、その短い言葉を、私は必死に喉の奥から搾り出そうとしていた。多分みんなもみんなで、私が言おうとしている言葉を既に察していて、ただ黙ってそれを待っている。
「あ………、ありが………」
「菖蒲様!!」
しかしその言葉を、最後まで言う事は叶わなかった。私を見下ろしていた4人の目は何故か途中から私の背後の方へと移り、青兎様の焦ったような声が私の名を叫んだ。弾かれるように振り返ると、先程黒馬様が退治した筈だった大男が、再びナイフを持って一番近い位置にいた私を目掛けて襲い掛かってくる。その凶器には、驚く私の顔が反射して写っていた。
「菖蒲!!」
黒馬様がこちらに向かって手を伸ばすよりも早く、私はゴロツキの大男の腕を脇の下に抱え込んだ。その技は、先程黒馬様がこの男にやったものと同じ。そして男は、自分の体格よりも一回り二回り小さい私に、簡単に投げ飛ばされたのだった。ポカンと目を丸くする黒馬様たちと、今度こそ完全に伸びる大男を前に、私がパンパンと手を払う。落ちたナイフを拾い上げて、
「危ないので没収致します」
「お前………、何で………」
「幼い頃、軽い護身術を和尚様に叩き込まれていたので。これくらいの相手なら自分で何とか出来ます」
先程、この大男を黒馬様が倒す前。掻き消されてしまったが、私が言いたかったことは、この事だった。何かあった時、自分の身は自分で守らなければならないと、和尚様に教え込まれた合気道やら空手やら。また、歳の召した和尚様を守る用心棒としての役割も担う為、そこらの人よりは武術に心得があったのだ。とはいえ、軍人の彼らやちゃんと武術を習っている人に比べたら、素人の軽い護身術程度にしかならないだろうが、今までにも何度も役に立ってきたので、和尚様には感謝している。
そんな私のちょっとした特技に、4人は呆然としていた。警察に引き渡しましょう、とまるで何事も無かったかのように冷静に階段を降りて行く私の後ろ姿を見送りながら、「………先に言えよ………」と呟かれたツッコミは、私本人の耳に届く事は無い。
「ほら!さっさと歩け!」
「クソッ………、触んじゃねぇ!」
その後、私が呼んだ警察によって、ゴロツキたちは無事に全員お縄につくことになった。幸い何の被害もなかったのは、きっと黒馬様たちのお陰だ。あの時彼らの助けがなかったら、きっと私は………。言いそびれたお礼を言うべく、私は彼らの元へ駆け寄る。だが先に口を開いたのは黒馬様の方であった。
「なぁ。仕事の依頼って、こんなんばっかなのか」
「いえ………。けど、こういった事も珍しくはありません。嫌がらせのような依頼もあります」
「まあ用心棒くらいなら全然やるけどさ………。今までそんな事ばっかりされてきて、何も思わないの?」
「何もって…………」
思ってない。………訳がない。本当は悲しいし怖いし、怒りも感じる。私だって人間だ。けど、いちいちその感情を表に出したところで、何かが変わる訳じゃない。私はこの町の嫌われ者で、明日もきっと依頼という名の嫌がらせを受ける。それが私にとっての日常だ。だから、私はただひたすらに感情を押し殺して、無心で生きている。これからもきっと。
「この町の人間の性根もだいぶ腐ってんな。噂には聞いてたが、ここまでとは思わなかった」
「平気です。私にとってはこれが当たり前なんです」
「当たり前って………」
「それより皆さん、あの………、本当に助かりました。その………、お礼を………」
今度こそ落ち着いてありがとうが言える。そう口を開きかけた私の思考を奪ったのは、またしても黒馬様だった。あろうことか黒馬様は、突然私の巫女服に手を掛け、先程ゴロツキたちにされたように、ガバリと胸元をはだけさせてきたのだった。露わになる私の肌と谷間に、「おお」と釘付けになる4人の男の視線。
「この痣、巫女の紋か」
「さっきたまたま見えてずっと気になってたんだ。これが例の痣みたいだな」
「な…………、何を…………っ!」
白い肌はみるみる真っ赤に染まり、私の肩は忘れかけていた怒りという感情によって小さく震えていた。黒馬様が私のその様子に気付いた時にはもう既に遅し。「あ」という彼の呟きと共に、パチンと気味のいい乾いた音が鳴り響いた。じんわりと痛む、赤くなった私の右手と、その手形が付いた黒馬様の左頬。ありがとうという言葉はすっかり引っ込んで、言う気など微塵も無くなってしまった。
「あのゴロツキたちは殴らなかった癖に………」
「黒馬ったら大胆なんだから」
「黒馬ってば破廉恥なんだから」
「うるせぇ!お前らも見たのに俺だけ殴られるのおかしいだろ!」
白鹿様や青兎様に揶揄われ、納得いかなそうな黒馬様を背後に、私は服を整えそっと胸元に手を添えた。そこに刻まれている痣は、確かに巫女である証。私が赤ん坊の時から既にあった痣だ。
そしてこの痣こそが、私を巫女という運命に縛り付け、さらに今後、黒馬様たちの運命すら大きく揺さぶるものとなる事は、今の私たちに知る由など到底無かったのだ。