チョコレートは甘くて美味しいのです
事は唐突に起こった。藍原曹長と共に、何とも気まずい見回りの隊務をこなしている最中、私の足元に何かが纏わりつくような、しがみつかれているような感触。そのせいで歩くのが困難になって、前を歩いていく藍原曹長の背中を後目に、私は足を止める。一体何事かと自分の足元を見下ろすと、顔を真っ赤にし、瞳に大きな雫をいっぱい溜めた小さな男の子が、私に必死に抱き着いていた。
「ど、どうしたのですか………?」
突然の出来事に動揺しつつも、私はその場に屈んで男の子に目線を合わせる。男の子は今にも大声で泣き出しそうなのを我慢して、ぐっと口を堅く閉じていたが、やがてその震える唇で小さく、
「………おかあさんとはぐれた………」
そう言って、その小さな体で必死に私に助けを求めていたのだった。なるほど、だとしたら一大事だと、私は男の子を抱きしめてあやすように背中を撫でつつ、前を歩いていた筈の藍原曹長を見回す。藍原曹長は、途中で私が着いてきていないことを察して、こちらに戻ってくる最中だった。
「一体何をしているのです。隊務の妨げになるようなことは謹んで………」
「藍原曹長!迷子です!」
「は………」
「探しましょう!この子のお母様を!」
有無を言わさないといった様子で私が捲し立てる。当然、藍原曹長はそう簡単に納得する筈がなく、「隊務が優先だ」とか、「何故私たちがそんなことを」だとか、うだうだと否定的な言葉を並べていたが、私はそれに聞こえないフリをして、男の子を抱きかかえたまま立ち上がった。泣きながら、必死に私に縋り付いてきたこの子を放っておくなんて、そんなことはできない。
「勝手な真似をするな!私たちにはもっと優先すべきことが………!」
「これ以上優先すべきことなどございません!軍人様は、私たち民間人を守ってくださる英雄様なのではないのですか!」
私は初めて、藍原曹長に対して反論した。軍人様は、私たちを守ってくれる英雄………。だからこそ、みんな軍人様を尊敬している。少なくとも、黒馬様たちはそうだ。きっとこの場に黒馬様たちがいたのならば、みんな張り切って母親探しをしていることだろう。
私が若干声を荒げたことによって、周囲にいた人たちの視線が私と藍原曹長に突き刺さった。「一体何事だ」「何か揉めているのか」「痴話喧嘩か?」とひそひそ噂され、この状況では涙を流す男の子を置き去りになんてできないだろう。藍原曹長は舌打ちをしながら、不服そうにも私に言われた通り、渋々母親探しを手伝うこととなったのだった。
「見つかりませんねえ、お母様………」
母親探しは、思っていたよりも難航した。男の子に聞くと、どうやら夕飯の買い物をしに一緒に家を出たそうで、だとしたら市場ではぐれたのではないかと藍原曹長が推察した為、一通り市場を探し回った。しかし、市場はたくさんの人たちで賑わっており、そう簡単に人探しは進まなかった。今は一旦休憩しようということで、適当な場所に座ってぼんやりと海を眺めている。
男の子はというと、先程まではグズグズと鼻を鳴らしていたのだが、藍原曹長に買ってもらったチョコレートですっかりご機嫌になり、今は私の隣で嬉しそうにそれを頬張っている。ちなみに藍原曹長は、チョコレートを買った時に、「お父さんに買ってもらえてよかったな!」と男の子の頭を撫でる店主に父親と勘違いされ、物凄い顔をしていた。
「いい加減、お前たちのわがままに付き合うのも限界だ。私は忙しい。そろそろ駐屯地に戻るぞ」
「そんな………。この子はどうするんですか」
「見つからないものは仕方がないだろう」
不安げに男の子の横顔を見おろす。小さな頬がもぐもぐと動いているその姿は何とも愛らしい。こんないたいけな子供を放っておくなんて………。それに、母親も今頃必死になってこの子を探しているかもしれない。そう想像すると、とてもそんな残酷なことはできなかった。
しかし、藍原曹長もいよいよ譲らない。ここまで付き合わされたことによって相当苛立ちが募っているらしく、私の腕を乱暴に掴んだ。強引にでも連れて帰るつもりらしい。抵抗できない圧倒的な力で無理矢理立ち上がらされ、男の子から手が離れる。嫌!と思わず拒もうとした瞬間。
こっちの事情を知らない無邪気な男の子が、満面の笑顔でこちらを見上げた。食べかけのチョコレートを、藍原曹長に向かって差し出している。
ぽかん、とする私と藍原曹長。しかし男の子はただずっと、キラキラした目で藍原曹長を見上げて、チョコレートを掲げている。恐らくこれは………。
「藍原曹長に、チョコレートを食べてほしいのではないでしょうか」
恐る恐る、隣の藍原曹長を促す。彼は面食らったような表情で固まっていて、どうしていいか分からないといった様子だ。男の子は、藍原曹長がチョコレートを受け取ってくれるまでずっとそのままの姿勢で待っている。きっと、お菓子を買ってくれたお礼、お母さんを探してくれているお礼を、男の子なりに返そうとしているのではないだろうか。
やがてしばらく待った後、藍原曹長がようやく一歩前へ踏み出した。小さな男の子に対して、大の大人がタジタジになりながらも、そのチョコレートを受け取る。別に藍原曹長もチョコレートを食べたい訳ではないだろうが、男の子の気持ちを汲み取って、1口、齧ってみせた。口の中に広がるほんのり甘い味。それは何故か、藍原曹長にとって、今まで食べた物の中で1番甘く感じた。
「………仕方、ありませんね。お礼を受け取った以上は、相応の働きをする必要がある」
「藍原曹長………!!」
下心も何もない、純粋な男の子の気持ちに触れて、藍原曹長の何かが変わったのだろうか。先程まで、この子を放って帰ろうとしていた癖に、彼は母親探しを続行しようとしていた。その心変わりに、私は小さく笑みをこぼす。「そうですね」とただ一言返事をして、同意した。藍原曹長はどこか気まずそうに、居心地が悪そうに、私と男の子に背を向けて、ゴホンと1つ、咳払いを落としたのだった。




