運動は毎日適度にしましょう
「紫狐様、聞いてます?」
「………っ!悪い………、何か言ったか」
私が隣にいる彼の名を呼ぶと、彼………紫狐様は明らかに動揺したような様子を見せた。案の定、私の話を聞いていなかったようで、改めて何と言っていたのかを聞いてくる。別に大したことを話していた訳ではないのだが、ここ最近彼らはずっとこんな調子で、心ここにあらずといった様子なので、流石に心配になる。現に今、晩御飯の材料を買う為にやって来た店先でも、紫狐様はこんな感じだ。
「今日の夕飯、何がいいですかと聞いただけなので、大した事ではないのですが…………」
「夕飯………。俺は別に何でも………」
「じゃあ、お野菜ばかりの献立でも何も文句は無いということですね?」
「うっ…………」
渋い顔をする紫狐様。彼は、野菜が食べられない程ではないが、あまり好きではなく自分からは進んで食べないということは、既に把握済みだ。毎食調理するのは私であることが多い為、ある程度みんなの好き好みは理解している。私が調理担当、みんなが片付け担当だ。
「うーん………。やはりここは黒馬様も好きなお魚を…………」
そう言って、そこに並ぶ新鮮な魚に目を落とす私に、紫狐様の大きな影が覆い被さった。何事かと見上げると、まるで紫狐様が私を隠すように背後に立ち塞がっている。紫狐様の背後では、バタバタと慌ただしく軍人が数名走り去っていくのが見えて、紫狐様の警戒するような視線はそちらに向けられていた。
「何なんだろうね最近………軍人がやけに多いわ」
「物騒ね………戦争でも始まるのかしら」
同じように買い物に来ていた主婦たちが、ヒソヒソと声を潜めている。この町に滞在している軍人がやけに多いことは私も感じていて、最初のうちはそれでも身を潜めるように遠慮していた軍人たちも、いよいよどんどん数が増えて、町中を闊歩するようになっていた。町の人たちに横暴な態度を取る者や、ちょっとした揉め事を起こしたとか何とか、そういう良くない話を噂で聞くことも増えた。紫狐様と同じ軍服、見る感じだとそんなに階級も変わらなさそうだが、彼らが民間人に横柄な態度を取ることはあまり珍しいことではない。あまり良い軍人たちが滞在しているとは思えなかった。
「紫狐様は何か知らないのですか」
「何かって?」
「………気付いていますよね。この町に沢山の軍人様が滞在していること」
同じ軍の人間である紫狐様たちなら、何かこの理由を知っているのではないかと思っての質問だったが、紫狐様はやはり、ぐっと口を噤んで気まずそうに視線を逸らすだけであった。………やっぱり何か知ってるんだ。この異様な状況の理由を。そして恐らくその理由には、私も関係している。何故なら彼らは、町がこうなってから、私が何とか軍人様と関わらないようにしているのを察していた。
「何なのか分かりませんが………、きっと私が原因なのでしょうね」
「菖蒲………」
「貴方たちを見ていれば分かります。ずっと、私を守ろうとしてくれていますよね」
私の真っ直ぐな瞳を受けて、紫狐様もこれ以上変な嘘を吐いたり、言い逃れすることはできないと感じているようだった。私を見つめ返し、真剣な表情で何かを言い掛けた、その時であった。
「いたぞ!!巫女だ!!」
大きな声が、私と紫狐様の間を割くように響き渡った。ハッとしてそちらを見ると、先程走り去った筈の軍人数名が、こちらを指差して仲間を呼び寄せている。今までは、町に滞在する軍人たちもただそれだけで、直接声を掛けてきたり、襲ってくるようなことは無かったのに、今対峙しているその人たちは明らかに私に敵意を向けている。その異様な雰囲気は紫狐様も当然感じ取っていて、私の肩を咄嗟に抱き寄せた。
「お前は儀式に従事している紫狐だな。巫女をこちらに寄越せ」
「………断ると言ったら?」
「拒否権はない。拒むのなら、手荒な方法を使うしかないな!」
紫狐様には、その軍人たちの要求を飲むつもりなど全く無かった。反抗的な態度の紫狐様を言葉で説得させるのは無理だろうと、軍人たちも手をパキポキと鳴らして、こちらにゆっくり近付いてくる。………元から乱暴な手段を使うつもりだったくせに。私もいよいよ警戒するように、周囲を見渡した。こちらが2人に対して、相手は5人程。更に先程仲間を呼んでいたので、時間が経てばもっと人数が増えるだろう。
そして、軍人は周囲に一般人がいようが、店がぐちゃぐちゃになろうが関係なく、こちらに襲い掛かってきた。紫狐様がそれをいなし、軽々と関節技を決める。それによって、店先に並ぶ商品棚に軍人が勢い良く突っ込み、けたたましい音と客の悲鳴と共に、食材が宙を舞った。
「巫女さえ捕らえられればこっちの目的は達成できるんだ!」
「…………!」
紫狐様たちの乱闘を見ていると、気付けば私のすぐ傍にももう1人の軍人が迫って来ていた。こちらに掴みかかってくる手を小脇に挟み、その大きな体を振り飛ばす。店がどんどん散らかっていく様子を、店主が涙目で震えながら見ていて、私はその店主に後で弁償することを約束しながら、更にもう1人を背負い投げして撃退した。どうやらこの軍人たち、下っ端も下っ端の若い人たちのようで、私の護身術でも充分通用するようだ。
「いたぞ!こっちだ!!」
こうして、私と紫狐様で何とか迎撃していたが、案の定、次から次へと増援が現れた。これではキリがないし、数で押されてこちらが負けるのも時間の問題であった。紫狐様も同じ見解らしく、勢い良く私の腕を掴むと、私を引っ張ってその場を走り去った。迎え撃つのではなく、逃げて撒くつもりなのだ。
「待て!!逃亡したぞ!!」
「もっと増援を呼べ!見失うな!」
私たちの様子を見て、慌てたように追いかけて来る軍人たち。紫狐様は、物凄い速さで半ば引き摺るように私を引っ張っていく。どんどん息が上がって、私の脚がもつれる。増援を呼び、既に先回りしていた軍人たちが目の前に立ち塞がると、こちらも途端に進路を変え、入り組んだ路地裏の方へと迷い込んで行く。
はあ、はあ、と乱れた2人分の呼吸はどんどん切羽詰まっていき、追い詰められていくのを肌で感じていた。逃げなきゃいけないのに、疲労と息切れが思うように足を動かしてくれない。心臓が爆発しそうな程痛くて、普段の運動不足を呪った。
やがて私の体力の限界を感じ取った紫狐様が足を止める。大丈夫か、と問いかけて来る表情は焦りと緊迫感が漂っていて、紫狐様1人だったらもっと上手く逃げられたかもしれないのに、と足を引っ張っている事実が申し訳なかった。
どうしてこんなに追われているのか。こんなに逃げなければならないのか。私には分からないことだらけだけど、紫狐様の表情や様子を見ていれば分かる。捕まったら、きっと私にとって碌なことにならないのだろう。だから彼は、自分の立場も関係なく、必死に私を逃そうとしているのだ。
「………紫狐様、こっち!」
私は咄嗟に紫狐様の腕を掴むと、引っ張ってすぐ傍にあった空家に飛び込んだ。産まれてからずっとこの町で過ごし、色んな人のお遣いや依頼をこなしてきたのだ。この町の地理や、どこにどんな建物があるかは軍人よりも詳しく把握している。
昼間なのに路地裏で光が届かず、真っ暗なその空き家で、私たちは息を潜めた。座り込んだ紫狐様が、私の体をぎゅっと抱え込むように抱き締める。それに身を委ねながら、彼の胸板に顔を押し付けて、荒ぶる呼吸を必死に押し殺した。ほんの少しの呼吸音で、居場所がバレてしまいそうで怖かった。
しばらくそうして、私は紫狐様の温もりに包まれながら、地獄が過ぎ去るのをただひたすら待ったのだ。




