秘密の会話
「黒馬」
行軍に出発する前のあの時、妙に真剣な表情で黒馬を呼び止めた黄鳥。彼はちらちらと横目で菖蒲のことを気にしていて、おそらく菖蒲の耳には入れたくない話をしたがっているのだと、黒馬は察した。己の名を呼ぶ先輩の元へと歩み寄る。きっと良くない話なのだろうということは、その表情から見ても一目瞭然だった。
「………軍の方で出てるきな臭い話、知ってるか」
「いえ。何ですか」
「巫女様のことだ」
勿論、そんな話は黒馬たちの元には届いていない。一体何のことかと眉を顰める黒馬に、黄鳥は続きを語る。
「まだ大きな騒ぎになる前だから聞いてないのかもしれんな」
「巫女の話………?」
「ああ。巫女の預言のことだ」
歴代の巫女が持つ、絶大な未来透視能力。この力のせいで、巫女たちは代々日本の管理下に置かれ、その血を絶やさぬように儀式が執り行われてきた。巫女たちはその命を犠牲にして日本の未来を詠み、日本はその預言通りに事を運ぶ。戦争然り、政治然り。それはこの何十年、何百年もの間、日本で当たり前として行われてきたことだった。大事な局面では、お偉いさんたちが、大事に大事に保管している巫女の預言書を引っ張り出し、そこに記されている通りにするのだ。何とも馬鹿馬鹿しい、と感じているのは、黒馬だけではない。白鹿や青兎、紫狐は勿論のこと、この目の前にいる黄鳥曹長もまた、どちらかといえば黒馬たちの考えに近かった。
しかし最近、その根本が揺らぐような大きな事件が起こったのだと、黄鳥は声を潜めて言った。
「預言が外れたと、上が大騒ぎしているようなんだ」
「預言が外れた………?」
「本当かどうかは俺たちも調べてる最中だが………。恐らく、菖蒲の母親が詠んだ預言だろうな」
そんなことは、今まで聞いたことがない話だった。巫女の預言は絶対。外れたことがないからこそ、日本はその力に絶大な信頼を置き、重要な局面で巫女の力に頼ろうとしてきたはず。だが、それが外れたとなれば、当然上層部は大騒ぎになるだろう。
「預言では、日本は外つ国と重要な条約を締結することになっていたと。しかし、実際にその交渉に出向いた外交官は、外つ国との条約締結にならぬまま帰還したという話だ」
「どういうことだ………。今までそんなことは1度も………」
「ああ。だから上は大騒ぎしてんだろ。こんな事は前代未聞だ。預言が揺らぐことは、日本の未来が揺らぐことと等しいんだからな」
巫女の力が指し示してくれていた道が、実は違ったとなれば………。日本はずっとその道標通りに歩みを進めてきたのだ。何百年も頼りにしていた道標を失い、道が分からなくなる。きっと大きな混乱を生むだろう。本来ならば、自分たちで考え歩むべきところを、日本は何百年もの間思考を放棄し、言われるがままに歩いてきただけなのだから。黒馬にとってもそのようなことは、軍に入ってから初めて聞く話であり、未だかつてない出来事であった。
巫女の預言の力が外れるなんて………、そんなことが有り得るのだろうか?
「巫女の預言が外れることがあるのか………。黒馬もそう思うだろ?」
「………!」
「果たして本当に”外れた”のか………。それとも、菖蒲の母親は、敢えて”外した”のか」
その真意は、最早誰にも分からない。菖蒲の母親は既にこの世を去っており、亡き彼女が残したのは20年先を詠んだ預言書のみ。彼女が何を想い、何を考えてその預言を残したのか。
「まあそんな感じでな………、軍内部の雲行きも怪しくなってる。もしかしたらあの子の身にも何か危害が及ぶかもしれない」
「……………」
「母親が嘘つきだという烙印を押してな」
黒馬の視線が、菖蒲に移る。二日酔いでぐったりとする隊員たちに、温かい豚汁を配る彼女の姿。こうして見ると、最初に出会った頃よりも随分と表情が明るく、柔らかくなったような気がする。母親のことは昔、会ったことのない母親だが、それでもたった1人の親なのだと、菖蒲が嘆いていたことがあった。そんな母親を侮辱するような言葉など、できる限り菖蒲本人の耳には入れたくない。それに、もしこの事で軍の連中が菖蒲に力尽くな手段に出るとするならば、絶対に防がなければならない。
柔らかく微笑むようになった彼女を、守らなければならない。彼女の儀式の相手として、市民の安寧を守る軍人として、そして、………1人の男として。
「気を付けろよ。上の連中は何をしてくるか分からんからな」
「………ご忠告ありがとうございます」
「協力できることはするから。何かあればまた連絡する」
黒馬。と最後にもう1度名前を呼ばれて、黒馬は振り返る。あの明るい黄鳥曹長が珍しく似合わない真面目な顔をして、黒馬の気持ちを再確認する。
「覚悟は決まってるんだな」
「……………」
「軍を相手にするのは、相当なことだぞ」
「………分かってます」
「………そうか」
なら、迷うなよ。
ただ一言そう告げると、黄鳥曹長はいつもの明るい笑顔を浮かべた。バシン、と黒馬の背中を叩いて喝を入れる。黄鳥は今後も軍の内部のことで進展があれば、定期的に連絡を寄越すと約束してくれた。言わば黄鳥もまた、細やかではあるが上に背いて黒馬たちと内通しようとしているのだ。それなりの危険は伴う。だが、黄鳥にとっては黒馬たちは可愛い後輩であり、放ってはおけないのだろう。そんな先輩の熱い想いに感謝しながら、黒馬は決意を新たにしていた。このことは、後で白鹿や青兎や紫狐たちにも共有しておかなければならない。
「黒馬様も、もしよかったらどうですか?」
事を知らない菖蒲が、微笑みを携えて黒馬の元へ豚汁を差し出してくる。その表情をじっと見下ろす黒馬に、菖蒲が小さく首を傾げた。どうかこの女には、何も知らずに、何にも縛られずに幸せになってほしい。そんな黒馬の想いなど知らずに、菖蒲は「………何か?」とその視線の意味を問いかけてくる。
「………いや。せっかくだし貰うわ」
「はい。熱いので、火傷しないように気を付けてくださいね」
「菖蒲がフーフーしてくれないの」
「な………、何を子供みたいなことを言ってるのですか!」
若干頬を赤く染めて、少し怒ったように豚汁を差し出す彼女が愛おしかった。
日本が、そして菖蒲を取り巻く運命が、大きく動き出そうとしている予感を、黒馬は感じ取っていた。




