行かないで
カチャカチャと、食器の音だけが響き渡る、何とも静かな夕食。まるで私たちが初めて会い、初めて食事を共にしたあの時のように。会話1つ無いその空間には、何とも言い難い、気まずい空気が流れていた。
「………なんなんだ、この葬式みてぇな空気」
「まあ………、黒馬にあんな事があったし………」
ヒソヒソと声を顰めて話しているつもりの紫狐様と青兎様だろうが、こんなに静かだとそれも筒抜けだった。私は隣にいる黒馬様をチラリと横目で見つめる。相変わらず何を考えているのか分からないその表情からは、読めるものなど無かった。
加えて、この空気を作っているもう1つの原因………、白鹿様も様子がおかしかった。民宿の前で投下した、爆弾発言の後、彼は口数少なくここまで戻って来た。当然ながら、黒馬様と白鹿様の間にも会話は無い。特に言い合いや殴り合いの喧嘩をした訳でもないのに、今の2人は油と水といった様子で、お互い反発し合っているように感じた。
(どうしてこんなことに………)
白鹿様の様子も気になるが、やはり今は黒馬様のことが心配だ。黒馬様のお父様は、結局こちらの言い分には聞く耳持たず、意見を変える事なく帰ってしまった。みんなの話によれば、数日でまたここに戻ってくるのではないか、という事だ。
「黒馬大佐はこの数日で、確実に行動を起こすと思う。次に来た時に説得できなければ………、黒馬はそのまま連れて行かれるだろうね」
「………………」
青兎様による冷静な言葉に、みんなはそれぞれ視線を落とす。次黒馬大佐がここへ訪れる時は、己の息子を連れ戻そうとする時だ。そうなってしまえば、こちらに拒否権はない。何としても、大佐を説得しなければならない。しかし、大佐のあの様子を思い出せば出すほど、簡単に説得できるのか、という不安が込み上げてくる。あの人が納得できるような理由を、たった数日で私たちに用意できるのだろうか。
「………別にいいんじゃない?」
無言になった空間を破ったのは、久々に口を開いた白鹿様だった。顔を上げた4人の視線を浴びながら、白鹿様は黒馬様を真っ直ぐ見つめている。
「黒馬がいなくても僕たち3人がいれば、儀式はなんの問題もなく進む。軍にとっても大した問題じゃない」
「白鹿様………!」
「なのに黒馬はどうして戻りたくないの?」
私の制止も聞かず、またしても白鹿様は、黒馬様がこの儀式から離れて軍に戻ってもいいというような言葉を吐いた。言われてみれば確かに、正直ここで黒馬様が軍に戻っても、何か支障がある訳ではない。軍にとっても、まだ相手役が3人残っているから何も問題ではないし、元々はこの儀式に乗り気ではなかった黒馬様だ。ここに絶対に残らなければならないという理由は無かった。
「………俺は………」
「何か特別な感情でもある訳?」
「………………」
白鹿様は、黒馬様の腹の底を探っていた。黒馬様に、何かを言わせようとしている。………そんな気がした。
黒馬様は、父親に軍に連れ戻すと言われた時、珍しく感情的になりながらはっきりと拒絶していた。俺はここに残る、と気持ちを露わにしていた。それは、何故なのか。何故、黒馬様はここに残りたいのか。
白鹿様に向けられていた、黒馬様の切長の目が、ゆっくりと私を見つめる。
「黒馬、様………?」
「俺は…………」
黒馬様が、何か胸の内を吐き出そうとした瞬間。わざとなのか、偶々なのか、青兎様が言わせないとでもいうかのように、急にパン!と手を叩いた。緊張した空気が和らぎ、宥めるように青兎様が笑う。
「まあまあ。黒馬も白鹿も、それくらいにして。ご飯冷めちゃうし、食べようよ」
「………………」
「………………」
「ちなみに俺は、黒馬の意思を尊重したいよ。黒馬がここに残りたいのなら、俺はそれを手助けする。一緒に黒馬大佐を説得する方法を考えよう」
「俺も同感だな。儀式には問題ないとはいえ、急に1人減んのは違和感あるし」
「お。紫狐、やっと俺の有り難みが分かったか」
「………やっぱ連れ戻してもらうか」
いつもの調子に戻る、黒馬様と青兎様と紫狐様。やはり青兎様はよく周りを見ているというか、空気を読んでいるというか。恐らく、あの瞬間に口を挟んだのは、黒馬様が言いかけていた何かを言わせない為なのだろう。何を言いかけていたのかは、私には検討がつかないが。
軽口を叩き合う3人を見守りながら、私も途中だった食事を口に運ぶ。唯一、いつもの輪に入らないままの白鹿様をチラリと盗み見すると、彼はまだ何かを考え込むように一点を見つめていた。
「黒馬様」
「んー?」
「まだ起きてらっしゃいますか」
「もう寝てまーす」
「………起きてるじゃないですか」
夕飯もお風呂も済ませて、もう寝るだけだという状態になった後、私はひっそりと黒馬様の自室を訪ねていた。どうしても心配で、何となく寝る前に声を聞きたかったのだ。扉越しに控え目に声を掛けると、いつものような間延びした声が返ってきて、少しホッとする。
「お前な、こんな時間に男の部屋にノコノコ来たんじゃねぇよ」
「だって、黒馬様は私を抱いたりしないのでしょう?」
「あれ、俺もしかして舐められてる?」
なんだかんだ言いつつも、黒馬様は襖を開けて、私を中へと招き入れてくれた。まあ確かに彼の言う通り、嫁入り前の女が、こんな時間に気軽に男性の部屋を訪ねるなどあまり良いことではないかもしれないが、いつもそうしている訳じゃないし、今日はちゃんと理由があったのだから大丈夫だ、と自分の中で正当化する。それに、初めて黒馬様と出会った時、同じようにこうして部屋を訪れて、抱いてくださいと頼んだら、断固として拒否してきたような人だ。何か間違いが起こることはないと信用している。
「私のことを抱きたくないと拒んだのは、黒馬様の方じゃないですか」
「あの時はな。けど今は全然抱けるって言ったら?」
「背負い投げします」
「そりゃおっかねぇな」
クックッと喉を鳴らして笑う黒馬様が、いつもよりもいつも通りで、何だか安心してしまう。それと同時に、黒馬様とのこういった何気無い会話も、当たり前じゃないことを思い出す。もしかしたら私は、黒馬様と永遠の別れになってしまうかもしれない危機が、まだ残っているのだ。
「………何泣きそうな顔してんだよ」
「えっ………?」
言われて初めて気付く、自分の酷い表情に、慌てて手で頰を覆った。私、今すごく悲しいんだ。当たり前になりつつあった黒馬様との日常が、無くなってしまいそうで。
「………私、黒馬様に行って欲しくありません」
「菖蒲………」
「ここにいて欲しいです」
それが、私の正直な思い。包み隠さず黒馬様にぶつけると、黒馬様も流石に面食らったように驚いた表情を浮かべていた。私にこんな事を言われるとは思っていなかったのだろうか。
「確かに、白鹿様が言うように………、黒馬様がいなくとも儀式は何の問題もないかもしれません。黒馬様のお父様を説得できるような、大層な理由もありません」
「……………」
「私は、ただ黒馬様とお別れしたくない。ただ………、それだけなんです………」
ただの、私の我儘。ただの私の気持ちだ。だけど、黒馬様を連れ戻すと言われて、どんなにそれっぽい理由を言われても、はい分かりましたと簡単に納得できるほど、私は聞き分けの良い女じゃなかった。黒馬様と過ごしたこの短い月日は、もうとっくに私の中で、大事な大事な思い出………、存在になってしまっているのだ。
「行かないで、黒馬様」
「………………」
私の想いは、こちらを静かに見つめる黒馬様の心に、確かに届いていた。そして黒馬様は何故か、私の腕を掴んだかと思うと、優しく流れるように、その場に押し倒したのだ。




