何だか変な空気になりかけました
「っ………!」
「ご、ごめんなさい。痛みましたか?」
目の前で顔を歪めた紫狐様を見て、私は咄嗟に彼の頬に当てていた布を離した。申し訳なさそうな私に、紫狐様は「いや」と否定を口にする。彼の頬は赤く腫れ、口の端は切れて血が滲んでしまっていた。
もうすぐ巫女神楽の奉納が迫っているというのに、未だにその準備には取り掛からず、私は御堂の中で紫狐様の手当てをしていた。先程現れた、黒馬様たちの上司である赤熊様との一悶着のせいである。立場を顧みず、赤熊様に反抗してみせた紫狐様は、見ての通り。その痛々しい傷にこちらも心が痛くなるが、黒馬様曰く、赤熊大佐に歯向かった結果が1発殴られたぐらいなら、むしろ幸運なくらいらしい。本来、軍にいた時だったら、もっと手酷くやられていたか、最悪無職になっていただろう、と。
紫狐様にそんな事をさせてしまった責任は、私にもある。彼は、赤熊様に責め立てられた私を助けてくれたのだ。………あんなにも私に嫌悪感を抱いていた、あの彼が。
「どうしてこんな無茶なことを………」
疑問は、思わず私の口から溢れ落ちる。彼ら4人の中で、1番私に対して冷たかったのが、紫狐様だった。だから、紫狐様の今回の行動については、驚きと疑問を隠せなかった。紫狐様は大人しく私の手当てを受けながらも、重たい口を開く様に語り出した。
「………赤熊の話を聞いただろ」
「え?」
「俺の………両親の話だ」
言われて思い返す。紫狐様の両親は、赤熊様に言わせると随分なお人好しで、そこに付け込んだ友達に騙されて多額の借金を背負い、とても苦労なされたと、確かそういった話だっただろうか。そして紫狐様は、そんな両親を助けるためにも、軍に入って一生懸命働いているのだとか。
「はい………。ご両親には、大変な事情があったのですね」
「………別に気を遣わなくたっていい。馬鹿なヤツだって思っただろ」
「そんな…………」
「俺は思ったよ。自分の親ながら、とんだ間抜けで馬鹿な奴だって」
普通の人なら気付くし、借金の肩代わりなんかしない。幾ら大切な友人だろうと、多額の借金を代わりに返してやろうだなんて思う人はいない。………紫狐様は、そうはっきりと吐き捨てた。
「だから俺はそんな親が大っ嫌いだった。お人好しなんて、ただ人の頼み事を断れないだけの心の弱い臆病者なんだって」
「紫狐様………」
「お前と最初に会った時、そんな俺の母親に似てる様な気がしたんだ」
世継ぎの儀式なんて馬鹿げた風習にも言いなりで、町の人に何を言われても言い返さない。何をされてもされるがまま。なのに何か依頼があれば手助けしてやって、良い様に利用されているだけ。それが紫狐様は気に食わなかったらしい。だから普段から私に対してどこか近寄り難い雰囲気を出したり、刺々しい態度だったりした訳か。
「けど………、違った。菖蒲を見てる内に、そうじゃないって」
「……………」
「霞が攫われそうになった時、自分の身を挺して守ろうとした。霞から散々嫌がらせを受けてたのに、そんな霞を許して、友達になった。生活していくのが厳しい町の人には手を差し伸べるし、女の癖に柄の悪い男連中なんて簡単に返り討ちにするし。………それは、町の人たちの頼みを断れないんじゃなくて、お前がそうしたいって考えてやってる事なんだって。お前は、お前を嫌う町の人たちを、本当に心から助けたいと思ってる。こんなクソみてぇな町の連中の為にここまでできるお前は………、臆病者なんかじゃなくて………」
………強い女だって感じたんだ。
その言葉は、私の心の中にスッと入り込んで、じんわりと温かい気持ちにしてくれた。正直者で素直な紫狐様の言葉だからこそ、それは嘘偽りのお世辞ではなく、本心からそう思ってくれているのだと伝わってくる。私のことをこんな風に思ってくれる人が、今までにいただろうか。町の人たちの為にと思う一方で、みんなには理解されず、むしろ嫌われていくばかり。誰にも見てもらえない、分かってもらえない、ずっと孤独なのだと、そう思っていたから。
「………嬉しい………」
「…………!」
「紫狐様にそう言って貰えて、本当に嬉しい」
私を見る紫狐様が驚いた様に目を見開いているのは、私がまた珍しく笑っているから、だろうか。上手く笑えているかは分からないが、自分なりにこの気持ちを率直に表しているつもりだ。ぎゅっと胸元で手を握り締めて、温かくなった気持ちを噛み締めていると、紫子様の骨張った男の手が、唐突に私の頬に添えられた。
「え………?」
「菖蒲…………」
え、え、なに?と状況を飲み込めないまま、紫狐様は何故か私を真っ直ぐ見つめて名前を囁き、急に顔を近付けてきた。「し、しこさま………!?な、なな」と慌てふためく私など知らん振りで、彼は止まることなく顔を近付けてくる。ゆっくりと傾けられた、紫狐様の端正な顔は、吐息が掛かりそうな程の至近距離まで近付いていた。
(こ、これって…………!)
まさか、そんな。あの紫狐様が?私に?頭の処理が追い付かない内にも、私たちの唇は、影は、1つに…………。
「熱いところ申し訳ないんですが」
「「!!!!!!」」
「俺らもいること忘れてない?」
1つになる………前に、割って入ってきた黒馬様によって、私と紫狐様は我に返った。じっとりとした目で私たちを見下ろす、3人分の目。すっかり紫狐様との2人の世界に入っていて、彼らの存在を忘れていた。ついでに、巫女神楽の奉納のことも忘れていた。
「わ、私、巫女神楽の準備をして参る!!!」
「口調どうした?」
黒馬様の言葉も碌に聞かずに、逃げる様に飛び出した私を、3人の視線が突き刺す。そしてそこに残された紫狐様は、居心地が悪そうに咳払いを1つ落とすと、黒馬様たちに背を向けて胡座をかいた。その背中は、「何も言うな何も聞くな」と言わんばかりのようだ。しかし当然、黒馬様たちが黙っている訳がなく。
「何、惚れた?」
「………うるせぇ、何も聞くな」
「案外ちょろいもんだね、紫狐も」
「何も言うな!!!」
「でも………、気を付けてね紫狐」
聞く耳持たずの紫狐様に、青兎様が神妙な面持ちで話しかける。
「今回の件もそうだけど、儀式の相手である巫女様に個人的な感情を抱いたら………儀式の任を下される。説明されたよね?」
「……………」
「今回のことも………。1発殴られただけで済んだのは、ただ幸運だっただけだよ。無茶しないで」
「………、分かってる」
巫女である私と同じ様に、彼らは立場に縛られ、規則に縛られ、それぞれが複雑な事情を背負い込んでいるのだ。




