紫狐という男
紫狐様は、とても素直な方だった。何度も言っているかもしれないが、彼は思っていることがすぐ顔に出る。いや、顔に出るどころじゃない。そのまま口に出る。
「俺はお前との儀式なんて絶対にやらない。上の命令が無かったら、こんな所来てなかった」
初めて会った時、確かそう紫狐様に言われたことを覚えている。言われずとも、彼が私に対して良い印象を抱いていないことは明白だった。睨むようにこちらを見る瞳。口から出る悪態。それは、その1回だけに限らず、しばらくは顔を合わせる度に舌打ちすら出てきそうな程の態度だった。そしていつもそれを青兎様が「ごめんね」と謝る。それが、お決まりの流れ。
私は、そんな彼が嫌いではなかった。これだけ嫌なことを言われたら、普通は近寄りがたいとか、嫌な気持ちになるかもしれない。が、嫌なことを言われるのは慣れている。それに、何を考えているのか分かりづらい他3人よりも、これだけ素直に感情を表に出してくれている人の方が、何となく楽だった。本心を探らずに済むから。
それに紫狐様は、私を突っぱねるような事を言いながらも、実際に私のことを突き放したことは無かった。彼はただ不器用なだけなのだ。本当は優しくて、素直なのに素直になれない、本当に本当に不器用な人。
「なんで嫌がらせしてくるヤツらを助けたりなんかするんだよ」
いつの日か、そう紫狐様に聞かれたことがある。その時は確か、体を悪くして思う様に働けない老夫婦の元へ、食べ物を恵みに家を訪ねた時だったか。それは特に依頼でもなんでもなく、完全に私の自己満による勝手な行為だった。たまたまその時暇だった紫狐様が、用心棒も兼ねてついてきてくれた時に、聞かれた質問だ。
「ああ、巫女様………。いつもありがとうございます………」
「働けない私たちの為に………」
こうした行為は今回が初めてではなく、玄関先から出てきた老夫婦が私に手を合わせて頭を下げた。町の人たちは私のことを嫌っているが、この老夫婦は私を嫌ったり、悪く言ったりせずにこうしてお礼を言ってくれる。それが私にとっても嬉しくて、この町での数少ない私の交流であったのだ。
「困っている人がいたら助けるのが人です。そこに人種や、立場は関係ありません」
「……………」
紫狐様は、私の言葉を、そして、私とその老夫婦のやり取りをただ黙って見つめていた。その表情は、何かを思い出しているかのような、遠い過去に意識を馳せているような、そんな風にも見えた。
紫狐様はあの時、何を考えていたのだろうか。
「手を離せ、紫狐。貴様、自分が今している事の意味が分かっているのか」
「………分かってます。分かった上で、やめろと言っているんです」
少し冷静さを取り戻した紫狐様が、ただ静かに、赤熊様の目を見つめる。その手はしっかりと赤熊様の腕を掴み、ぎりぎりと骨が軋むような音を立てている。黒馬様たちは、以前自分たちのことを軍では下っ端だと言っていた。それが、上官に歯向かっている。それがどういう事なのか、私にだって分かる。もしかしたら紫狐様の軍での立場が危うくなるかもしれない。そんな危険性を理解していながら、何故。
『俺はお前との儀式なんて絶対にやらない。上の命令が無かったら、こんな所来てなかった』
上の命令に逆らえずにここへやって来た彼が、今は目の前の上官に逆らっている。私は赤熊様に胸倉を掴まれたままで、紫狐様に訴えかけた。
「な、なんで………、紫狐様………」
「困っている人がいたら助けるのは当たり前だろ。そこに人種や、立場は関係ねえ」
泣きそうな私を真っ直ぐ見てそう言った紫狐様の言葉は、かつて私が彼に言った言葉そのままだった。紫狐様は、私の為に………。嫌いだった筈の私の為に、自分の立場を捨てて赤熊様に逆らっているのだ。
「そうか。お前は軍にいた頃から生意気だと聞いていたが、なるほど、周りが手を焼くのも頷ける」
赤熊様がそう言いながら、ようやく私の胸元から手を離した。意識は完全に紫狐様へと向いていて、その大きな体で彼の前に立ちふさがった。そして次の瞬間には、容赦なく拳を振り上げ、紫狐様の頬を殴り飛ばした。紫狐様もそれを交わそうとはせず、甘んじて受け入れ、体ごと吹き飛ばされた。大きな音を立てながら壁に背中を打ち付け、傍にいた白鹿様が慌てて紫狐様に駆け寄る。私も乱れた胸元を直すことも忘れて、急いで紫狐様の傍へ走った。殴られた左頬は真っ赤に染まっている。きっと口内も切って流血している筈だ。急いで手当てをしなければ。
「大佐、やめてください。暴力沙汰など」
「郷に入れば郷に従えという言葉があるだろう。それが社会というものだ。綺麗事だけでは食ってはいけない。生き残れない」
「……………」
「それはお前自身がよく分かっているだろう?紫狐」
止める為に間に入る黒馬様も無視して、赤熊様は怒り心頭といった様子で紫狐様を見下ろす。赤熊様のその言葉の意味は私には分からなかったが、紫狐様には心当たりがあるようで、まさに売り言葉に買い言葉といった様子で鋭く睨み付け、倒れ込んだ体を起こそうとして白鹿様に抑え込まれる。赤熊様は意図的に、紫狐様の神経を逆なでするような言葉を選んで発していた。
「確かお前の両親は………。相当なお人好しだったな。困っている人を放っておけないとは。立派な志だ」
「やめろ………」
「借金苦で困り果てた友人も救ってあげたそうじゃないか。自分たちが借金地獄に陥るというのに」
「やめろ………っ」
「そんな両親の借金を助ける為に軍に入り、更に今回の世継ぎの儀式にも選ばれた。儀式を成功させれば、国から、軍から大量の報酬を貰える。きっと両親を助けてあげられるだろうな」
「やめろ………!!!」
初めて聞く、紫狐様の話。私が驚いたように紫狐様を見下ろす。彼は震える声で、それ以上は言うなと静かに、必死に上官に訴えかけていた。その様子を見るに、紫狐様にとっては言われたくない話で、思い出したくない出来事なのだろう。しかし赤熊大佐にはそんな事関係ない。いや、むしろ紫狐様がそうやって嫌がっている様子を見ながら楽しんでいるようにも見えた。
「お前もそんな両親の血をしっかりと引いているようだな。たかが儀式の為に一時的に生活を共にしている嫌われ者の巫女の為に、上官に逆らうなど。ご両親もそんなお前を見たらさぞお喜びになるだろう。私の息子は立派に育ったと」
「やめろ!!!」
声を荒げて今にも殴りかかりそうな紫狐様を、白鹿様と青兎様が必死に止めた。これ以上の暴力騒ぎは無益だ。それに、紫狐様が赤熊大佐に対して更に無礼を働けば、本格的に彼の立場やその後の待遇、処罰が厳しくなる。黒馬様たちも仲間を守るべく、何とかこの場を鎮めようと間に入っているのだろう。しかし赤熊様に対する気持ちは、皆同じ。怒りと、嫌悪感。そしてこの私も………。赤熊様とは先程初めて出会ったばかりで、軍のことなど何も知らない素人でありながらも、『この人は敵だ』という認識を抱いていた。少なくとも部下思いだったのなら、こんな事をはしないし、言わない。彼らにとっていい上司、という訳ではなさそうだ。上司に会うのに浮かない様子だった黒馬様たちの姿が、今になってようやく理解できる。
「お止めください、赤熊様」
「………巫女様。貴女も私に逆らうおつもりで?」
「私は軍人ではありません。貴方は私の上司でもなんでもない。遠慮する必要がどこにありますか?」
「…………」
紫狐様の前に立ちふさがる私は、もう何も恐怖心など無かった。立場上、紫狐様たちが手出しできないのなら、それこそ私が適任ではないか。先程は力によって屈してしまったが、私が感じた気持ちと、紫狐様が抱いている気持ちをぶつけるくらいはできる。
「自分を助けてくれた男を守ろうとしているのですか。女でありながらなんて健気で美しく、青臭くて甘い考えなのでしょう」
「今日はお帰り下さい、赤熊様。こうなってしまっては、巫女神楽の奉納の妨げにもなります。様子を偵察するという目的ならば、もう十分果たした筈でしょう」
「客人を突き返すとはなんて無礼な。しかも国の為に働く軍人に対し………、」
「関係ありません」
言葉を遮ってスパンと言い切った私に、赤熊様も押し黙った。返す言葉が無くなったその男に、私は好機と言わんばかりに言葉を続ける。
「国だの軍だの、そんなのは関係ありません。この町の巫女は私です。巫女は町の平穏を守る務めがある。そして今日はその大事な役目である、巫女神楽の奉納の日です。大切な役目を邪魔するものは排除するのが、私の責務なのです」
「…………」
「お帰り下さい」
シン、と静まり返るその部屋では、黒馬様も、白鹿様も、青兎様も、そして紫狐様も。私の言葉に同意し従うように、ただ黙って赤熊様を見つめていた。こちらの総意であることを悟った赤熊大佐も、それ以上は何も言えなくなったのか、黙ってぐっと奥歯を噛みしめていた。それは、沸き上がる怒りを必死に抑えている行為であった。
「………そうですね。久々に可愛い部下たちの顔を見れた訳ですし、ここは巫女様に従って大人しく帰るとしましょう」
踵を返し、部屋から出ていこうとする赤熊様の大きな背中を見つめる。彼は部屋を出る間際、最後にこちらを振り返ると、しっかりと釘を刺すように言い残した。
「お前たち。自分の務めを忘れず、その責務をしっかりと果たすように。余計な感情に翻弄されるようなことがあれば………」
―――軍には血の気の多い若い奴らはいっぱいいる。いくらでも替えは効くぞ。
そして古く脆い木製の戸は、壊れてしまうのではないかという勢いで思い切り閉められたのだった。




