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最終話

岳人視点。

 6年の大学生活というのは、予想していたよりもずっと長くてつらいものだった。三年生あたりになって他学部にできた友人や、東京に出ていた高校自体の友人と食事に出かけると、決まって進路のことが話題に出た。僕だって、進路のことを考えていないわけじゃなった。けれど講義や実習、バイトに忙殺されるばかりで、余裕がなかったのだ。

 いつも、置いていかれているような気持になった。同級生たちの多くが社会に出た大学生活5年目には、僕はくじけそうになっていた。それでも、学ぶことをやめはしなかった。

 その勉強は惰性だったかもしれない。これまでの時間を無為にしたくないという、そんな後ろ向きな考えだったかもしれない。

 コンコルドの誤りにならなかったのは、ひとえに僕を支えてくれた恋人の存在があったからだ。

 大学に入ってから知り合った、同学部同学科の女性。同じ道に向かって歩き、互いのつらさを理解できる相手だった。

 慰めあい、励ましあい、僕たちは二人三脚で日々を歩いて行った。

 順調だった。国家試験を突破し、研修医になって、彼女との時間が空いていった。大学時代から使っているアパートで一人、孤独に夜を過ごすことが増えた。医者として本腰を入れて働くようになれば、それはますます顕著になった。

 入れ替わりで週直が入り、一か月も合わない日々が過ぎることもあった。

 その日は、およそ一週間ぶりに二人ともの空いた時間が重なった。どこかに出かけようかと、そんなことを考えながら、僕は徹夜明けで曇った脳で体に命令を下して家へと向かった。冬の寒さが残る、早朝の空気はひどく冷たかった。吸い込む空気の冷気が僕の眠気を吹き飛ばす。近くを、学生服を着た高校生らしき人影が歩き去っていく。そういえば、そろそろ国公立大学の二次試験くらいの次期だろうか。

 自宅では、彼女が大掃除に励んでいた。汚かったはずの家はきっちりと整理され、きれいに整っていた。

「あ、お帰り」

「ただいま」

 軽く抱き合い、それから風呂に行けと背中を蹴られた。臭うらしい。

 その間に、彼女は掃除に戻る。

 汗を流し、着替えを済ませてさっぱりした僕は、猛烈な眠気を吹き飛ばすべく頬を叩いてから腕をまくった。

「あれ、手伝ってくれるの?なら処分に困るあれを何とかしてくれる?」

 あれ?思い当たる節がなくて、僕は言われるままベランダへと向かった。狭いそこには、縛られた雑紙や段ボールが仮置きされていて、その一角にそれはあった。

 新聞紙の上に広げられた土と、ひっくり返された植木鉢。ずっと生活の片隅にあったそれは何だったかと、僕は記憶を探る。眠気が思考を曇らせる。

 ……あれ、この植木鉢には、何かが植わっていなかっただろうか。何か、何?

 ――秘密。

 声が聞こえた。人差し指を口に当て、上目遣いで僕を見る少女。彼女は――

 立ち上がる。眠気のせいか貧血のせいか、ぐらりと体が揺れた。窓ガラスに手を当てて、掃除中の彼女の姿を探す。

「ねぇ、あの花はどこにある!?」

「花?……ああ、あれならそこのゴミ箱だけだ」

 吐き捨てるように告げた彼女が指差した先に、僕は走った。ゴミ箱の蓋を開ける。紙屑やプラスチック製品でそれの姿は見えない。

 苛立ち交じりに、ゴミ箱をひっくり返す。そうしなければいけないという強い感情が僕を突き動かしていた。

「ちょっと、何してるの!?」

 彼女の声は、僕を止められなかった。床に散らかったゴミの中から、僕は目的のものを探す。花を、ずっとあの植木鉢に植わって、雨ざらしの中で耐え忍んでいた強い花を探す。

「あった……!」

 達成感と同時に、電撃が走ったように脳に彼女の顔が鮮明に浮かんだ。

 笑う彼女、怒る彼女、泣く彼女。ずっと、僕の隣に彼女はいた。それを当然のように僕は享受していた。けれど、僕たちの道は別れた。それは必然で、そして僕は会えない辛さから目をそらすために、彼女の記憶を封じ込めた。

 茎が折れて無残な姿を探す植物を両手で抱いて、鉢植えに戻す。もう一度、咲いてくれるだろうか。ちゃんと、花を咲かせてくれるだろうか。

 そういえば、僕はいまだに、ただの一度もこの花が咲くところを見た気がしない。咲いて、いたのだろうか。

「……ねぇ、あなたにとってその花は何なの?」

「………………望郷の花、かな」

 そう、これは僕に故郷を思い出させる花だった。過去を、生まれ育った街を思い出させるものだった。封じ込めた大切な記憶の中、けれどどうしても捨てられなかった秘密の塊。

「……そっか。ねぇ、私たち、別れましょうか」

 その言葉は、ひどく淡々としたものだった。大学時代から付き合い初めて、もう十年近い彼女は、そうしてあっさりと別れ話を切り出した。僕はただ、呆然と彼女を見上げるばかりだった。

 当然だ、僕には何を主張する権利もなかったから。

「……わかった」

 その返事と同時に、彼女はさっそうと踵を返した。

「後で荷物は送らせてもらうわ。ここはあなたの城。私はもう、ここの住人じゃないの」

 その背中が、玄関扉の向こうに消える。パンプスが廊下を打ち鳴らす軽やかな音は、止まることを知らなかった。

 僕はただ、土まみれの手を宙ぶらりんにしたまま、ベランダで途方に暮れていた。


 彼女は、元から僕と別れるつもりだったらしい。大学時代の友人が、のちに教えてくれた。僕の中に、彼女ではない大きな存在がいることを、彼女は理解していた。それでも、これまでともに歩いた苦難の道が、彼女を縛っていた。けれど、少しずつ心は離れていた。

 あの日、彼女は別居の準備をしていたらしい。少し距離を開けて人生を見つめ直す、そんな期間が必要だと考えてのことだったらしい。

 けれど、そんな猶予期間は必要なかった。彼女は翌日には僕の部屋にあった梱包済みの荷物をすべて新たな家へと運んでいき、僕は一人になった。

 静かな、静かな日々が始まった。

 東京という街に一人で放り出された僕は、淡々と日々を生きた。仕事の時だけは切り替えることができたけれど、あとはだめだった。

 部屋の中に居れば、ろくでなしと頭でささやく声がした。それは別れた彼女の声であり、僕の声であり、そして幼馴染の声でもあった。

 狂いそうになるそんな生活の中、けれど僕が狂わずにいられたのは、あの秘密の花の存在があったからだった。

 枯らすまいと手を尽くした。葉の形から必死にその正体を見極めて育て方を調べようとした。

 一か月が経って、花は枯れずにいた。折れた茎の先こそだめだったけれど、その下の部分はかろうじて生き残った。その花を守ることだけが、僕の生きがいだった。

 一年が経って、新芽を芽吹かせるそれは、けれど花を咲かせることはなかった。スマホのトークアプリを開き、彼女の連絡先を探す。その会話履歴は、大学二年で途切れていた。一方的な通信途絶。こちらを心配するような会話文が、既読をつけずとも確認することができた。

 震える指を伸ばし、けれどその指が画面に触れることはなかった。

 彼女に会いに行ってはいけない。こんな情けない姿をさらすわけにはいかない。

 今彼女に会うのは不誠実だ。たとえ彼女が許しても、僕が許さない。

 それに、彼女はきっと、僕のいない日々を順風満帆に生きている。彼女はそういう人だ。不思議な力を持っていて、気付けば多くの人を輪の中に引きこんでいた。明るく楽しい人で、けれどかといってバカというわけではない。むしろ非常に頭の回る人で、こと思考の柔軟さで勝負しようものなら僕は決して勝つことができなかった。なぞなぞも雑学クイズも、直感問題も、僕はすべてにおいて彼女に敗北した。ただ、学校の勉強だけは負けまいと必死になった。机にかじりついてペンを動かした。

 そうだ。僕の学びは、いつだって彼女が原動力だったのだ。彼女に負けたくない、少しは並び立っていたい。彼女に尊敬の視線を向けてほしい。劣等感なく彼女とかかわりたい。彼女に、負けたくない。

 そうして、僕は必死に勉強した。中学生から始まった定期テストは、僕にとって良い関門だった。彼女に勝たないといけない、そう奮起して一層勉学に励んだ。負けても、次こそは勝つと己を鼓舞した。

 そうして、中学、高校生活は鮮烈に過ぎていった。

「会いたい」

 寒空を見上げながらつぶやく。その声に答えるように、真っ白な雪が舞い落ちる。吐く息はとうの昔に白く染まっていた。

 最近不調な体がきしむ。寒さのせいか、やけに体が重い。

 会いたい――今度は口の中でつぶやく。けれど、会えない。会いたくない。

 だって、もし彼女が幸せになっていたら?家庭を築いていたら?子どもがいたら?僕はどんな顔をすればいい?どんな顔ができる?

 きっと、笑って心から祝福するなんてできやしない。そんなの、無理だ。

 彼女にとって、きっと僕はもう過去の男だ。けれど僕の中で、彼女との時間は止まって動いていない。

 会いたい、会えない。会いたい、会いたくない。

 ぐるぐると思考が巡る。年末の近づきを気付かせるクリスマスソングが店から静かに流れていた。


 年末年始が過ぎる。病院は、たいして何も変わらない。せいぜい、聞こえてくる同僚の話に、祝福を口にするような出来事があるくらいだ。

 年が明ける。その日はもう雪が降り続けて三日になった。2月。テレビでは大学受験について報道していた。もうそんな時期になったらしい。

 かつての緊張感を思い出した。絶対に受かってやる、そんな意気込みはもうはるか遠い。

 寒いぼろアパートの中で素早く着替えを済ませる。彼女と八年ほどを共にしたアパートからは引っ越した。あそこには、思い出が多すぎた。

 新しいアパートは、前にもましてぼろぼろだった。耐震性が疑わしいそこは、けれど少しだけ僕の無聊を慰めた。

 コートを掻き抱いて買い物に出かける。近くのスーパーによって食料品を買い込み、重い荷物を提げる。肩に食い込んだ鞄の持ち手が痛かった。

 重い足取りで帰路を行く。気付けば、時折隣に視線を向けていた。そこには当然、僕が探している人影はありはしない。知っている顔もない。

 時折僕を見上げては慌てて顔をそらしていた彼女は、もう僕の隣にはいない。

 板が抜けそうなさび付いた金属製の階段を上る。ようやく目が覚めてきて、少し部屋の中の空気を入れ替えるかと、ベランダに続く窓を開いて。

 ふと、雪に飲まれた植木鉢に目が留まった。ここ一週間ほど見ていなかったことを思い出して、慌ててそこに手を伸ばして。

 そこまで顔を近づけてようやく、僕はどうして雪に埋もれたその花に目が留まったのか、そのわけに気付いた。

 降り積もった雪の中、小さな青色が顔をのぞかせていた。丸いそれは、つぼみ。そっと、枝葉と土に降り積もった雪を取り除く。小さなつぼみが数個ついていた。

 胸に寒気が満ちた。青い、花。春というよりは、初春、あるいは晩冬に咲く花。条件はそろって、けれどスマホで検索してもそれらしいものが見つからない。

 植木鉢を手に、僕は街に走り出していた。

「……ミスミソウですね」

 花屋の男性店員は、少し悩んでから確信を込めて告げた。ミスミソウ、知らない花だった。

「あるいは、雪割草と呼んでもいいですね。ただ、本来は別にユキワリソウがあるので、これは漢字で雪を割る草と書くんです。春を告げる花の一つですよ」

 そんなに大切なのですね、とどこか笑いを込めた声で店員が告げる。確かに、今になって写真を撮って持ってくればよかったという後悔があった。けれど僕はそれどころではなかった。

 雪を割る草。ユキ――なるほど、これを彼女が、優希が選んだのはその音の響きからだろうか。

 大事に植木鉢を抱えながら帰路を行く。そうとうテンパっていたらしく、一時間もかかる道のりを徒歩で来たことに驚愕した。よく滑って転ばなかったものだと思う。

「雪割草、『雪の下で耐え忍び、春に花を咲かせる』……雪の下で、耐え忍ぶ?」

 少しだけ、ほんの少しだけ、これを僕に送った時の優希の気持ちが分かる気がした。

 今は忍ぶ時だと、彼女はそう思ったんじゃないだろうか。大学生活で、僕たちは離れ離れになることが決まっていた。夢があって、そのために勉強をしないといけなかった。

 だから、忍んだ。耐えた。彼女が僕をどう思っていたのかはわからない。少なくとも友人……親友ではあっただろう。でも僕は今、それ以上を望んでいた。

 長く交友の途絶えていた、僕が途絶えさせてしまっていた「幼馴染」という関係でもなく、その先、二人並んで歩く道を行きたかった。

 アパートに帰る。ポストに入っていた手紙を取り出し、何とはなしにそれに目を通す。

 思わず、思考が留まった。植木鉢を、雪割草を落とさないように必死に片手で抱きしめなさが、僕はその手紙に目を通す。

 同窓会の知らせ。時期は三月半ば。頭の中で手帳を広げる。その日は開いている。

 これまで、同窓会の知らせは無視してきた。無意識のうちに彼女との再会を拒んでいた。けれど前に進まないといけない。たとえ彼女が幸せを手に入れていたとしても、会いに行かないといけない。

 悲しくてつらくて、きっと人目を忍んで泣くだろうけれど、それでも彼女が幸せなら祝福しよう。


 あと、一か月。それまでには、雪割草は咲いているだろうか。これは、彼女とのつながりであり、課題だ。彼女は多分、僕の答えを待っている。雪割草に込めた秘密が、僕の口からもたらされることを待っている。

 さぁ、答え合わせをしに行こう。雪割草を、その押し花でも手にもって、彼女に会いに行くんだ。雪の下で耐え忍んだ彼女に会いに。

 ――あなたを信じます、そんな花言葉に応えるために。


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