第六話
優希視点。
インターホンが連打される。どこか焦りを感じさせるそんなことをする相手を、私は一人しか知らない。それに、私もそんな気持ちだった。すぐに電話をしたくて、でも相手がもしも落ちていたらとためらって、リビングをぐるぐるしていた。おかげでお母さんに笑われてしまった。さすがに三日目ともなれば少しは落ち着いていたけれど、貧乏ゆすりをやめた立ち上がった私は、気付けば玄関に向かって駆け出していた。
靴を履くのがまどろっこしくて、スリッパにつま先をかけて扉に手をかける。
まばゆい光が視界に差し込み、その奥で岳人が笑う気配を感じた。
「受かったよ」
「私も」
互いに手を伸ばし、ハイタッチを交わす。私たちは二人ともが第一志望の学校に受かった。感動に涙がにじんだ。そっと目じりをぬぐいながら見れば、瞳が潤んでいるのは岳人も同じだった。
「優希のおかげだよ。優希との勝負が、僕をここまで連れてきてくれた」
「そんなことないよ。岳人の努力のおかげだよ。岳人は私との勝負がなくたって、私がいなくたって、一人で同じところまで歩いてきていたよ」
それとも、私以外の誰かが、岳人の隣にいたのかな?続く言葉を飲み込んで、私はニッと笑って見せる。
「それに、勝負があったから、私だって志望校に合格できた」
「それこそ優希の実力だよ。僕とは頭の出来が違うんだからさ」
「あ、またそんなこと言って!まったく、謙遜も行き過ぎれば嫌味なんだよ」
「本心だよ。優希がいたから、ここまで来れた。……ありがとう」
まっすぐな言葉が、私の心を揺らす。もう、変な空気になっちゃうじゃん。
「優希は教師だっけ。がんばって」
「岳人こそ。まさか医者を目指すなんて思わなかったよ」
「それは……多分これも優希のおかげだよ。ほら、前に優希が盲腸で手術したことがあったでしょ」
そういえばそんなこともあった。確か中学一年生の時だ。
「あの時、思ったんだ。僕は身近な人が苦しんでいるときに何もできない。何かをしない。力が欲しい。そう考えて思い浮かんだのが医者という仕事だったんだよ……なんて、さすがにそっくりそのまま面接で話すのは恥ずかしくてできなかったけどね」
晴れ晴れと語る岳人を前に、きゅっと心臓が痛んだ。私の、おかげなの?でも多分、私は岳人がもらった以上にたくさんのものを岳人から受け取っている。もらったものが多すぎる。
私だって、同じだった。岳人と教えあう時間が楽しくて、気づけば教師という進路を真剣に検討していた。けれど今の岳人の言葉の後に続けるには、少し軽い動機な気がして。
私は代わりに、脳裏によぎったカードと贈り物のことを口にしていた。
「……あの、花」
「アネモネがどうかしたの?」
「ううん、それじゃなくて、退院したその日に岳人がくれた黄色いガーベラ。あれがすごいうれしくて、その時のラッピングを今でもとっているの。だから、あのお店を見て既視感があったんだ」
「そっか、そういえばあの時花を買ったのはあそこのお店だったかな?」
照れくさそうに頬を掻く岳人が愛おしい。ああ、本当に今更だ。こんな時、こんなところで気づきたくなかった。もっと、早くに気付きたかった。
ううん、気付いていた。でも、気のせいだってごまかした。言い訳をした。それでも見て見ぬふりをできなくなったのは多分、あのデートの日だ。
一日限りの記念デート。そんな思いで臨んだあの日は楽しかった。楽しすぎた。あんな日がずっと続けばいいと思った。そして何より、雪割草に言われたのだ。今は忍耐の時だと。離れて過ごすまでの、準備期間だと。その先に、再び肩を並べて歩く未来があるかもわからないのに。
「……東京でも頑張ってね」
「優希こそ、子どもを教え導くものとして時間厳守だよ。朝に弱いんだから気を付けてね」
小さく、頷く。岳人は私をよく見ている。私が気付いていないことだって、隠そうとしていることだって気付いてしまう。だから、必死に笑顔を取り繕った。それでも、あふれる思いが止まりそうになくて、私は口を開くこともできずに、ただ何度もうなずいた。
私は、ちゃんと笑えていただろうか。
それじゃあ、と告げる岳人に頷きを返して、私は扉の向こうに身を滑り込ませる。
背中を玄関扉に預ける。岳人の足音が、少しずつ遠くなっていく。
もう帰ってしまったの?と麦茶の入ったグラスを運んできたお母さんが困ったように首をかしげていた。
その背中も、遠くなる。もう、岳人の足音は聞こえない。
ずるずると、腰を抜かすように土間に座り、膝を抱える。
目元が熱い。頬を涙が伝う。心の奥から、叫び声が聞こえた。
私は、岳人が好きだ。岳人と、ずっと一緒に居たい。岳人と一緒に、生きていきたい。
一度そう認めてしまえば、もう止まらなかった。
ひょっとしたら、もっと違う日々があったかもしれない。岳人と恋人同士になって、充実した学校生活を送っていたかもしれない。場合によっては中学生から付き合い初めて、大学でも遠距離恋愛をしながら上手くやっていけたかもしれない。
……正直、そんなの上手くいく気がしなかった。だって、岳人と離れ離れになるとわかっている今こうして、悲しさと寂しさで涙が止まらないんだから。
不器用な私には、ただでさえてんてこ舞いだった学園生活に、岳人との恋人関係を加えることはできなかった。あるいは、その代わりに受験がおろそかになっていたかもしれない。
これでいい。これがすべてが。過去に帰ることはできない。私は、最善の選択肢をした。
それなのに、どうしてだろう。悲しみは膨らむばかりで、涙は止まらなかった。
忍ぶ時だった。いつかまた、二人の道が重なった時、今度こそ並んで歩いて行けるように、今は耐え忍ぶ時だった。
雪の中でじっと春を待っている雪割草のように。