全力右ストレート
容赦なく降り注ぐ太陽、季節外れの炎天下の中俺は荒い息を整えて汗を拭っていた。
まさか……農業というモノがこんなに辛いとは、知らなかった
握りしめた鍬を振りかぶろうとして足がもつれる。倒れそうになるのをギリギリで堪えると、安堵からその場にしゃがみこんだ。
まさか……非力とはこんなにももどかしいとは、知らなかった
重い鍬から解放された両手は、意識とは無関係に震えている。己の筋力の無さに腹が立つのはこれで何度目だろうか。
まさか……平民とはこんなにも弱いのか
シアン・ウイークの身体は呆れるほどに弱かった。
「こんな軟弱な身体で、よくこの歳まで生きてこられたもんだ。俺が生きた時代なら、すぐに殺されてしまうだろ……」
ぼやきながらすでに汚れたタオルで汗を拭う。何度も転んだせいで、そこらじゅう土まみれだ。
「シアンさん、少し休憩にしましょう。向こうの木陰でお茶でも飲みましょうか」
青毛の狼男が手を振って叫んでいる。その声に精一杯返事をして立ち上がった。
◆
「ご苦労様。はい、お茶をどうぞ。いやぁ、教えるなどと偉そうに言ったわりに、開墾作業を手伝って貰うばかりで……本当に助かりますよ」
狼獣人フェルウンはコップを手渡しながらそう言うと、反対の手にもったコップを一気にあおいで美味しそうに唸った。その姿につられて一口飲んでみる。
うん、旨いな。麦から作られたという茶は、茶色い見た目に反してさっぱりしている。
初めは警戒こそしたものの、話してみると気さくな好人物だ。畑を耕しながら共に汗を流すうちに、すっかり打ち解けていた。
「フェルウンさんは毎日、こんな重労働をやっているんですか。正直とても尊敬します」
心から漏れた言葉だった。フェルウンはやんわりと謙遜しながら、いつの間にか飲み干していたコップにおかわりをついでくれる。
「私達なんかは自由にやってるほうですよ。町でお勤めの方達なんか、もっと忙しいでしょうし」
現世では皆、それぞれに仕事という使命を持って生きているワケか。俺が国を作ろうとしていた頃とはまるで違うな……
「仕事かぁ、どうしてそんなに頑張れるものなのか……」
思わずぼやいてしまう。
「そりゃあもちろん、妻と幼い子供達の為ですよ。家族の為なら、必死に働くのも決して辛いなどとは思いません。あの子達が大人になるまではしっかり稼がなきゃあ」
フェルウンは視線で促す。母屋の近くではしゃぐ子供達と楽しそうな声をあげるリリィザの姿が見えた。
……ドラフェンナーガ族って、子供のうちは四足歩行なのか。あれじゃあちょっと大きな犬だな。
「シアンさんだってそうでしょう? あんな素敵な奥様に苦労はさせたくないはずだ」
「確かに、させたくない。絶対にさせない」
思わず即答してしまう。献身的な妻に苦労などさせてなるものか。
「奥さんから伺いました、なんでも急なご病気をされてお仕事を辞めざるえなくなったそうですね」
突飛な話しに自分の事だと気が付くまでしばらく掛かった。
「え?、 あ、あぁ、そうなんですよ!」
そうか。俺がシアン・ウイークに転生した事は、彼女の中ではそうゆう解釈になっている訳か。
「新婚早々に大変でしたでしょう、お加減はもう良いのですか?」
「え、えぇ。お陰様でもう全然、むしろ元気すぎるくらいですよ!」
新婚早々というと、シアンとリリィザはこの町に引っ越してすぐに結婚したのか。
こっちに気づいた彼女が手を振っている。胸を刺すような、身体の内側から気色の悪い感情が込み上げてくる。他人の事情などこれまで想像もしたことがなかった。
初めて体験する感覚に、気にしないフリをして、小さく手を振り返した。
『――ち、ちょ、ちょっとぉ、み、みんなぁ避けてぇッ! 』
突然遠く離れたどこかで叫び声が響く。先に異変に気が付いたのはフェルウンだった。
「た、大変だ! おぉいッ早く逃げろぉぉ」
フェルウンは母屋近くのリリィザ達に叫んだ。母屋へ続く長い下り坂を、見たこともない大きな塊が滑り落ちている。
「トラクターのブレーキが止まらないのぉぉぉ!」
鉄の塊にはユフェルが乗っている。あれが何かはわからないが、このままではまずいことだけは伝わってくる。
……あのままでは、リリィザと子供達が下敷きに?!
「リリィザッ!」
無意識に身体が動いていた。間に合わなければ妻が下敷きになる。そんな事は絶対にさせない。足が勝手に動いていた。
俺の足ならばこのくらいの距離すぐに間に合う!
「危ないッ! 逃げてぇぇぇぇッ」
ユフィルの声にようやく気が付いたリリィザは子供達を庇うように覆った。
全身の血が逆流する感覚。身体は意識の外にあった。何を捨てても彼女を守らなければいけない、それだけが頭の中を駆け巡る。
「リリィザ、子供を抱いて脇道に飛べッ! 」
俺の声に気づいた彼女は2匹の仔犬を抱いて、畦道に身を投げた。
「ダメぇぇぇッ! 逃げてぇ、止まらないのぉぉぉッ」
迫りくる大きな塊の上でユフィルが叫んだ。あの塊の操作が出来ない事はすぐにわかる、それならば俺が止めるだけだ。
この距離を僅か一瞬のうちにたどり着いた時、確信した。やはり俺はレッド・ドラグーン。いかに転生先が脆弱であろうとも、この力は消えないのだ。
叫びながら右手を大きく引いた。
そうだ、今は歴戦のガントレットこそ無いものの、俺の拳もきっと昔のままだ!
この右手は、数多の強者の額を打ち砕いた拳、龍も鬼も、いかなる怪物すらこの右腕で全て沈めてきた。
そうだ、こんな訳のわからない鉄の塊に砕かれるはずもないのだッ!
恐れる事はない、全力で穿てばいい……!
「うおおぉおぉぉぉッ! 」
右の拳を大きく振り抜いた。辺りの空気を引き裂くと、大地を揺する激しい音が鳴り響いたのであった。