4-11 朝陽追憶(一)
あれは今から十年も昔の夏のことだ。
アシハラ王国の皇である父上とその正室である母上。やんちゃ盛りだった十歳の俺と、漸くいくつか言葉を喋る様になった月灯。
そんなこの国でも最も幸福であろう一家は避暑の為に王都である一陽から南西の方角にある二張を訪れていた。
二張にある王家の別邸は一陽の大内裏にある本邸に比べたら随分と大人しい造りだったけど、父上も母上もこの質素にも見える別邸を落ち着くといって気に入っていた。
「ーー母上。父上は今日もお務めなの?」
「えぇ、そうですよ。今日は二張の農地を視察に行くと仰っていました」
「ーーちぇっ。折角の家族旅行なのに、父上ってば仕事ばっかりじゃないか」
「そんな事を言うものではありませんよ。父上は朝陽や月灯の父上であると同時にアシハラの民全ての父上でもあるのです。父が子の為に働くのは必然でしょう」
皇はアシハラの民全ての父。今となっては立派な志だと思えるが、当時の俺には父上が他の人に取られている様で面白くなかった。
おまけに母上はまだ小さな月灯に係りきり。俺としてはこれも面白くなかった。
「ーー遊びに行ってくる」
「あまり遠くに行ってはいけませんよ。それから、周りにも迷惑を掛けないようにね」
「ーーはい」
母上からの小言を聞き流し、別邸から外に出る。母上が言っていた「周り」とは警護の衛士達の事で、この日も俺が屋敷を出てすぐに見知った顔の衛士達が俺の元に近付いてくる。
「ーー朝陽殿下、お出掛けでございますか?」
「あぁ。まぁ、そんなとこだ」
「何かあっては大変ですから、我々もお供致します」
「あっそ。勝手にすれば」
すげなくしても衛士達は俺の後を着いてくる。これでも当代の皇の御子である訳だから、当然といえば当然だった。
しかし、その日の俺は何となく一人になりたい気分だった。
父も母もおまけに弟も思い通りにならず、家族から離れ孤立した孤独な少年気分を味わいたかったのかもしれなかった。
広大な葦原別邸の敷地から出ると、隣にはこれまた広大な貴族の敷地が広がっている。何処にいても蝉の鳴き声がうるさくて辟易する。
「此処って二張の領主一族が住んでるんだっけ?」
「はい。古くから渋滝一族がお住まいです」
「ふぅん」
渋滝家。二張の領主一族はそんな名前だったか。いずれ王位を継ぐ身という意識はあったまのの、あの頃の俺は将来の為の勉強にはいまいち身が入らなかった。
しかし、渋滝の名に馴染みは無いが、この一族が住む広大な敷地に興味があった。
正確にいえば、広大な敷地の中にある青々とした森に、である。
「ーーなんか俺、疲れちゃった。今日はもう屋敷に戻ろうかな」
「左様でございますか。まだまだ陽射しが強いですからね、室内で涼むのが宜しいかと」
衛士達の顔にあからさまに安堵が浮かぶ。やんちゃな皇子を外で自由にさせていたら面倒な事になりかねないということだろう。
「あぁ、そうするよ」
そう言って衛士達と連れ立って葦原別邸へと戻り、暑い中警護に着いてくれた衛士達を労った。
衛士達がほっと一息つき、彼らの目が自分から離れた事を確認しーー。
俺は葦原別邸を抜け出した。
目的地は勿論ーー渋滝家の敷地内にある、あの森である。
*****
「ーー何だ、余裕じゃん」
衛士に気付かれる事なく葦原別邸を抜け出すことに成功した俺は、そのまま隣家の敷地内に忍び込んだ。
仮にも二張領主を務める大貴族の屋敷である。忍び込んだものの渋滝家の衛士に気付かれる可能性がかなり高いと踏んでいたのだが、思いの外簡単に侵入出来てしまった。
「この屋敷の警備……こんなんで大丈夫かよ」
思わず心配してしまう。
そのまま、葦原別邸からも見えていた深い森へと向かう。
「ーー何でかなぁ。初めて見たときから妙に気になるんだよなぁ。あんな森別に珍しくもないだろうに……」
自問するも答えは出ない。しかし、もう既に足は森へと向かっているのだ。今更引き返すことなど出来ない。
そうして、渋滝家の人間の誰にも見付かることなく、俺は森の入り口へと到着する。
今思えばこの時点でおかしい事に気付くべきだった。いくらなんでも真っ昼間に誰の姿も見ることもなく、それどころか俺以外に誰の気配もしなかった事に。
*****
森に入ってすぐ、俺の頭は何か靄が掛かった様になっていた。
それでいて足だけははっきりとした足取りで、一度も踏み入れた事もない森をどんどん奥へと進んでいく。
冷静になればそら恐ろしい状況だが、当時の俺はそんな事を考える事もなくひたすら前進していた。
いや、この時俺は既に取り込まれていたのかもしれない。あれだけ五月蝿かった蝉の鳴き声は失せ、森の中、音は自分の呼気と足音だけだった。
どういう道を進んだのか、今はもう思い出せない。
ひたすらに歩き続けた俺は開けた場所に出た。
そこには古びた祠がぽつんと立っていて、周囲の木々にはどれも太い注連縄が巻かれていた。
木製の祠は経年劣化で随分と痛んでいる様に見えて、祠を形作る木材は黒く変色していた。
そこに踏み入れた瞬間、俺は「とんでもない所に来てしまった」と感覚的に理解した。
それなのに、何かに突き動かされる様に足は祠へと近付く。
耳鳴りがした。
「ーーあ、だ、駄目だ……」
口から情けない声が漏れるが、祠の手前まで辿り着いた俺の手は閉ざされた祠の扉を開けようとする。
「ーーま、待って!! 駄目だ!!」
しかし、首から下は俺の制御下には無いようでついには祠の扉が開け放たれた。
「い、石……?」
祠の中には大小様々な形の石が九つあり、それらが円状に張られた赤い紐の内側に納められていた。
赤い紐は釘で固定されていたが、釘は錆びており俺の手でも簡単に外せそうだった。
これは触ったらやばいやつだ。
俺の直感がそう告げて来る。
しかしーー。
「ーーわっ、だ、駄目だって……っ!!」
俺の意思とは裏腹に手は又しても勝手に動き、紐を固定する釘を取払う。
そして、駄目押しとばかりに中の石を散らかしたーー次の瞬間。
場の空気ががらりと変わった。
「ーーっ!?」
真っ昼間で太陽も変わらず中空にあるというのに、何故か辺りが暗くなった様に感じた。
そして、祠と向き合う俺の後ろーーそこに、今まではいなかった何かが出現した気配がした。
そこにいるのが良くないものだと、関わってはならないものだと直感的に理解するも、俺はもはや体をガクガクと震わせる事しか出来ない。
笑い声がした。
高い、女の声だった。
俺の思いとは裏腹に俺の体は背後を振り返る。
そこにいたのは女だった。
金髪に紅い瞳の、この世のものとは思えない程に美しい、一人の女だった。
女の紅い瞳と目が合い、呼吸が出来なくなりーー俺の意識はそこで途切れた。
*****
目が覚めた時、俺は葦原別邸の敷地内で倒れていた。
「ーー夢? そうか、全部夢だったんだ」
俺は渋滝家の森に行った事も、あそこであったことも全てが夢に違いない。
そう思う事にした俺は、その日にあった出来事を誰にも話すことなく心の内にしまいこんだ。
沸き上がる罪悪感を白昼夢だからと納得させ、やがてそれらは俺の記憶の片隅へと沈んでいった。
実際、俺自身長く忘れ去っていた。
月日が流れ、あの女が俺の前に再び現れるまではーー。




