4-7 御影、待ちぼうけ
斎宮殿、母屋の一角にある斎宮専用の執務室ーー俗に斎宮曹司と呼ばれる一室に御影の姿はあった。
しかし、大きな文机で膨大な書状と向き合うその姿は御影本来の姿ではない。艶やかな長い黒髪に、儚く可憐な面差しーーこの斎宮殿の主、月灯のものであった。
今の御影は大きな使命の為に一陽へと旅立った月灯の身代わりである。
「ーー今日もこんなに……」
「そうですね。九陰の民の不安や不満は日に日に増している様だ……」
そんな御影の呟きに答えたのは郡領である斎宮の補佐の役目を担う国司、東海林幸路である。
「ーー殿下は今頃はどの辺りでしょうか」
ふいに零された言葉に御影は幸路へと視線を向ける。彼もまた九陰の斎宮星乃の正体を知る一人であり、御影と同様に斎宮不在の九陰を任された者でもあった。
「旅が順調に進んでいれば今頃はもう王都ではないでしょうか」
「あの白黒頭め、もし殿下に何かあれば只では済まさんぞ……」
「まぁ東海林様……どうか抑えて下さい。アージェント様の強さは本物です。あの方が付いていて下さるのなら月灯様はきっと大丈夫です」
ぎりりと歯を噛む幸路は不満げだが、御影としては今回の旅にアージェントが同行してくれたのは幸いだった。
彼の強さは御影も認める所であり、御影が月灯の側にいることの出来ない今、あの変わり者の考古学者が主の側にいてくれる事は御影を安心させてくれた。
「月灯様が戻られた時の為にも私もしっかりお務めを果たさなければいけませんね」
そう言った御影に、幸路は穏やかな眼差しを向ける。
「ーーでは御影殿。私は一度東の対屋に戻ります。また後程こちらに参りますので、何か不明点があればその時に」
「はい、東海林様。有り難うございます」
「貴女もあまり無理はされない様に」
そう言うと幸路は一礼して斎宮曹司を出ていった。残されたのは月灯の成りをした御影だけだ。
(さて、私も仕事を……)
そう思い、御影は手元の書状に視線を戻した。
日に日に増え続ける書状は民からの嘆願書であったり、九陰各地に出向いている郡兵からの被害報告書であったり様々だ。
中には怪異の影響で九陰からの物資提供が遅れた事に対する他郡からの嫌みの混じった受領書もあった。
(ーー何にせよ、明るい知らせは一つも無い……)
月灯は何時もこれらの書状の全てに目を通す。斎宮の無力を遠回しに責める物も多いというのに、自分の務めに真摯に向き合う姿は本当に立派だ。
そう、本当に立派なのだ。
「ーーはぁ」
(ーーこんなにも長く月灯様と離れているのは、斎宮殿に上がってから初めてかもしれない……)
気付けばふとした瞬間に月灯を思い出している。自分と同じ様に、あの高貴な少年も思ってくれているのだろうか。
御影は手にしていた書状を置くと嘆息した。
そんな中、斎宮曹司に声が掛けられた。
「ーー殿下。松江でございます」
何時も通りの落ち着き払った巫女頭の声音に、御影は慌てて居住まいを正した。
「お入りになって下さい」
御影の言葉に松江がしずしずと入室してくる。運んできた盆の上には膨大な書状が積まれている。追加分らしい。
「ーー浮かない顔をしていますね」
「そうでしょうか……」
追加された書状の山に対する嫌気が顔に出ていたのだろうか。
事情を知る松江の前といえど、自分は完璧に月灯を演じる必要があるというのに。
「えぇ。殿下から重大な役目を任されて気を張っているのも分かりますが、それ以上に随分と気落ちしている様に見えますよ、御影」
「ーーえっ」
まさか本来の名を呼ばれるとは思わず、御影は泡を食った様になった。
そんな御影をよそに、松江は文机に書状を載せる。
「ーー殿下と離れてからの貴女は、何処か心此処に在らずといった様子に見えます」
「……」
見破られている。松江には御影の心の中まで見えているのではないだろうか。
「ーー松江様。私は巫女どころか、忍も失格かもしれません……」
「?」
「ーー主の影武者として留守を預かるなど、忍としてこれ以上の務めはありません。月灯様が信頼を寄せて下さっている事も痛い程に感じています……。
それなのに……。私は今回、月灯様に連れて行って頂け無かった事で他の事が手につかない程に動揺しています……」
自分で言いながら、余りの酷さに死にたくなった。しかし、それが御影の真実であった。
そして、この先を口にすると自分自身逃げて来た「答え」に近付く事にもなる。
しかし、喉元まで込み上げた言葉は最早御影には止められなかった。
「ーー私は……出立前に月灯様が『一人で大丈夫』と仰った事がとても悲しかったのです……。
月灯様にとって、私はもう無くても良いものになってしまったのか……。もう、求めては貰えないのかと……。
私の事を好きだとおっしゃるのなら……どうしてお側に置いておいて下さらないのかと……」
そこまで言って、御影は目を閉じた。
御影にとって、月灯は最初守るべき対象で、妹の様な、弟の様な、そんな存在だった。
それが変わっていったのは何時からか。
ーー神の御使いの様に清らかな笑みを浮かべる姿。
ーー年に似合わぬ口説き文句で御影を狼狽させる姿。
ーー年相応の少年の様に、時折いじけたり、御影に感情をぶつけて来た姿。
ーーそして、大きすぎる荷を背負わされながらも国の為、民の為、自らを犠牲にする姿。
月灯がいずれ悪夢に取り殺されてしまう日が来るのなら、その時は自分も死んでも良いと思っていた。月灯を一人で暗い所に行かせるなど、可哀想だ。
これまでまともに恋愛も知らずに来た御影だったが、今、御影の心の内にある感情は確かに愛と呼べそうだった。
御影は月灯を愛しているのだ。
「ーーそうですか」
御影の独白を静かに聞いていた松江が口を開いた。
「ーー私は月灯殿下が小さい頃よりお世話をさせて頂いて参りました。
幼い頃に母君を亡くされた月灯殿下に少しでも母の様に思って頂けたらと、私なりに尽くして来たつもりです。
月灯様は昔からご自身の立場をよく理解されておりました」
「ーー自身の立場?」
「月灯様は先代皇の第二子です。いずれ王位は第一子の朝陽様が継がれる。
けれども、大内裏には当時から型破りであられた朝陽様に反感を持つ者も少なくなく、そういった者達が月灯様を担ぎ上げようとしていたのです。
ですが、月灯様ご自身は朝陽様を慕っておられましたし、朝陽様の邪魔にはなりたくなかったのでしょう。
継承者争いなど、多くの血が流れるのは必至。その為、ご自身の室に閉じ籠り、人目につくことを避けておられました」
(ーー月灯様、昔からそんなに苦労をされて……)
「そんな中、先代皇が亡くなられると朝陽様がまだお若いという理由から先代の弟君であられる天谷様が皇の位に就かれました。
それまではお優しかった天谷様は何故か急に朝陽様や月灯様に冷たくなられ、それに嫌気がさされたのか朝陽様は国を出てしまわれました。
残された月灯様はまだ幼い事もあり、朝陽様の様にする事も叶わず、それまで以上に自室に篭られる様になりました」
「そんな……」
「ーーその様な事が暫く続き、昨年、先代の斎宮が亡くなったという報せが入ったのです。
次に斎宮の位に就く予定だった王家に連なる姫君が不慮の死を遂げられ、天谷様は空いた穴を埋める為に月灯様を九陰に送られる事をお決めになられたのです。
月灯様は不平や不満を一言も言われることなく、天谷様に従うと仰いました」
松江からこれまでの月灯の経緯を聞かされた御影は何も言えなかった。
「ーー月灯殿下は聡明でお優しい方です。その聡明さの為か、あの方は自分自身に対しては何処か諦観していらっしゃる。
ーー御影、あの方が何かを個人的に望むなど、これまで一度も無かった事なのですよ」
松江の言葉に、御影はハッとなった。松江は月灯が御影をこの斎宮殿に呼び寄せた事を言っているのだ。
松江は穏やかな眼差しで御影を見た。
「ーーですから、私は月灯殿下が御影をこの斎宮殿に迎えたいと仰った時、貴女には悪いのですが、何処か安心してしまったのです。
あぁ、この方も人並みに何かを欲したりする事が出来たのだと……」
「月灯様……」
御影は無性に月灯の顔が見たいと思った。自分が化けた偽りの月灯ではなく、本物の頑張り屋の少年と。
「ーー御影。これは私からの願いで、決して強制出来るものではありません。
ですが、貴女が月灯殿下を少しでも想ってくれているのなら、どうかあの方に寄り添ってあげて下さい」
「ーーはい。はい、松江様」
御影にはそれ以上は言葉に出来なかった。
御影の瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。
これまで自分の望みというものを持たなかった月灯の最初のわがままが御影だという事。
それが御影にはどうしようもなく悲しく、そしてそれ以上にたまらなく嬉しかった。