4-6 王都一陽へ(二)
皇を前に月灯は半ば呆然と立ち尽くしていた。
理由は明白。今しがた、この場から立ち去った女の顔に見覚えがあったからだ。
(ーーそんな。今の女の人……)
月灯の顎を冷たい汗が伝う。眼前に皇がいるというのに、月灯は視線を女が消えていった道から外せなかった。
(ーー紅波に、そっくりだった……)
忘れられる筈もない。先の九陰巡礼の中で激闘の末に下した相手……九陰に混乱と穢れを撒き散らしていったあの男の面影があった。
(他人の空似……? でも……)
妙に胸が騒ぐ感覚に月灯は無意識に胸を抑えた。
そして、そんな月灯を現実に引き戻したのは他でもない目の前の男だった。
「ーーまさか、斎宮の務めを放り出して此処まで来るとは思わなんだ。なぁ、月灯よ」
「ーー叔父上……」
月灯は眼前に立つ男の冷たい眼差しに足がすくんだ。叔父と甥という間柄ながら、月灯は昔からこの天谷が苦手だった。
彼の眼差しに朝陽や月灯への愛情を感じた事はこれまで一度も無かった。
月灯は震える足を叱咤した。月灯が此処に来たのは重大な役目の為だ。
「ーー叔父上。書状にも書かせて頂きましたが、僕は建国神話の真実が知りたいのです」
「ならん。伝承の真実を知る権利があるのは代々の皇のみだ。お前にその権利はない」
天谷はすげなく言い切った。
しかし、その言い様は表に出せない何かがある事を隠してもいなかった。
「権利なし」と言われて簡単に引き下がる事も出来ない。
「ーー叔父上から斎宮のお役目を言い渡されて以来、僕なりに斎宮として民や国と向き合って参りました。
祝福された地でありながら、この国がこの様に怪異にまみれているのは何故なのでしょうか?
日々斎宮殿で龍神に祈っても怪異は年々増え続けています。無限と言われる九陰の富も、その実、年々不純物が混じり質が落ちていると言います。
このままでは九陰の富よりも先に、このアシハラから人が失せる方が早い……」
月灯は更に言葉を続ける。
「ーー叔父上、教えて下さい。
斎宮の座を継いでから、夜な夜な僕の夢に現れる怨嗟に満ちた存在は何者なのですか?
ーーこの国は本当に祝福された地なのですか?
僕は恐ろしいのです……。龍神に愛され加護を賜っていると謳うこの国が、実際には神を冒涜して富を得ているのではないかと……そう考えてしまう自分が恐ろしいのです」
それは月灯がこれまで見てきた全てから導き出した答えであり、月灯をして、信じたくない物でもあった。
縋る様な甥の言葉を、天谷は一笑に付した。
「ーーだったら、何だと言うのだ。長きに渡り地に縛り付けられた神など、恐るるに足らず。最早この国に財を提供する永久機関に過ぎん」
愕然とする月灯に、天元は更に言葉を続ける。その赤褐色の瞳には明白な侮蔑が籠められていた。
「ーーそも、怒れる神とやらの鬱憤を晴らす為にお前達斎宮はいるのだ」
「え……?」
「ーーふん。そこまで解を導きながらそこには気付かなかったのか。
しかし、お前の言う心配もじきに杞憂となろう」
「ーーそれは、どういう……」
「何、質の落ちた片落ち品を新品に取り替えるだけの事よ」
「ーーえ?」
「月灯よ、お前には斎宮として、そして葦原に連なる者として重要な務めがある。くれぐれもそれを忘れぬようにな」
呆然と立ち尽くす月灯にそれだけ言うと、天元は呼び戻した配下の者達と共にその場を去っていった。
去り際、金髪の女が愉しげな視線を月灯に向ける。
残された月灯は只彼らを見送ることしか出来なかった。
*****
月灯はその場で膝から崩れ落ちた。そんな少年の元に駆け寄る人影がある。
「ーーおい……っ!! しっかりしろ……っ!!」
茜色の髪と瞳、橘南雲だった。
南雲は呆然としている月灯を無理矢理立たせると、大内裏の出口へと向かって歩き出した。
「ーーお前、斎宮だったのか……」
ぼそりと呟かれた言葉に月灯はハッとした。
「聞こえていたの?」
「生まれつき耳が良くてな」
南雲の言葉に、月灯は観念した様に溜め息をついた。
「ーーあぁ、そうだよ。僕が斎宮。君から無理矢理御影を取り上げた男だ……」
自嘲混じりの月灯の言葉に、しかし南雲は「そうか……」と静かに一言のみだった。
妙に落ち着き払った態度が癪に障り、月灯は知らず知らず唇を噛んだ。
「ーー聞いてたなら知ってると思うけど、僕はもう長くない……」
「……」
「でも、僕は曲がりなりにもアシハラの斎宮だ……。残りの時間全て使ってでも、この国の民と、この国に縛られている神の為に出来る限りの事をしたい……」
「そうか……」
ーーこの人には負けたくない。月灯の心の内には南雲に対する確かな対抗心があった。
以前、南雲に関する調書を見た時、月灯はその内容にどうしようもない敗北感を感じたものだ。
背も高く精悍な男。剣の腕も立ち、正義感も強い。確かな能力に裏付けられた自信溢れる男。
ーーそのどれもが月灯には無いものだった。
自分と御影が一緒にいても周りからは姉弟か姉妹にしか見られないだろうが、この南雲となら文句無く恋人同士にも見えるだろう。それが悔しくて羨ましくて仕方無かった。
冷静を努めていた筈が、気付けば月灯の言葉には熱が篭っていた。
「ーーでも、僕は弱いから……一人じゃ何時まで立っていられるか分からない……。
自分でも情けないけど、途中で逃げ出したくなるかもしれない……」
自分の声が震えている事に、月灯は泣きたくなった。
「ーー僕には御影が必要なんだ……。きっと、全てが終わった暁には貴方の元に御影を返します……。
だから、もう少しだけ……御影を僕の側に置かせて下さい」
南雲に支えられながら、月灯は頭を下げた。
ーーそんな月灯に対し、
「ーー戯けた事を抜かすな……っ!!」
南雲は盛大に怒鳴った。
「御影は自分の意思で斎宮殿に向かったんだ。子供ながら重責を背負わされた斎宮の、少しでも支えになりたいとな。分かるか、他の誰の事でもない。お前の事だ。
ーーそれにだ。何故お前は死ぬ前提で物を考えている? 俺はお前が抱えている事を半分も理解は出来ていないだろう。だがな……死ぬ覚悟をする前に、何が何でも生き延びる気概を見せろっ!!」
呆然と立ち尽くす月灯に、南雲は更に喝を入れる。
「良いか。年も容姿も身分も関係ない。お前が本気で御影を好きならば、あいつを本気で惚れさせて見せろ……っ!!」
「南雲、さん……」
その時、月灯の胸に沸き上がった感情は何と表現すれば良いか。
南雲はやはり月灯の何百歩も先にいる人物で、同時に高い壁だった。月灯の中の子供じみた妬みや嫉みは泣きたくなる程の憧憬へと昇華した。
「ーー斎宮。いや、月灯と言ったな。俺はお前を信じる事にする。先程の話が真実ならば、アシハラの民として到底看過出来ん。もしもお前に何かあった時は、俺と四乃郡はきっとお前の側に立とう」
そう言って、南雲は力強く笑って見せた。




