3-7 二科事変(一)
突如眼前に現れた男の姿に御影は目を疑ったが、御影の脳はそこにいるのは間違いなく紅波であると伝えていた。
「ーー紅波っ!!」
「ん? 誰かと思えばお前はこの前の娘か。斎宮殿の巫女が何故こんな場所に……?」
そう気だるげに髪をかきあげた紅波だったが、御影の背後にいる星乃を見て目を瞬かせた。
「何と、巫女どころか斎宮本人まで来ているとは……これは驚きだ。喜瀬の外は何処も怪異だらけだ。お姫様がお忍びで遊びに行かれるのは感心出来ないな」
まるで星乃を心配するかの様な口振りで話す紅波に、御影は頭に血が上るの感じた。
「ーー貴方、どの口でそんな言葉を……っ!!」
だいたい小百合を唆して星乃に毒を盛ろうとした張本人はこの紅波に違いないのだ。
「中々辛辣な娘だ。アシハラの民たる私が斎宮を心配するのは何もおかしい事では無い筈だが」
飄々の話す紅波に、御影の瞳に激情が揺れる。最早御影には我慢ならなかった。
背後の星乃の制止の声にも止まらず、御影は吼えた。
「ーー小百合を唆して星乃様に毒を盛ろうとしたのは貴方でしょう……っ!! 挙げ句の果てに貴方を慕っていた小百合を貴方は……っ!!」
しかし、御影の詰りにも紅波は涼しい顔を崩さない。
「御影、落ち着いて下さい」
「星乃様、でも……っ」
「姫様の言う通りだぜ、嬢ちゃん。まずはちっと落ち着けや」
渋滝老人からもそう諭され、御影は自身の感情を律するべく呼吸を整える。
「紅波。私達はこの二科に来るまでの間に幾つもの儀礼殿に立ち寄ったわ。その全てに怪異の臓物が詰められた瓶が置かれていた……。やったのは貴方ね?」
「ーーもしやその様子だと私が手間暇掛けて用意した代物をまさか処分したのか?」
「儀礼殿は神に祈りを捧げる神聖な場です。あの様な物は九陰の斎宮として看過出来ません」
星乃の言葉に紅波は軽く溜め息をついた。
「全く、わざわざ二科くんだりまで足を運んだというのに町は随分と小綺麗で拍子抜けな上、此処までの仕事も無駄骨になるとは……今日は厄日の様だ。
だいたい姫君は城にいるものだろう。こんな僻地に来ずとも斎宮殿で大人しくしていれば良いものを」
「黙りなさい、紅波。貴方は喜瀬で多くの人間を怪異に変え、人間を襲わせた。他にも聞きたい事が山程あります」
御影が小太刀を構えながら星乃を下がらせるのを、紅波な酷薄な笑みで見やる。
「ーーそれで、今回もお前が私の相手をすると? 小娘」
「えぇ、大人しく縛について貰うわ」
「くく。私を捕える、か。前回私に手も足も出なかったのはもう忘れたのか」
紅波の冷淡な言葉が御影の胸を打つ。
実際その通りだ。前回初めて紅波と対峙した時、御影は何一つ出来ずに不可視の刃で切り裂かれた。
今御影が生きているのはひとえに男の気まぐれに過ぎない。
(ーーそれでもこの男を放っておけば次はどんな事になるか分からない)
「ーー私は確かに貴方よりも弱いわ。でも、引き下がる訳にはいかない……っ」
「そうか。ではお手並み拝見といこうか」
その言葉と共に紅波が指を鳴らすと、その後方から狩衣に外套姿の男達がぞろぞろと姿を現した。
男達の纏う外套には一陽の郡章が縫い止められ、外套の下には帯刀した刀が見え隠れしている。
「ーーなるほど、一陽からの遣いの一団という訳ね」
御影が重心を低くすると同時に背後の星乃が御影に声を掛ける。
「御影、どうか気を付けて」
「はい、星乃様」
力強い返事と共に御影が一歩を踏み出せば、御影の横に渋滝老人が並んだ。
「ーー加勢するぜ、嬢ちゃん。話を聞く限り、あの若造とんでもねぇ悪党みたいだしな」
「渋滝様っ。有り難うございます」
御影、渋滝、郡兵等が動き出すと同時に一陽の遣いを名乗る外套の男達も動き出す。
戦いの火蓋が落とされようとしていた。
*****
廃村となった二科に剣戟の音が響く。
「ーーくっ!!」
遣いが振り下ろした刀を郡兵が何とか押し返す。
郡兵から見た遣い達は日頃から鍛えている自分達に比べれば随分と細く貧相に見えた。
それなのに力で押し負けている。
「怯むなっ!! 押していけ……っ!!」
以前の喜瀬の騒動で同僚を何人も亡くしている郡兵達にしても、紅波は許すことの出来ない相手。死んでいった者達の為にも一矢報いたい思いがあった。
「おい、お前達っ!! お前達が従うあの男は喜瀬を混乱に陥れた大罪人だぞっ!! 分かっているのか……っ!?」
「そうだぞっ。あの瓶もお前達が運ばされていたんだろう……っ。何故あんな奴に従うのかっ!!」
郡兵達が口々に叫ぶが、遣いの男らは何も答えずに得物を振るうのみだ。
そんな様子を倒壊した家屋の屋根に腰掛けながら見物していた紅波だが、おもむろに立ち上がると警戒する御影達をよそに口を開く。
「ーー何だ。わざわざ私が出る幕も無さそうだ。折角の二科だ、私は暫く外させて貰うよ」
「なっ。待ちなさい、紅波……っ!!」
郡兵らに混じって遣いの相手をしていた御影が声を上げる。しかし、その声を気にする事も無く身を翻した紅波はそのままゆっくりとその場を去って行く。
紅波の言動は完全にこちらを下に見たものだが、その場から動けない御影は臍を噛むしかない。
(この場を早く何とかしないと……っ)
紅波を自由にはさせておくことは出来ない。
御影は眼前の相手に意識を集中すると相手の刀を躱し様に後方に回り込み、そのまま相手の首の裏に刀の柄頭を打ち込んだ。
郡兵の身体がぐらりと傾ぐ。
(ーーこれで暫くは立ち上がれないでしょう。他の援護に回るか、数を減らすか……)
そう考えた御影だったが、そのまま倒れると思われていた遣いの身体がすぐに体勢を立て直したのを見て、思わず眼を剥いた。
「うそ……っ!?」
先程の様に首の裏から延髄を強打されれば大の男でも脊椎震盪を起こして立っていることすら難しい。それなのに、遣いの男は何も無かったかの様に平然とその場に立っている。
更にこちらに身体を向けた相手の顔を見て御影は更に困惑する。
(冷や汗どころか眉根一つ動かさないだなんて……)
言葉を発しないどころか表情すら一切変えないのだ。その様はいっそ異様ですらある。
(ーーまさか)
ある考えに思い至った御影はその場で声を上げた。
「ーーこの者達、操られている可能性があります……っ」
「そうじゃな。幾ら何でも拳が顔面にめり込んでも顔色一つ変わらんのはおかしいじゃろて……っ」
御影の近くで渋滝も同意する。
その様子を御影達の背後で巫女達と共に見守っていた星乃は唇を噛んだ。
(ーー確かに人間を怪異に変えられるのなら操るくらいきっとあの男には容易な筈……)
そうだとすればあの遣いの者達もまた紅波に利用されているだけの犠牲者にすぎない。
(罪の無い民を殺めさせる訳にはいかない……。でも、御影の攻撃がまともに通らない様な相手……。どうしたら……)
星乃は組み合わせた手をぎゅっと握った。
(ーーって、星乃様ならきっとそう考えていらっしゃる筈よね……)
渋滝老人と連携を取りながら遣い達の相手をしつつ御影は考える。
遣い達は紅波によるものなのか常軌を逸した持久力を持たされている。
(見た感じだと身体能力も大幅に底上げされているみたいだし、本人達にどんな副作用があるか……。
無傷で気絶させられるならそれが一番だったけど……)
それが無理ならば物理的に動きを封じるしかない。
(手持ちの仕込縄は五人分……。郡兵の方達は中々苦戦している様だし、実質の戦力は私と渋滝様だけね……)
渋滝は寧ろ御影と対峙していた時よりも動きが良い気さえする。
(何とか縄がある分だけでも遣いの方達の動きを封じて他の援護に回る……)
「ーー渋滝様っ」
「おっ。嬢ちゃん、何かやるのかい」
目を輝かせる渋滝老人に御影が自らの案を伝えようとした時ーー。
「ーーやや? 少し離れた間に随分と賑やかな事になっている様ですが……これは一体何事でしょうねぇ」
その場にそぐわぬ気の抜けた声音。
そこにいたのは風変わりな白黒頭に眼鏡を掛けた青年、アージェント。そしてその横で青い顔をしているのは渋滝の連れである奉太郎であった。




