3-3 穢れの瓶(二)
翌日の朝、用意された部屋で一人目を覚ました月灯は隣に御影の姿が無い事に溜め息をついた。
「ーー何を落ち込んでるんだ、僕は」
昨夜は月灯自ら、月灯に付き添おうとする御影を遠ざけ、別室にして貰ったのだった。
布団から身体を起こした月灯は枕元に置かれていた鏡で自分の顔を確認し、思わずげんなりした。
「酷い顔……」
目の下には隈が出来、顔色も決して良いとは言えない。
昨日の怪異の瓶が放つ瘴気に当てられたのか、昨夜の悪夢はかなり堪えるものだった。
「ーーはぁ。こんな顔見せたら御影を余計に心配させるだけじゃないか……」
御影への甘えを少しでも断ちたいという思いからの行動だったが、これでは御影の心配を増やすだけだ。
昨日、月灯がやんわりと拒絶の言葉を口にした時、月灯には御影が一瞬傷付いた顔をした様に見えた。
「いや、そんな訳無いか……」
御影からすれば面倒な仕事が減った位のものだろう。
部屋の障子からは朝日が差し込んでいた。
「ーー取り敢えず、顔でも拭けばこの酷い顔も少しはましになるかな……」
そう一人ごちると月灯はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと戸を開き外に出る。
八栄の長の奥方から清潔なおしぼりを受け取った月灯は、それで顔を拭いた。目の下の隈が消える訳では無いが、多少薄くなった気もする。
一息ついた月灯は御影やアージェントの姿を求めて屋敷内を歩き始めた。
「ーーあれは」
歩き始めてすぐ、緑生い茂る木の下に求めていた人影があった。
小太刀を手に軽やかに舞う姿は、見間違う筈もないーー御影であった。
(綺麗だ……)
大胆かつ滑らかな動作に合わせて、御影の藤色の髪がたなびく。
その姿はまるで人界に舞い降りた藤の花の精か何かの様で、月灯は目の前で舞われる美しい剣舞に時を忘れて魅入った。
やがて、一通り舞い終えた御影がこちらに気付いたらしい。月灯の元に近付いて来る。
「ーーおはようございます、星乃様。昨日はよくお休みになられましたか?」
御影の瞳に気遣わしげな色が宿っているのを見て、月灯はたまらず視線を背けた。
「うん……」
取り繕う事を忘れた声音は、姫君では無く少年のものになった。
「ーー月灯様。目の下に隈が。どうか、あまりご無理はなさらないで下さいね」
「ーー。さっきのは剣舞?」
「はい。私の育った忍の里に古くから伝わる舞です。本来は笛の音に合わせて舞うものなので、音がないとどうも調子が出ないのですが……」
「そうなの?」
「ええ。私の父は里でも指折りの笛の名手で、笛の音があると何時も以上に上手く舞える気がするのです。それに舞うにしても音があった方が楽しいのも確かですしね」
「……」
月灯から見た御影の舞は今のままでも十二分に美しい。それでも、御影が笛の音に合わせて舞う姿というのを見てみたいとも思う。
「ーー笛、かぁ。僕も覚えたいな……」
無意識の内に零れた言葉に思わず月灯はハッとするも、御影の耳には入らなかった様だ。
「ーー? 月灯様、何か仰いましたか?」
「ーーううん、何でもないんだ。それよりも今日は儀礼殿で祈りを捧げないとね」
*****
祭壇が設えられた儀礼殿奥の間の木壁は取り外しが可能で、儀礼殿の外からでも中で行われる神事を見る事が出来るようになっている。
この八栄で大規模な神事が行われるのが久方振りというのもあって少々時間が掛かったものの、住人総出で無事に奥の間の木壁が取り外された。
そうして今、長も含めた八栄の住人達は緊張した面持ちで儀礼殿の外から祭壇を見守っていた。
祭壇にいるのは星乃だ。
十二単を身に纏い金色に輝く天冠を頭に頂くその姿はまさしく九陰の斎宮であった。
右手に鈴、左手に紙垂の付いた榊の枝を携えた星乃はそれらを揺らし、祝詞を奏上しながら祭壇を歩いた。
ゆったりと歩を進め祭壇の四隅を歩み清めた後、祭壇中央で一礼する。
(ーー綺麗だわ)
他の者達と同様、外から祭壇を見守っていた御影は心の底からそう思った。
ちらりと周りに目を向ければ八栄の住人達も皆御影と同様の感想を抱いたらしい。瞬きもせずに巫女姫の神事を見守っていた。
そんな中、顔を上げた星乃が祭壇を取り囲む様に集まった八栄の住人達の顔を一人一人確認するように見渡すと、やがて鈴を転がす様な声で言った。
「わたくしは斎宮であると同時に九陰の郡領でもあります。九陰に暮らす者は誰ひとりの例外なく、わたくしが守るべき大切な民です。
怪異が跋扈するこの地で皆には恐ろしい思いをさせているもののと思います。
いずれ九陰の全ての町で喜瀬と同等以上の防備を整えます。皆、それまでもう少しだけ我慢していて下さい」
言い切った星乃は斎宮ではなく郡領の顔をしていた。
民を思い導こうとする星乃の姿に御影は思わず涙を溢しそうになったが、隣を見れば八栄の長も目に涙を浮かべていた。
長だけではない。八栄の多くの者が星乃の言葉に胸を打たれたのだった。
幼いながらも全身全霊で自らの責務を果たそうとする星乃の姿が御影は誇らしかった。
*****
八栄の町を訪れてから数日が経つ。
斎宮である星乃は町の中程にある儀礼殿で毎日祈りを捧げた。
それが終われば町を回り、怪異に怯える人や病に苦しむ人の言葉に真摯に耳を傾け、彼らの嘆きに寄り添った。
(ーー星乃様と話して、町の皆の顔が少し明るくなったわね……)
それは御影の目にも明らかだった。
人々は皆、斎宮が人と神を繋ぐ存在だと信じて疑わない。九陰の人々にとって、斎宮はこんなにも大きな存在なのだ。
斎宮に救いを求める人々を、星乃は確かに救っていた。
星乃が斎宮として精力的に務めを果たすのを嬉しく思う反面、まだまだ先の長い巡礼の旅で星乃が潰れてしまわないかが御影には気掛かりだった。




