1-3 思いがけない書状
溜め池のほとりで南雲と言葉を交わしてから数日が経った頃、御影は自室で一人忍具の手入れをしていた。
「……」
打ち粉で小太刀の刀身を叩いていた御影は、ふいにその手を止めると深々と溜め息をついた。
「ーー駄目ね、全然集中出来てない」
頭に浮かぶのは南雲の強い眼差しだ。
「南雲様が一陽で宮仕えか……」
王都で経験を積んだ南雲は、近い将来、強く聡明な領主になるに違いない。
そんな南雲から妻にと乞われているのだ。普通に考えれば、これ以上無い程の幸福である。
実際、御影の父も母も御影がいずれは南雲の元に嫁ぐと信じて疑わない。
しかしーー。
「ーー私は、南雲様の元へは行けない」
南雲には身分違いを理由に求婚を断っているが、実際の所、理由はこれだけではない。
「若葉……」
御影の同僚の忍、若葉。幼い頃より姉妹同然に育って来た彼女こそ、御影が南雲の求婚を躊躇う最大の理由であった。
南雲が御影達を知ったのは数年前の忍の里の視察の際が初めてであるが、御影達は違う。
今から十年程前。
四乃郡最大の都市である凪にて、御影と若葉の父が要人の護衛任務に着いていた時のこと。
父に付いて凪に入っていた御影と若葉は、偶然にも、若い娘に言い寄る悪漢を幼いながらに剣術で圧倒する南雲を見た。
相手よりもずっと小さい身体で悪漢に立ち向かう姿を、今でも鮮明に覚えている。
しかも、それが将来四乃を背負って立つ橘家の若様だと分かったものだから、幼い少女達が憧れるのも無理は無い。
取り分け、若葉の南雲への憧れは強かった。
若葉の幼い憧れはやがて恋心へと変わり、王都から南雲に関わる瓦版が届く度に一喜一憂して、その全てを今でも大切に保管している事を御影は知っている。
そして、何の因果か御影が南雲の目に留まり求婚されるようになると、若葉は自分が南雲を慕っている事などおくびにも出さない様になり、それどころか御影と南雲の仲を後押しするようになったのだ。
「若葉よりも南雲様を思ってくれる人、きっといないわよ……」
そう、御影が本日何度目とも知れない溜め息をついた時ーー。
御影の室の障子が乱暴に開かれた。
突然の事に手入れ道具を落とした御影は、不満げに口を尖らせる。
「ーー母様、せめて一言声を掛けてから障子を開けてよ。驚くじゃない」
しかし、御影の母ーー清香はそれどころでは無いとでも言うように、御影の元へ大股で近付いてくる。
「それどころではないのよ、御影!!」
「どういうこと?」
「王都からお前に書状が届いているのよ」
「ーーえ?」
清香の言葉に御影は目を丸くした。
*****
戸叶家の奥座敷。8畳程の畳の上に、御影の父母である大吾と清香、それに向き合う様に御影の姿があった。
「ーー先程、王都から書状が届いてな」
藍色の髪の美丈夫である大吾が神妙な面持ちで言う。
「ーー先代の斎宮が昨年御隠れになられたのは知っているな」
「は、はい……」
斎宮とは忌み地である九陰において、怪異を沈める為、日々祈りを捧げる王家に連なる姫君の事である。
昨年、先代の斎宮が二十代半ばで亡くなられて以来、斎宮位は空席のままだ。
「新しく九陰で斎宮になられる王家の姫君が、お前を自分の巫女として連れて行きたいと仰せらしい……」
父の言葉に、御影は思わず自分の耳を疑った。
「ーーは? 斎宮の巫女? 私が?」
そんな高貴な姫君など、御影にはまるで心当たりが無い。一体どういうことなのか。
頭上に疑問符を浮かべる御影に、清香は娘と同じ藤色の髪を乱して泣き崩れた。
日頃は芯の強い女性である清香には珍しい事である。
「ーーどうして御影が斎宮の巫女なんかにならなくてはいけないんですっ!!」
「か、母様……」
「斎宮の巫女は俗世から隔離されて、結婚も許されず、終生を斎宮の所有物として暮らすと聞きます。御影の人生がそんな物になるだなんて、母として耐えられません……っ!!」
清香の悲痛な叫びに、御影は心が痛んだ。当人である御影よりも母の方がよほど辛そうだ。
しかし、今の情報は御影にとっては全て初めて聞くものであった。
「ーー父様。今の、母様の話は本当ですか……?」
大吾は大きく頷く。
「ーーあぁ、本当だ」
微かに顔を強張らせる御影をよそに、大吾は更に言葉を重ねる。
「ーー九陰は忌み地だが、このアシハラではある意味では王都である一陽よりも重要な土地だ」
アシハラ王国の基本事項である。
アシハラの民は基本的に労働などの義務も無く、全ての衣食住が約束されている。
多くの民が遊び暮らせるその理由は、九陰の土地で無限に取れる金や銀、石油や石炭などの天然資源の為だ。
アシハラではこの有り余る資源を国外に輸出し、国土全体を養っている。
しかし、その恵みの対価とでも言うように九陰の地では日々大量の怪異が生まれ、九陰だけでは飽きたらずアシハラ全土に広がり人を喰らっている。
まさに天からの恵みである九陰の地が忌み地と呼ばれる理由がこれである。
「斎宮は怪異を沈める為、九陰の地で龍神様に日々祈りを捧げる。怪異の怨念を一手に引き受ける為か、歴代の斎宮は誰もが短命だ。神聖性を守るため、結婚も許されないと聞く」
父の話を聞いて、御影は胸を詰まらせた。
多くの民の豊かな生活の為に捧げられる自由を奪われた娘。まるで生け贄ではないか。
「ーー斎宮の巫女は、斎宮と苦楽を共にし、姫君の短い一生を側で支える為の存在だ」
大吾は御影の目を真っ直ぐに見詰め、言葉を続けた。
「ーー御影よ、どうする?」
斎宮の元に行くということは、まさしく自分の全てを捧げるという事だ。
自由を奪われた憐れな姫君が、理由は分からないが御影を欲している……。
「ーー行きます。私、斎宮の巫女になります」
御影の言葉に大吾は静かに頷き、清香ははらはらと涙を流した。
元々王命を辞退するなど土台難しい話だ。それでも、御影は自分の意思で斎宮を支える一助となりたいと思った。