2-22 怪異の夜
紅波を追って紅梅の間を出た御影は母屋を抜けるべく屋内を駆けていた。
屋敷内は不気味な程静まり返っていて、否が応でも御影に最悪の事態を想起させる
そして、御影のその予感は当たっていた。
その途中途中で屋敷の下女と思しき遺体が見るも無惨な状態で転がっていたのだ。
「なんて酷い……」
肉を裂き臓物を暴かれたそれらは十中八九怪異達の仕業に違いなかった。
そしてこれらが今は喜瀬の街へと放たれているのである。
「急がないと……」
あの男の身柄を押さえて、御影もまた喜瀬の怪異退治に向かわねばならない。
時間が無いのだ。
加倉井邸を脱した御影は高町大路を疾走していた。
「ーー何処に行くべきかしらね」
紅波を追うとは行ったものの男の行方は知れない。
紅波が出て行った後に紅梅の間に残されていた怪異達の対応に時間を取られていたのもある。
「まだそんなに遠くへは行っていない筈だけど……」
流石に喜瀬全体をしらみ潰しに探し回る訳にもいかない。
常人に比べれば捜索能力も追跡能力も段違いな御影だが、それでも限界はある。
焦燥を募らせる御影だったが、幸いにもその心配は取り越し苦労に終わった。
「あれは……っ」
高町大路の終わり、丁度月初めの清歩祭の際に使われる祭壇がある辺りに目当ての人物を発見したのだった。
夜闇に揺れる長い金糸の髪。そこに立っているのは間違いなく件の男ーー紅波であった。
「これはいけない。のんびりしていたつもりは無かったが、追い付かれたか。存外早かったな」
言葉とは裏腹に大して気にも止めていない様な軽い口調で紅波が言う。
そんな飄々とした紅波の向こう、そこに立つ人影に御影は目を見開いた。
「ーー絹香様っ!?」
そこにいたのは数刻前に御影の室から忽然と姿を消していた上位巫女、絹香だった。
(絹香様が何故此処に……? まさか……)
紅波とぐるか? 御影の脳裏にそんな考えが浮かぶが、紅波の向こうに見える絹香の顔を見てそんな考えはすぐさま吹き飛んだ。
御影の事など眼中に無いという様の絹香は鬼の形相で眼前の紅波を睨み付けていたのだ。
「ーー加倉井様を殺したのはお前か」
地の底から響くかの様な憎悪に満ちた絹香の声に御影も愕然とする。
(加倉井様が殺された……!? 紅梅の間に現れなかったのはもう既に死んでいたからということ……!?)
そんな中、殺意の籠った視線を向けられる紅波はあっさりと白状する。
「そろそろ潮時だったからな。私としても趣味と実益を兼ねた遊びだったので非常に残念だ」
そう言った紅波は「そう言えば」と絹香に話し掛ける。
「絹香、お前は随分と加倉井に懸想していた様だな」
紅波の言葉に絹香の瞳が揺れた。
「ーーしかし、どんなにお前が加倉井に尽くしてもあの男は最期まで妻と子供の事しか考えてはおらなんだぞ。
妻も子も既に死んでいるというのにそれなのだ。余程お前に魅力が無かったのだろう」
言葉に笑いを滲ませて紅波があげつらう。絹香を否定する様な言動に御影が抗議しようとするも、それよりも早く絹香が烈火の如く吠える。
「お前などに何が分かる……っ!!」
御影が聞いた事も無いような苛烈な声だった。
絹香の瞳には明確な殺意と憤怒の念が燃えていて、その苛烈さに御影は思わず息を呑んだ。
絹香が忍ばせていた短刀を握る。
その様を見て、御影も思わず声を上げた。
「絹香様、駄目です……っ」
御影の制止の声も届かず、絹香が眼前の怨敵目掛けて一歩踏み込む。
その時ーー。
絹香の身体が四方から切り裂かれた。
「ーーっ!?」
悲鳴、絶叫すら無く絹香の身体が倒れていく様を御影は呆然と見送る事しか出来なかった。
「絹香、様……?」
血に塗れた身体は既に事切れている様で、遺体に近寄る事すら出来ない御影はその場で犯人ーー紅波を睨み付ける事しか出来ない。
「ーー全く。無様で見るに堪えない。愛だの恋だのよく分からないものの為にろくに思考すら出来なくなっている……。人間とは実に愚かだ」
自らの言葉に「いや、人間だけでは無いか」と付け加えると、紅波は次に御影へと視線を向けた。
「さて、お前はどうする。最早見るべき物も無いので私としては引き上げたい所なのだが」
「……っ」
紅波を逃がす訳にはいかない。香のこと、加倉井のこと、小百合のこと、全てを明らかにするためにはこの男を必ず捕らえなければいけない。
(ーーどうしたらっ!?)
今の不可視の斬撃は間違いなく紅波によるものだろう。
絹香が切り裂かれる瞬間、御影は視界に二人を捕らえていたが御影の目には紅波が何かをしている様には見えなかった。
全くの無動作からの攻撃だったのだ。
受ければ防ぐ手立ても無い。
(ーーそれなら、攻撃を受けない様にするしかないっ)
瞬時に攻防の算段を立てた御影は忍ばせていた煙玉を地面に打ち付けた。
瞬間、大量の煙幕が発生する。
御影は後方に飛びつつ手早く印を組むと、隠形により姿を消した。
(あの男でも視認出来ない相手を攻撃は出来ない筈……っ)
音や土埃を立てない様に細心の注意を払いながら御影は地面を蹴った。
煙幕が晴れつつある場を興味深げに眺める紅波の背後からの峰打ちを狙う。
小太刀を構えた、瞬間。
「ーーあぁっ!!?」
御影の全身を激痛が襲った。
*****
「ーー殿、御影殿っ!!」
「……っ!?」
自分を呼ぶ幸路の声に御影は飛び起きた。瞬間、全身に鋭い痛みが走る。
「あぁ、ご無理はなさらず。まだ応急手当しか出来ていないのですから」と話す幸路の横には医務官の姿もある。
どうやら彼が御影の手当てをしてくれたらしい。
「全く。全身血塗れで倒れていたので、どうしたものかと思ったのですよ。絹香殿はあの様な状態ですし、御影殿も同様かと……」
その言葉に視線を幸路の先に向けると、そこには人形に盛り上がった布がある。幾らか黒ずんで見えるそれは恐らく絹香なのだろう。
「絹香様……」
近くにいながら守ってやることが出来なかった。自らの思いを嗤われ激昂した絹香。加倉井氏の敵討も叶わずに凶刃に倒れた。
御影は自分が受けた攻撃は絹香が受けたそれと同様だと思っていた。
(でも、それにしては……)
随分と傷が浅いのだ。絹香の傷に比べれば御影のそれは単なる裂傷である。見た目は派手だが軽症なのだ。
「まさか、手を抜かれた……?」
「? どうかされましたか、御影殿」
「いいえ、何でもありません。それよりも怪異の被害はどうなっていますか」
「郡兵が総出で対応に当たっていますが、怪異の数が多くまだ終息には至っていません」
幸路の言葉を反芻し、御影は痛む身体を叱咤して立ち上がった。
「私も怪異の対応に当たります」
御影の言葉に幸路と医務官の男がぎょっとする。
「なっ!? その傷では無理でしょう」
「見た目程酷く無いので大丈夫です。それに怪異の数が多いなら郡兵の方達だけでは荷が重いでしょう」
御影が軽く動いてみせれば、二人はもう何も言わなかった。対怪異ならば神通力の持ち主は最大の戦力なのだ。
「分かりました。私も援護しますので、無理はなさらない様に」
「はい、有り難うございます」