2-20 加倉井邸、潜入
子三刻まで後数刻……加倉井邸への潜入を命じられた御影と幸路は高町大路の人通りの少ない道を選びながら目的地へと向かっていた。
「ーー東海林様も神通力をお持ちだったのですね」
潜めた声で御影が言えば、幸路は幾分ばつの悪そうな顔をした。
「神通力とは言っても私のものは出涸らしの様なもので、御影殿の様に怪異を相手に出来る様なものでは無いのです。何かあっても期待はしないでくださいよ」
「どう考えても文官の私には荷が勝ち過ぎると思うのですが」と愚痴る幸路だが、実際のところは御影にも幸路にも何と無く見当は付いている。
斎宮星乃が幸路を御影に同行させた理由である。
この九陰において半ば不可侵の存在である加倉井氏だが、国司である幸路が現場を押さえる事が出来れば流石の加倉井氏も言い逃れは出来ない。
勿論、暴走しがちな御影の制止役という点も大いにありそうだが……幸路の主な役割はそこであると見るのが妥当だった。
やがて二人の眼前に暗闇の中でもはっきり分かる程の巨大な屋敷が現れる。
加倉井邸である。
二人は手早く目配せすると事前の打ち合わせ通り、夜半には余り使われていないという西側の中門へと向かった。
*****
「その……隠形の術、でしたか? それを私にも掛けられたら良かったのですが……」
「申し訳ございません、私の力不足で……」
すまなそうに御影が頭を下げる。
術を他人に行使するというのは隠形に限らず至難の技である。御影の育った忍の里でも数人しか出来ない事だ。
「いえ、無理ならば無理で仕方がない。それに御影殿の役割の方が負担も危険も多いのですからね……。どうかお気をつけて」
「はい、では行って参ります。東海林様は私が戻るまで此方の木の影に隠れていて下さい。人が出歩いていてる様な気配も無いのでおそらく大丈夫だとは思いますが、注意をお願い致します」
「言われずともそうしますとも」
幸路を庭に植えられた柳の木の元に残し、隠形の術を使用した御影は母屋へと向かう。
規模こそ斎宮殿とは比べ物にならないが、造り自体は同じ寝殿造り。南側には加倉井氏自慢の美しい庭と池が広がり、これが昼間で今でなければじっくり見学したい所だが、状況が状況である。
(急がないと……)
母屋へと侵入した御影は廊下を下女達が忙しなく行き来するのを見て、「当たり」だと目を輝かせた。
「紅梅の間にお酒を運んで頂戴」
「お食事の膳もまだ足りないわ」
「楽師の方達もそろそろ見える筈よ。誰かご案内して差し上げて」
廊下の角に立ち、御影は下女達の会話をしかと記憶する。
(ーー紅梅の間、ね)
食事の膳を運ぶ下女の後を着けていけば紅梅の間の場所も分かった。
順調だ。
紅梅の間を後にした御影は次に母屋の中でも取り分け人の少ない廊下を進み、やがて普段は使われていないと見える来客用の客間へと辿り着いた。
手早く天井を確認する。天井は低くは無いが箪笥を上手く使えば幸路でも天井に上がれそうだ。
しかもこの部屋は母屋の裏口からも来やすい。忍び込むには打ってつけだ。
(よし、これでいこう……)
経路の算段を立てた御影は母屋を後にし、幸路が待つ元へと戻るのだった。
*****
「ーーこの様な真似は二度とごめんです」
小声で、しかし不快感も露な様子の幸路に御影もまた小声で謝罪する。
「すみません、でもこれが一番安全なんです」
幸路の狩衣は見るも無惨な埃まみれで、おまけに蜘蛛の巣まで引っ掛けている。
御影も同様の状態だが、王都からやって来ている幸路にはこれも中々堪える様だ。
(いえ、普通の人は皆嫌よね……)
しかし、加倉井氏の悪行の一端を掴む為……そして、あの金髪の男との関わりを知る為である。
階下が俄に騒がしくなってきた。
どうやら始まるらしい。
天井板には御影が細工した小さな覗き穴が二つ開けられている。御影の合図で、二人はその穴を覗き込んだ。
広い座敷に十数名の男女が集められていた。
「ーー昼の茶会での顔ぶれと同じですか?」
「はい。人数は少ないですが日中にお見掛けした方々で間違いありません」
「まぁ、そうでしょうね……」
座敷には人々の潜めた声と共に何処か浮き足立った気配が漂っている。
皆、何かを待っているのだ。
「加倉井殿の姿は見当たりませんね……」
「そうですね。皆、加倉井様がいらっしゃるのを待っているのでしょう」
「そうですね。加倉井殿が入室してきた時が勝負です」
果たして、加倉井氏は香を用意してくるのか……。
座敷にざわめきがおこる。誰かが入ってきたらしい。
御影と幸路が人々の注目を集める場へと視線を向けーー次の瞬間、二人は目を見開いた。
そこにいたのは加倉井氏ではなく、長い金髪に紅い瞳の男だった。
*****
加倉井氏が来るとばかり思っていた加倉井派の男女は突如現れた見知らぬ男に困惑するが、当の金髪の男ーー紅波は朗らかに笑った。
「ーーやぁ、諸君。実に良い夜だな。この様な日に会えてとても嬉しいよ」
男女問わず魅了するかの様な妖艶な笑みに一同は呆けるが、いち早く我に返った郡司の男が紅波に問い掛ける。
「お、お前は誰だ? 見ない顔だ。我々の同志ではないであろう」
「そうだぞ。この会は加倉井殿と志を同じくする者達の崇高な集い。部外者は疾く立ち去れ」
加倉井派の拒絶の言葉に、しかし紅波は口許の笑みを崩さない。
「おぉ、つれないことだ……。しかし、残念だが今日此処に加倉井殿は来れない」
「何だと?」
「どういうことです」
紅波の言葉に加倉井派の面々の顔には戸惑いが浮かぶ。
「そう言えば、私が誰かという質問があったが……私はお前達の為に香の仕入れをしていた者だよ」
そう言って紅波は懐から黒い巾着包みを取り出した。男がそこから取り出した小さな円錐形の物体を見た瞬間、加倉井派の面々の顔色が変わった。
「それは……っ!?」
「おぉ、そうか……っ!! 加倉井殿に代わって我らに香を届けに来てくれたのか……っ」
「有難いな。いや、先程は失礼な物言いをしたな。許してくれ」
沸き立つ加倉井派の人々に、室内は歓喜に包まれていた。皆が皆、紅波の手の中にある小さな香に垂涎の眼差しを向けていた。
ーーしかし。
「何か勘違いしている様だが、今日お前達に渡せる物は何も無い」
紅波の言葉によって静まり返った室内に「では、何の為に……」と誰かの呟きが響いた。
紅波が笑う。そこには隠す気も無い嘲りの色が滲んでいた。
「お前達、もう十分楽しんだだろう。今日はお前達から香の代金を回収させて貰いに来たんだ」
室内に戸惑いと困惑が広がる。
「な、何を言って……」
「香の代金なら加倉井殿が持って下さっているだろう」
口々に言う加倉井派の人々だが、彼らの言葉を紅波はにべなく切り捨てる。
「加倉井殿、ね……。実のところ私は金など興味は無いんだよ。しかし、加倉井殿が資金繰りの為に青い顔で奔走する様が面白くてね……。
それにお前達……、この世の中でただで貰える物程恐ろしいというのは常識ではないか?」
未だ状況を飲み込めていない人々をよそに、言い終えた紅波が指を鳴らした。




