2-19 決行前
「ーー星乃様。御影、ただいま罷り越しました」
「どうぞ。お入りになって下さい」
斎宮星乃の許しを得て、御影は斎宮の居室へと入室する。この問答にもだいぶ慣れてきた御影である。
「ヒヨォーー」
斎宮の居室へ入った御影に、すっかりこの部屋の住人となったヒヨドリが突進する。
「あぁ、ヒヨ助。ふふ、こんばんわ」
「こら、ヒヨ助。御影を困らせるのはお止め。お疲れ様、御影。昼間は中々大変だったみたいだね」
手元の書簡から顔を上げて労いの言葉を口にする月灯に、御影は目を丸くする。
「月灯様、ひょっとして茶会での事をもうご存知なのですか?」
「うん」
そう言うと月灯は今の今まで目を通していたらしい書簡をひらひらと振って見せた。
「幸路が報告書を上げてくれてね。今ちょうど目を通していた所だよ」
「東海林様が……?」
先程会った幸路が酷く疲れた顔をしていたのは、本来の業務だけではなく茶会の報告書を作成していたからという事だろう。
(ーー流石は一陽から派遣されている国司。仕事が早いわ……)
「高価な香を加倉井派の多くに無償で与えているのだとしたら、流石の加倉井殿でも資金面で辛くなる筈……。
金鉱から金を横領する動機としては、まぁ有り得るかもしれないね」
「はい」
「でも、加倉井殿か……。相手が相手だし、確証が無い状態で本格的に探りを入れるのはまだ難しいな……。もう少し何かあればいいんだけれど……」
再び手元の書簡に視線を落とし、考える月灯。やはり斎宮という身分である月灯をして一筋縄ではいかない権力者というという所だろう。
「ーー月灯様。実はその件でお耳に入れたい事が……」
「?」
「ーーそれは、何というか随分と急展開だね……」
御影からこの数刻の間にあった出来事について聞かされた月灯は頭痛を堪えるかの様にそう言った。
「はい……。そこで月灯様に折り入ってお話が……」
「ん……。加倉井邸に潜入する為の外出許可をくれって言うんでしょ……」
「は、はい……。その通りです……っ」
半ば前のめりになって話す御影。月灯はそんな御影にチラリと視線を向けると、次いでその視線を畳に落とした。
しかし、その逡巡も一瞬のこと。
「ーー分かった。御影の外出を許可する」
以前よりもあっさりと出された許可に、御影は思わず目を見開いた。
「い、良いのですか……っ!?」
「うん、良いよ。だって御影……もし此処で僕が許可を出さなかったら、きっと忍の術を使ってでも勝手に斎宮殿を抜け出して加倉井邸に行っていただろう?」
「そ、それは……っ」
ジト目で御影を見やる月灯に、御影は視線を泳がせた。否定出来ない。
「良いんだよ。これでも御影のこと、少しは分かっているつもりだから……。遠野小百合の事もあるしね……。御影は彼女の事も気になっているんだろう?」
少し言いづらそうに言う月灯に、御影は頷いた。
あの茶会で……そして絹香からの情報により、小百合を狂わせたのはあの香であること。そして、その香は加倉井から与えられたものである事がほぼ確定的となった。
更に此処からは御影の推測となるが、加倉井が香の資金を得る為に障害となる斎宮の殺害を企て、それを小百合に命じたとすれば既に重篤な依存状態にあった小百合は逆らう事など出来ずに加倉井に従うしかないだろう……。
そして……これは最早御影の願望混じりだが、小百合の犯行の裏に加倉井がいたことが証明出来れば、もしかしたら小百合の罪状が軽く軽くなるかもしれない……御影はそう考えていた。
「月灯様、有り難うございます……。必ず証拠を掴んできます」
「でもね、御影……外出許可に一つ条件を付けるよ」
「条件、ですか?」
月灯の言葉に御影は身構えた。しかし、月灯の口から出た言葉は御影が思っても見なかったものだった。
「うん。加倉井邸への潜入に、幸路も一緒に連れて行って」
「しょ、東海林様を……ですか?」
「幸路はああ見えて神通力の持ち主でね。御影の話を聞く限り今回の件が怪異絡みと考えるのが妥当だろう。きっと力になってくれるよ」
「東海林様も神通力を……? 私や泰菜の前では全くそんな素振りをされていなかったので驚きました……」
「まぁ、幸路はあくまでも国司だからね。怪異を相手に立ち回るなんて事もないから」
「それもそうですね……」
確かにこの斎宮殿で普通に暮らしていれば怪異と遭遇するなんて事はそうそう無い。むしろ忍の術を使って立ち回っていた御影の方が問題と言える。
「まぁ、そういう訳で加倉井邸には幸路も同行して貰う。良いね?」
「承知致しました」
深々と頭を下げる御影に頷くと、月灯はおもむろに立ち上がった。
「それじゃあ幸路に声を掛けようか。松江と一緒に御影の室に行っているんだろう?」
「その絹香という巫女の事も気になるしね」と月灯が口にしたのとほぼ同時に、室外から声が掛かった。
外に待機する控えの巫女のものである。
月灯の了解を得て御影が応対する。
「ーー松江様と東海林様がいらしているそうです」
「丁度良い。呼びに行く手間が省けたね」
「ーー斎宮殿下、この様なお時間にお手を煩わせてしまい申し訳ございません」
「いいえ、幸路こそ……遅くまで働かせてしまい本当にごめんなさいね」
慇懃な態度の幸路に、深窓の姫君よろしく月灯ーー星乃が応じる。幸路にとっての斎宮は儚く神秘的な巫女姫に他ならない……つまるところ、幸路は星乃の正体を知らないのだった。
「それで、松江に幸路……。御影の室から件の巫女の姿が消えていたのいうのは真なのですね?」
星乃の問いに松江が頷く。
「はい。私も確認しましたが、絹香の姿はありませんでした」
松江の言葉に幸路が御影へと視線を向ける。その視線は「ほれ、見たことか」と言わんばかりだった。
「も、申し訳ございません……。私の考えが至らず……」
結局幸路の危惧していた通りになってしまった形になる。
(やっぱり絹香様を部屋に一人にするのはまずかった……? でも、星乃様への報告が最優先だったし、絹香様を連れて行く訳にも……)
後悔に駆られる御影を、星乃の声が現実に引き戻す。
「過ぎた事を嘆いても仕方がありません。御影も彼女なりに考えての事なのですから、今はこれからの事を考えるべきでしょう」
「えぇ、そうですね」
星乃の言に松江も同意するが、幸路だけは少々不服そうな顔を浮かべる。
「お二人とも、些か戸叶御影に甘すぎるのでは?」
幸路の責める様な視線に御影は萎縮する。
「幸路殿、今はその様な話をしている暇はない筈でしょう。殿下が仰せの通り、夜半の会合についてどうするか考えるべきです」
「そうですね。私とした事が申し訳無い」
そう言って頭を下げた幸路が、気を取り直す様に再度口を開く。
「ーーして、会合は今日の夜半子三刻……。余り時間もないですが……どうされますか? 確証も無い状態で郡兵を向かわせる事は難しいですし……」
「それについてはもう決めてあります」
星乃のきっぱりとした声音に、幸路と松江が注目する。
「御影と幸路に加倉井邸への潜入を命じます」




